かけ違いの歌
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
はーい、こーらくん、ご一緒に。ファ〜。
ほらほら、笑っている場合じゃないわよ。ファ〜。
うーん、それはドの音よ。もう少しお腹からのどへ通して。ファ〜。
……よし、だいたい許容範囲ってところかしら。
今度の歌のテスト、こーらくん的にも大事なところでしょ。学年末に向けての、ラスト二回のうちの一回だもんね。私が師匠役をする以上は、きっちり形にしてくんないと。
ま、後は実際の歌い方かしらね。少し休んだら再開しましょうか。
――え? 多少は音がずれていたって、違和感を覚えない程度なら問題ないんじゃないか?
あらあら、こーらくんがそんなことを言い出すなんて。ちょっと指導が厳しかったかしら?
けれど、ここは踏ん張りどこよ。あまりに調子っぱずれならともかく、こーらくんはオクターブの近い音出すからね。きっちり仕上げておかないと、テスト以外にまずいことが起きるかもしれないから。
――どんなヤバいことが起こるって?
うーん、じゃあ休憩ついでに話をしましょうか。
私のお母さんも、学生時代に歌のテストで苦労したみたいなのよね。
成績表で唯一、最高の評価をもらえないのが音楽。その実技の観点のところだった。楽器の演奏はできるけど、歌を歌うのだけは、どうしても先生を満足させられてないようだったとか。
もともと、歌手を目指していたという音楽の先生。でも、いまはとてもそうは思えないガラガラ声をしていたらしいの。これからってときに、のどの病気を患ってしまい、後遺症が残ってしまったとかなんとか。
最初の自己紹介で、先生自身がひょうひょうと話してくれたこと。けれど歌に対する姿勢の厳しさから、きっとまだ夢を捨てきれないんじゃないかと、お母さんは感じたわ。
授業の冒頭、複数回に分けて行われる歌のテストは、決まってお母さんがトリを務めたわ。お母さん自身、手を抜いたわけじゃないけど、どんな曲を口にしても「あ、音外した」って節が、一ヶ所は出てくる。
他のみんながどれほど聞き取れたか分からないけど、お母さんは自分の顔が真っ赤っかになっていくのを感じたわ。さらし者にされているって屈辱も、それを手伝う始末。
最終的に、授業が終わって次のコマまでの空き時間に、お母さんは先生に申し出て、もう一度テストをしてもらう。そのときには満足いく結果になるのも、ますますお母さんのプライドを傷つけたわ。
ミスをすすぐためにやる追試願いだけど、一発合格よりも心証が悪くなることは明らか。音楽の先生は毎回つき合ってくれたけど、お母さんとしては申し訳ないやら、情けないやらで複雑な気分を抱え続けていたみたい。
そして、今年度の歌のテストも残り2回に迫った年末。
万全の準備をして臨んだ今回も、やはりわずかな音程のズレをお母さんは感じていたわ。どうにか顔を赤くしないよう、赤くしないようと努めたけれど。熱が這い上がってくる感覚は防げなかった。
先生も呆れているのか。ピアノの伴奏こそしてくれるものの、いつもは歌い手を見てくれる顔が、今回は途中からそっぽを向かれてしまったとか
すでに季節は12月。2学期末の成績が出るまで、もう間がない。お母さんはまた先生に直談判して、歌の再試をお願いしたの。
あとは音楽の評価さえ上がれば、完全無欠の成績表になるんだから――!
先生は快諾してくれたけど、いつも通りの一回限りの追試とは違う。できる限り、音楽室が開いているときには足を運んで、歌の練習をしていくことを奨めてくれたのよ。
渡りに舟! とばかりにお母さんは飛びついた。ここで積極的な姿勢を見せたなら、評価に加点をしてもらえるかもしれない。昼休みといわず、お母さんは朝も放課後も、音楽室を訪れたわ。
音楽室には、吹奏楽部が使っていたのか。時間によってサックスやユーフォニアムなどの楽器がひな壇に乗せられたり、壁に立てかけられていたりしたそうなの。「ケースとかにしまわなくていいのかしら」と思いながらも、お母さんは課題だった歌の再挑戦に臨み続けたわ。
けれど、うまくいかない。
本番で外したところを意識すれば、今度は別のところをトチる。そのたびやり直すけれども、もっと気になったのは先生の伴奏だった。
あいかわらず、ほとんどそっぽを向いているのに加え、音を外しているところがある。わずか半音のズレだったけど、音感のあるお母さんには分かった。なまじ聞こえるぶん、どうもそちらに釣られてしまうこと、しばしばだった。。
そのたび先生はやり直しを強要してきて、お母さんもさすがにむっとしたわ。評定がかかった相手じゃなかったら、すぐさま反撃していたところ。けれども先生の機嫌をそこねて、成績を上げる機会をフイにはできないと、我慢に我慢を重ねて、練習に顔を出したらしいのよ。
回数を重ねるうち、お母さんには気づいたことがある。
音楽室に置かれた、件の吹奏楽の楽器たち。彼らが急速に傷み始めているのを。
初めはティンパニを構成する、太鼓のひとつ。お母さんが練習を始める前まで異状がなかったはずのそれが、練習を終えたときにはヘッドに小さな穴が開いていたの。ちょうどマレットの先がすっぽり入るくらいのね。
見間違いかと思ったけど、故障していく楽器の数は日に日に増えていったらしいの。
――自分が音痴だから、道具たちが聞きかねて壊れていってるんだ……!
