【Good after moon】
【Good after moon】
あなたはどのようなことを心の支えにして日々を生きていますか?
生理的欲求ですか?
社会的栄誉ですか?
神ですか?
私は神でした。
神と言うと身構える方も多くいらっしゃるかと思いますが、何もそんなに大袈裟なことではありません。私は無宗教です。
超越的なものです。
恋したことのない人にとっての愛。
満足したことのない人にとっての幸福。
泣いたことのない人にとっての信仰。
始まりはほんの些細な、どこにでもあるものでした。
幼い私は尋ねました。
”人はどうやって生まれてくるの?”
困った母はこう答えました。
”色々だよ”
字面を見るとすでにこの時点で何らかの思想の種が見えるような気もしますが、続きがあります。
私は重ねてこう尋ねました。
”ならわたしはどうしたの?”
こう答えました。
”もと光る竹の……”
アドリブに弱い母でした。私にもその性質は受け継がれていますので、そのときの心情は察するに難くありません。
しかしその苦し紛れの子供騙しが、私の人生を大きく決定づけてしまいました。
当時の私はすでにかぐや姫の話を知っていました。ゆえに、思ってしまったのです。
『ならわたしにも、いつか月からお迎えが来るはず』と。
もしも私の人生に『本来あるべき形』というものがあり、そして今そのとおりの形になっていないとしたら、それはきっと、この瞬間が原因だったと思うのです。
そうして、私は10歳になっても月からの迎えを待っていました。
12歳になっても待っていました。
15歳になっても待っていました。
17歳になっても待っていました。
18歳でようやくそれがやってこないという認識を飲み込むことができました。
これからするのはそのときの、私が月を諦めたときの話です。
友達はいませんでした。苦ではありませんでした。頭の中にある想像の方が肌に触れる世界よりもずっと美しく思えたので。卵と鶏のようにそのどちらが先だったのかはわかりませんが。
夜はずっと自分の部屋でカーテンを開けて、空を見ながら音楽を聴いていました。日中は大体眠っていたと思います。学校には行っていました。学校で眠っていました。怒られはしませんでした。悪いことをせず、成績さえ良ければ後は何も気にされない学校でした。
だからその日も電気を消した部屋でひとり、窓から覗く月をずっと見ていました。
視力はよくありません。眼鏡もコンタクトもなしでは兎の姿や女性の横顔どころか輪郭すらぼやけてしまって、月光の帯だけが眩く瞳に映っていました。
聴いていた曲をよく覚えていません。クラシックだったような、ロックだったような、ポストロックだったような、ポップだったような、ヒップホップだったような。ただ漠然と、その日も”そろそろ泣いておこうかな”と考えていた、しかしそのときだったのを覚えています。
月光の中を、何かが滑り落ちるのを目にしました。
空に見える未確認飛行物体の種明かしは世に溢れていて、私はその多くを知っていました。そのときも色々な可能性が思い浮かびました。思考とは別に、身体は動き出していました。
熱帯夜でした。ヘッドフォンを外すと虫の声が静かに響いて、私は部屋で着ている体操服姿のまま、サンダルをひっかけました。玄関を出たところで湿気に不快を感じ、出戻って虫よけスプレーを腕と脚、それから足の指にまで吹きつけました。家のすぐ前の街灯には羽虫が集っていて、パチパチ音を立てていましたが、日中あれだけ騒がしかった蝉は土の中に帰ってしまったように静かで、夜の空が音をほとんど吸い上げてしまったかのようでした。
踵からすぐに逃げ出す、サイズの合わないサンダルで、月から落ちた何かを探しました。
それを信じていたのか、と問われれば、私は曖昧に頷くしかありません。17年地上に取り残されて、信じているようで信じていなかったような、答えにしにくい心境でした。信じたいと思っていたのか、と問うてほしいと思います。私は力強く、とは言いませんが、迷わず頷くことができます。
それは簡単には見つかりませんでした。それが良いと思いました。支払った労力がそのまま結果に反映されるような気がしていたのです。そんなわけはないのですが。
時間が経つにつれ、道端に落ちる何もかもが私の探し物であるような気がしました。夜露に濡れる草むらの中に宝物が横たわっているような気がしました。つまるところ、わからなくなっていました。そもそもが窓の外にぼんやりと見えた飛来物を歩いて探すということに無理があったのです。
いっそもう帰ってしまおうか。そんな考えが浮かぶと同時に、無性に腹立たしい気持ちが湧きました。あの頃は唐突に何かに苛立つことがよくありました。今でもあります。
右に曲がって左に曲がって。
左に曲がって右に曲がって。
そんなことを繰り返すうちに元いた場所に戻ってしまって、同じところをぐるぐると回って、そのまま人生が終わってしまうような気がして、さらに胸が悪くなりました。
