エピローグ
我が家には、犬がいる。人間が好きで、子守が出来る優秀な犬だが、領民にとっては番犬も猟犬もできない駄犬だ。子供たちの面倒を見てくれる優しい犬は、我が家では、大活躍をしている。少々乱暴な遊びにも、私や夫の代わりに付き合ってくれる。子供と一緒に走り回るのは、我が家では、犬の仕事だ。夫は今も走れない。
今日も、愛想の良さを発揮して、長い毛の生えた尻尾を、機嫌よく振り回している。我が家の子守犬を撫でているのは、視察の最中、雨宿りという名目で、我が家にいらした高貴な御方である。人払いをして、犬を侍らせ、私達と一緒に寛いでおられる。
「人懐っこい犬だな」
「はい。簡単に人に懐いて、番犬が出来ないので、我が家で引き取りました」
高貴な御方の隣に腰掛け、人懐っこく話しているのは、私の夫だ。こうしてみると、夫は本当によく似ている。顔は高貴な御方に。人懐っこさは、我が家の犬に。
高貴な御方は、犬と夫にまとわり付かれているように見える。面白い。
「父が、亡くなる前に、王妃と王妃の実家の問題を片付けてくれたのは、幸いだった。先王妃の実家は取り潰しだ。先王妃は幽閉が決まった途端、自ら毒を仰いで死んだ。法律も整備した上で、長兄は王位を継いだ。今後、王妃となった女の実家が、王家を操ることはない」
高貴な御方の話に、私も夫も聞き入っていた。
「次兄と私は、先王妃の実家の領地を、大まかには二分して引き継いだ。詳細を調べれば、あちらがどうだ、こちらがどうだということになるが、引き継いで、如何に発展させるかが、領主の責任だ」
「はい」
目を輝かせて話に聞き入る夫に、三兄は微笑んだ。私達が領地に来る前、祝勝会でお会いして以来だ。あの時には、見せてくださらなかった優しい笑みを、親子ほど年も違う腹違いの弟に向けてくださっている。
先王妃様や、そのご実家の権力は、相当なものだったのだろう。ご自身の母を、そのように振り返らねばならないお立場とは、どういうものなのだろうか。平民の私には想像することも難しい。
夫は、長兄から譲り受けた、この小さな領地を、大切にしている。森の向こうの土地を治める領主と先代領主が、新米領主だった夫に、先輩として相談に乗ってくれた。当時は、道が今ほど整備されていなかった。足の悪い夫が、移動するのは本当に大変だった。それが運動になったのか、夫が歩く事のできる距離は、格段に伸びた。今では、足を引きずりながら、杖を使えば、相当な距離を歩ける。
「領主としては、お前のほうが長いだろう」
「まだまだ至らぬ身故、日々学ぶことばかりです」
夫と私は一緒にこの地に暮らし、子供たちを育ててきた。
息子たちは、外で、三兄の護衛達に、剣の稽古の相手をしてもらっている。教えたのは夫だ。夫は実戦を経験した。不自由な足を引きずりながらだが、夫の剣は荒っぽく、かなり実戦よりらしい。息子たちは、稽古で少々の怪我は当たり前と思っている。女の私には、それが世間一般で通用するのかわからない。大丈夫だろうか。
「そうか。ここに来るまで、民を見た。お前は良い領主のようだ」
「お褒めに預かり光栄です。これからも、精進してまいります」
兄と弟は、腕白たちの心配はしていないらしい。
夫の背に、犬のような尾が見える気がする。いつの間にか、夫と三兄の真ん中に犬が陣取り、二人がかりで撫でられているせいかもしれない。腕白たちを相手にする時は、父親然としている夫が、三兄の前で、弟になっているのは微笑ましい。
「息災なようで、何よりだ」
三兄が、目を細めた。夫が言ったとおり、王家には王家の事情があったのだ。
「また、来ることもあるだろう」
「はい。ぜひ、お待ちしております」
三兄と夫の会話が終わり、降ってもいなかった雨は止んだことになった。
去っていく三兄の一行が見えなくなるまで、夫はずっと見送っていた。きっともう、いらっしゃらないだろうと、夫も私も思っていた。
王都と御領地の移動の際、毎度のように我が家に立ち寄られるとは、それも時に、領地が近い次兄も一緒にいらっしゃるとは、夫も私も予想していなかった。
その度に、護衛達に相手をしてもらっていた腕白な息子たちは、彼らに憧れたのだろう。騎士になると言い出した。
夫はにっこり笑った。
「僕に勝てるくらいじゃないと、無理だね」
私はその日、夫の本気を初めて見た。犬は怯えて、しばらく夫に近づかなくなった。番犬にも猟犬にもむいていない犬には、本気の夫は、あまりに恐ろしすぎた。
実戦を生き抜いた夫に鍛え抜かれた息子たちは、王都で無事に騎士の選抜試験に合格した。その後、さらに精進し、国王となった長兄の孫たちの護衛騎士兼遊び相手にも選ばれた。
そこで、少々問題があった。私達は、息子たちに、夫が元王族であることを伝えていなかった。息子たちが生まれる前のことだから、もう関係ないと思っていた。関係ないというには、夫はあまりにも兄達によく似ており、息子たちは夫に似ていた。
まだ王宮で働いていた同級生たちが、息子たちの顔を見て、私達の若い頃を思い出したらしい。わざわざ確認のために、領地に来てくれた。あの時の、彼らの呆れた顔は、なかなか見ものだった。
腕白だった息子たちは、利かん気な殿下方をお相手に、立派にお勤めを果たしているらしい。ご褒美に、私達夫婦は、王宮にお招きいただいた。次兄と三兄からも、王宮で会おうとお約束を頂いている。
明日、そのために領地を出発する。緊張した夫は、立ったり座ったり、部屋を歩き回ったり、落ち着きがない。
兄上達との再会を楽しみにしておちつきのない夫が気になったのだろう。我が家の二代目の犬が夫の足にまとわりつき始めた。
夫と私がこの領地で暮らすようになり、随分な年月が経った。今では夫が第四王子殿下であったことを知らない人のほうが多い。当然あの予言のことなど、忘れ去られている。
私達は幸せだ。
<本編 完>
前日譚(別視点)に続きます。