そんな想像さえしてしまうほど。
先生が、しょっちゅうそっぽを向く理由も、ようやく見当がついた。先生が視線を向けていた先にあった楽器や備品が、練習の後でことごとく破損していったから。
――きっと、私があの楽器を壊すのを無くさない限り、評価は上がらない。
そうお母さんは信じたの。そして終業式の3日前を迎えたときのこと。
「今度は一曲、すべて歌ってみましょうか」
先生からの提案。これまでは部分こそ違えど、断片的なフレーズのみだった。それが一曲まとめてなんて、さすがに不審に思ったわ。
今回、お母さんと先生を取り囲む楽器たちは、これまでにないほどの多量。異様な雰囲気をたたえながらも、お母さんは「是」と答えたわ。
曲が始まる。これまで何度も何度も練習した出だしを迎え、お母さんは歌う。
けれどおかしい。どんなに頑張っても、楽譜通りの音程より一音高い音を出してしまう。
やり直そうと思ったけど、口そのものもまた言うことを聞かない。ひとりでに動き、声をつむぎ、本来なら存在しないパートを歌い続けている。
先生の演奏も、これを待っていたかのようにオクターブをあげる。グランドピアノに半ば引っかかっていたカバーが、風もないのにはためき出したわ。
サビに入る時には、もう先生がそっぽを向いていた。お母さんの斜め45度、そちらをきっとにらみながら、椅子を立ちあがる。それでもまだ指は鍵盤を叩き続けていたそうなの。
お母さんは歌う。先生を見つめながら、唇を開き、のどを酷使する。いまにもせき込みそうなくらい、口の奥がひりひりしていた。
ついに伴奏が止む。アカペラになりながらも、お母さんは残りの数フレーズを歌い上げにかかってしまう。
「――いける、いける、いけるわ」
先生はピアノを回り込み、お母さんの脇を通り過ぎていく。
身体は動かない。かろうじて目だけで先生の動きを追うと、お母さんとすれ違いざまぽつりと先生はつぶやいたわ。
「かけ違ったもの。返してもらうわ」
横目が終える限界を越え、先生の姿が消えたとたん、吹き飛ばされそうな暴風がお母さんの背中へ叩きつけられた。
制服も髪も、その下の皮さえも引きはがされるかと思う強さ。それでもお母さんの身体はたじろがず、なおも最後のフレーズに向かって、声を高めていく。
そして締めのロングトーン。長く長く続けるその音が消えていく途中で
「――入れてよ。そこに」
他でもない。お母さん自身の声が、お母さんの背中から聞こえたかと思うと、どんと突き飛ばされて、硬直が解けたわ。
かろうじて手をつけたお母さんが振り返ったときには、ボロボロになった楽器たちが転がっているばかり。音楽の先生の姿はどこにもなかったって。
それから先生が帰ってくることはなく、新学期には新しい先生がやってくる。
お母さんはというと、歌に関しては完璧になったわ。けれど、音楽以外の科目すべてで最高の評点を取っていた頭には、少しもやがかかってしまったかのよう。
覚えていたはずのことが思い出せず、点が思ったように取れない。それでも上位は保っていたけど、オール5からはほど遠い存在になってしまったらしいの。
お母さんはいまでも、先生の言い残した「かけ違ったもの」という言葉を気にしている。
ひょっとしたらお母さんと先生は、ほんのわずかにずれる音と歌声で、ほんのわずかに「かけ違った世界」につながったのかもしれない。
楽器たちも、お母さんも、そのせいでちょっと「かけ違った」ものになっちゃったんだと。
でも先生は逆に、「かけ違った世界」に行けたのだと思うって。あっちで先生は、かつて諦めた夢を、叶えられたのかしら?