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『アンバー』の場合

「緑色の鳥はどこですか?」


 朝方のキャンパス、大講堂前の広場。まばらに行き交うは近隣住民、連れられる犬。雀が茂みからそれをじっと見ている。

 声をかけられた都築が膝の上のハードカバーから顔を上げると、その声の主がすぐそばに立つ髪の長い女だということがわかった。


「明上さんだ」


 栞紐を挟み込んで、重い表紙をぱたりとたたむ。


「おはよう、朝早いね」

「野宮先輩から、」


 挨拶を返すでもなく、明上と呼ばれた女は続ける。


「朝のキャンパスには緑色の鳥が飛んでいると聞いたのですが」

「うん」

「どこにいるのでしょうか」


 明上の質問に、都築は「えー?」とあたりの建物の最上階あたりに目線をめぐらし、それから腕時計を見る素振りをして、そこに腕時計がハマっていないことに気付き、ポケットから携帯を取り出して時刻を見た。


「まだ6時半か。あと30分くらい待たないとこのへんには来ないよ」

「そうですか」

「あ、部室の鍵いる? 外で待ってるの寒いでしょ」


 じー、と都築が横に置いたカバンのファスナーを開くのを、「いえ」と断り明上は隣に座った。「そう?」と都築は首を傾げ、鍵を一度取り出して、またしまいこんだ。


 都築はハードカバーを再び開く。

 明上は足元を横切る飛ばない雀をじっと目で追っている。


 銀杏の色付き始める季節、朝の空気はすでに冷たく、すでに長いことここに座っていたらしい都築の頬と指先は真っ白になっている。明上も数度指先を擦った。


「今、話しかけても?」

「どーぞー」

「都築先輩はいつからここに?」

「1時間くらい前かな」

「なぜ」

「この本がさ」


 ひょい、と都築は裏表紙に貼られた『月橋大学図書館』のバーコードを見せるように本を持ち上げて、


「返却期限今日までなんだ」

「…………はあ」

「だから外で読もうと思って」

「……なぜわざわざ?」

「いや寒いから早く読み終えて中に入りたいと思うじゃん。だから集中できるんだよね」


 あはは、と笑う都築に、明上は頷く。


「馬鹿なんですね」

「明上さん意外と常識あるね」

「そうでしょう!?」


 いきなり明上がカッと目を見開き、大声を出して立ちあがった。雀が飛び立ち、ふたりの背後で認識されていなかった鳩も飛び立った。散歩中の近隣住民が一瞥したのち、気にせず目の前を横切っていった。


「私がこの世で一番の常識人でしょう!?」

「うーん、たぶん常識人って自分のこと常識人って言わないかなー?」

「じゃあ何と言うんですか!?」

「そもそも自己言及しない」

「それはただの自意識のない人です!」

「うん、そだね」


 ははは、と口にしながら微妙な表情で都築はページをめくり、すぐに戻る。頭に入っていなかった。


「自意識の話をしてもいいですか?」

「ご自由にどうぞ」

「自意識の話を聞いてもらっていいですか?」

「今じゃなくちゃダメ?」

「人から聞いた緑色の鳥なんていうとてもどうでもいいようなものに人生の希望を託して朝5時に起きて大学まで来て寒風の中吹きっ晒しに佇んでしまうそういう私のどうしようもない自意識についての話をたった今この瞬間この場で聞いてもらっていいですか?」

「がんばってね」

「こういう話を大学に入った途端に半年くらいの付き合いしかないような先輩相手にボロボロ話し始めてしまうあたりが本当に浅ましいと思うのですがどうでしょうか」

「話し始めちゃった」


 飛ばしてるなあ、と都築は諦めたように苦笑して溜息をつき、ぱたぱたとハードカバーの表紙をたたんだり開いたり。


「幸せならなんでもいいんじゃない?」

「私は幸せなんですか?」

「どうなの?」

「胸やけがします。それと頭痛」

「朝弱いんだ」

「すべてが失われる一瞬前に残されるのは頭痛と胸やけがすべてだと思いませんか?」

「うーん、そうかもね」


 くぁ、と都築は小さくあくびをして重さに負けて瞼を下ろした。指に挟んだままの表紙がゆらゆら揺れる。


「愛なんですか?」

「うん?」

「やっぱり愛しかないんですか?」

「うーん、でも」


 都築は身体をゆらゆら揺らしながら、


「それ、最後に残りそうなものに愛って名前をつけてるだけじゃない?」

「悪いことですか?」

「いいんじゃないすか……」


 最後は消え入るように声が小さくなった。不思議に思った明上は、このときになって初めて自分が話しかけていた相手に視線を向けた。


 本を読んでいる人と同じ体勢を取っていた。

 けれど瞼は下りきっていて、すうすうと寝息が聞こえている。


 都築は人と話している途中で眠りに落ちていた。ごく短時間で。


 明上はその眠る姿を見つめ、都築の首へ手を伸ばす。


 柔らかい髪の毛をかき分け、細い喉に触れる。探るように皮膚を撫で、脈動を感じたところで人差し指を止めた。


 明上はじっと都築を見つめている。


 かほっ、と都築が咳をして、明上は手を離した。

 眠たげな半目を開いた都築は無意識のように喉に手を置き、さする。


「風邪引いたかな」

「馬鹿なんですか?」

「なら風邪引かないんじゃない?」

「その紀元前から繰り返されたようなありきたりな返しが馬鹿の証明という感じですよね」

「うーん、確かに」


 くぁ、ともう一度小さくあくびするのを手で覆い隠した都築は、うーん、と背伸びをして、それから、あ、と声を上げた。


「鳥」

「え」

「あれ」


 明上にわかるように都築は肩を寄せて教室棟の上方を指差す。明上もすぐにわかった。10羽ほどの緑色の鳥が壁に止まっている。


「思ったよりもビビッドな緑色をしてますね」

「だよね。最初幻覚かと思ったもん」

「あれは何の鳥なんですか?」

「さあ?」

「知らないんですか」

「検索してもよくわからなかったし、鳥に詳しい友達もいないし」

「私には友達自体がいませんが」

「そうですか」


 ふたりは並んで座って、緑色の鳥の群れを見ていた。ふたつの教室棟の間を行ったり来たりするだけで、特にそれ以上の行動パターンはない。

 また眠気に負けてきたのか、都築の目尻がとろんと垂れ下がり始め、


「……帰ろ。眠いし寒いし、風邪引きそうだし」

「都築先輩は何をしに来たんですか?」

「徒労」

「人生という感じがしますね」

「人生という感じがするでしょ」


 よいしょ、と都築が立ち上がる。明上が同じく立ち上がったのを見てもう一度「鍵いる?」と尋ねて、もう一度首を横に振られた。


「それより私、見たい映画があるのですが」

「……あ、今から行こうみたいな話? いやごめん風邪っぽいし、」

「大丈夫です。旧作ですから」

「…………?」


 都築は首を傾げ、


「あ、うちで?」

「はい」

「えぇー……」

「いいですか?」

「まあいいけど……」

「では行きましょう」


 と、明上は方向もわからないまま都築の先に立って歩き出した。

 そしてすぐに段差で蹴躓いた。


「大丈夫?」

「視力矯正具をつけていないと段差が認識できません」

「つけたら?」

「私もそう思います」


 でも、と明上は躓いた段差を爪先で叩いて、


「その方が人生という感じがしませんか?」


 くしゅん、と都築は口を覆ってくしゃみをして、それからうーん、と顔を上げ、緑色の鳥がどこか遠くに旅立つのを見つめ、


「たしかに」


 そうしてふたり、人生という感じがしていた。

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