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はっ、はっ、と苦しげな息遣いが聞こえる。
グラスは一旦、清夏の頭を自分の膝の上に乗せる。清夏がどんな状態なのかを確認するためだ。
清夏は胸の当たりを押さえ、額には玉のような汗が浮かんでいる。
体温は心做しか高い気がする。彼に触れているところがじわりと熱い。
移動したくても周囲がどうなっているのかよく分からない。誰か呼ぼうにも外に出てしまっているため、人がいない。八方塞がりだ。
「ぅっ……ゔぅ……グァァ!」
どんどん清夏の息が上がって、獣じみたものに変わる。
早く、早く何とかしなければ。
気持ちだけが急ぐ。
どうしたらいい、どうすればいい。
思案していたら急に膝の重みが無くなった。
膝から転げ落ちた?
と思ったら、目の前から巨大な気配がした。
「グァァァ!」
獣の声。正気を失っている。襲われたらグラスや体調の悪い清夏はひとたまりもない。
「清夏様!どこにいらっしゃいますか!」
せめて自分が囮になって、清夏を逃がそう。
そう思って、清夏に呼びかける。
「逃げてください!けほっ……こほっ」
大声で叫んでしまって喉が痛い。初めてこんな大きな声を出した。
けれどそれで、獣を刺激してしまった。
獣はグラス目掛けて、猛スピードで駆けてくる。
獣はグラスの肩に噛みつき、グッと歯を突き刺してきた。
「ああぁぁぁぁっ!」
ボタボタと血が溢れ出す。それを獣は美味しそうにごくごくと飲んだ。
痛い、痛い、痛い!
焼けるように痛く、血を啜られる感触は気持ち悪い。
何とか口を外そうと抵抗してみるも、逆に噛む力が強くなって酷く痛む。
どんどん目の前が暗くなってくる。
血を失いすぎた。
死ぬのかな、私。
そう思って浮かんだのは涙と、清夏の顔だった。
☆☆☆☆
苦しくて、痛くて。
「ぅっ……ゔぅ……グァァ!」
多分自分はあと少しで正気を失うだろう。
逃げて、と言いたくてもはくはくと唇が動くだけで、声は出なかった。
それならば少しでもグラスから離れた方がいい。
ゴロリとグラスの膝の上から転げ落ちる。
グラスは急に膝の重みがなくなって慌てていたけれど、説明する時間も理性も残っていない。
ああ、美味しそうな匂いがする。グラスの方からだ。彼女を喰らいたい。
理性でそれを押さえつけるけれど、どんどん腹が空いてくる。酷い飢餓感に襲われ、目の前が霞んできた。
ブチっと清夏は自身の理性の綱がちぎれた音を聞いた気がして、そこで意識がとだえた。
清夏身体がどんどん変化していく。黒かった髪は白くなり、顔や身体が獣へと変じていく。
やがて白く輝く白狐が現れ、とんっと地をけって少しグラスとの距離をあける。
グラスはそれに気づかず、清夏に逃げろと叫ぶ。その声を聞いて白狐は、全速力でグラスのほうへ駆ける。
清夏の意識はない。ただ、本能に従って走る。
この匂いの先に、自分を助ける何かがある。早く欲しい。早く。この飢餓感を満たしたい!
白狐は躊躇いもなくグラスの肩に噛み付く。鋭い歯が柔らかいグラスの肌を、いとも簡単に貫いた。
どくどくと脈打つ血が溢れる。口を真っ赤にし、それでもまだ足りぬというようにグラスの血を貪り続けた。
グラスが意識を失った頃。
「……何してんだ!」
「グァァ!」
その声とともに疾風が顕現し、白狐の体を吹き飛ばす。
現れたのは颯だった。
「だから無茶すんなって言ったのに!クソっ!」
悪態をつきながら術を白狐に向けて放つ。白狐はふらりと立ち上がると、飛び上がって術を躱す。けれどさっきのダメージが大きかったのか、思うように動ず、次の颯の術が当たる。
「グァァ!グルルル!」
白狐は颯に噛みつこうと試みるが、術が邪魔でなかなか距離を詰められない。
「早く気絶しやがれ!このアホが!」
特大の術が白狐の体に当たる。巨大な体が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
それから白狐はピクリともしなくなり、白かった毛皮は黒くなり体も元に戻る。
それを見ると颯はすぐさまグラスに駆け寄り傷口を押さえる。血でドレスが赤に染まり、少しどす黒い色になっていた。
「クッソ!傷が深い……血が止まらねえ!」
グラスの肩の傷を押さえ止血しようと試みるが、血が止まらない。
グラスの体がどんどん冷たくなってくる。
「治癒術は使えないんだよ!せめて清夏が目を覚ましてくれたら……」
清夏は治癒術が使える。けれどその本人は気絶したまま動かない。
「もう、よろしいです……」
ぽつりと静かな夜に落ちたその声は。
酷く落ち着いていて、澄んでいた。
「はぁ!?」
すごい形相の颯にそう言ったのは、気絶から目覚めたグラスだった。
肩を押さえる手を掴み、まっすぐ颯の目を見据える。
「手を離して」
「なんで?押さえてないと血が……!」
「離しなさい」
「っ!」
睨んでもいない、声に力が入っていた訳でもないのに。形容できぬ恐怖が颯を襲う。言われた通りに手を離してしまった。
ボタボタと流れ続ける血を気にも止めず、ゆっくりと体を起こす。
「祓え」
小さくそう呟くとグラスの白い髪が風もないのにふわりと舞い、淡く発光する。
みるみる肩の傷が治り、何事も無かったように飛び散っていた血も消えた。
目をまん丸にして呆然とする颯だったが、はっと意識を切りかえ清夏の方に駆け寄る。
「清夏!」
「ぅ……」
清夏を抱き起こし、必死に呼びかけるが目を覚まさない。そこにゆっくりとグラスは近づく。
「大分、溜まっているようですね。私の血をあれだけ飲んだのに、まだ燻っているなんて」
グラスは清夏の額に手を当てると、深く息を吸って吐く。そして白く輝く真ん丸な月に向かって高らかに告げた。
「月守の神、諸々の禍事罪穢を祓わん」
すると、キラキラと白くて まあるい雪のようなものが頭上──月から降ってくる。それらは清夏に当たると弾けて消えた。それと同時に、颯の術で負った怪我も一緒に消えた。
「う、ん……」
「清夏!」
すぐに、少し身動ぎをして清夏がうっすらと目を開ける。
頭がまだ働かない。目の前がグラグラして少し気持ち悪い。正直もう少し寝たいところだ。あと颯の声がうるさい。
自分はどうなったんだろう。グラスは無事だろうか。あー……このまま目を閉じたらすごい爆睡する自信がある。
けれどその眠気も颯のうるさい声で吹き飛ばされる。
「清夏、歩けるか?」
「支えがあれば、なんとか……ある、け……」
「おい!寝ようとすんな!」
「わかってる……」
頑張って重たい瞼を上げれば、目の前に白く輝く少女がいて一瞬女神かと思った。けれどすぐにふらりと揺れ視界から消える。
ドサッという音がし、そちらを向くと真っ青な顔をしたグラスが倒れていた。
ついったーにオリジナルのイラストをあげてみました