それから、まっすぐに歩きました。もうずっと、まっすぐに。
投げやりになっていました。このまままっすぐ歩き続けて、行き着くところまで行ってしまおうと思っていました。そして、決してその行いで自分の気分が晴れることはないだろうということもわかってしました。
けれど、見つけてしまったのです。
長い道の向こうに、光る何かが落ちていました。
私は運命を信じていました。だから、それである、と思いました。
近寄って拾い上げたのは、琥珀色の、鉱石のようなものでした。自然のものにも人工物にも思えるような手触りのそれを握り締め、私は来た道を帰りました。
そのとき、ようやくすべてが始まるような気がしていたのです。
しかし、何度月が昇るのを見ても、降るのを見ても、私の生活に変化は訪れませんでした。
窓辺に置いた琥珀色の石はかすかに光るばかりで、豆電球以上の働きをしませんでした。起きて、学校で眠って、帰って、ぼんやりと月と石を見比べているだけで日は通り過ぎ、何もかもが取り返しのつかないように失われていく焦りがじんわりとカレンダーに染み込んでいく日々でした。
いっそ喋りでもすればいいのに。
思い、指でつついても反応はなく。水に沈めても変わりはなく。土に埋めたとき自分の滑稽さに気づきました。あのとき、世界で一番愚かなのはお前だと、星が語ったような気がします。
呼吸しているだけで季節は過ぎ行き、冬の香りが鼻を乾かすころにはすっかり風変りな小物として部屋に馴染んでしまいました。
高3の冬です。
特別切羽詰っていたとかそういうことはありませんでしたが、用事が立て込んで、夜中にずっと月を眺めるどころか、部屋にいる時間も減り始めました。私は用事がない限りはずっと部屋にいるような人間でしたので、かえってその頃の方が家にいる時間が少なかったのです。
冬の日の落日は早く、部屋に帰るころにはいつも琥珀の光だけがじんわりと部屋を照らすようになりました。何度も何度も何度も何度もそういう日が続き、雪の日のことです。
日が落ちたにも関わらず、窓の外は明るく輝いていました。雪の白く光るのが、部屋の中まで届いていたのです。
部屋に入ったとき、いつもと違う、冷たい空気を感じました。単に光の色の問題だったと思います。普段の石から発せられる黄色系統の光とは違い、雪の放つのは青色がかった光でしたので。
けれど、そのおかげで気が付きました。その頃にはもうめっきり手に取ることもなくなって、琥珀色の奥に眠っていたそれの、今の姿が、その日はよく見えたのです。
ふたつになっていました。
同じ大きさのものがふたつ並んでいたわけではありません。元々あったひとつの横に、小さな欠片がもうひとつだけ、増えていました。
いつの間にやら、割れていたのだろうか。
そのときはそう思いました。もはやそれに期待する気持ちも薄くなっていたのです。
気にせずそのまま眠りました。
そして次の日の朝、見るとその欠片は大きな石になっていました。
石がふたつに増えていたのです。
手に握って確かめても、感触は変わりません。重さも、大きさも。細かく覚えているわけではないにしろ、それは明らかに元あった量より増えていました。
それからです。
朝起きるたび、部屋に戻るたび、その石は段々その数を増していきました。
3日経つころには5つに。
7日経つころには16個に。
14日経つころには、朝、石の床に落ちる音で目が覚めました。棧からあふれ出たのです。
喜びました。
段々と足の踏み場もなくなるくらいに部屋に琥珀が流れ出し、かけ布団を頭まで被らないと眩しくて眠れないようになりました。月の明かりももはやほとんどかすかにしか見えません。明るすぎる部屋に私は帰り、眠り、そして次の時を楽しみに待ちました。
ようやくだと思いました。
ようやくすべてが始まるのだと思いました。
そして冬の終わりが見え始めたころ、私はこの大学の受験で家を空けることになりました。日程が2日に跨っていて、遠方ということもあって近くに宿を取って試験に向かうことにしたのです。
試験前日から現地入りして、終わったその日に帰ってくる。丸2日を空けて帰宅して、私は期待とともに部屋の戸に手をかけました。どれだけ増えただろう。何が起きているだろう。疲れも忘れて、扉を開きました。
その先には、何も残っていませんでした。
全部嘘だったみたいに、何も残っていませんでした。
全部嘘だったのかもしれないと思いました。
それだけの話です。
この話はそれだけの話で、何のドラマ性もないそれだけのことで、私は月からの迎えが来ないということを諦めてしまいました。
けれど成長とはそういうことだと思いませんか?
人生には決定的な成功も挫折もほとんど訪れることはなくて多くの人は漠然とした期待とよくわからないまま身に付けた諦観とともに他人に合わせる手段を学んで結局自分が何がしたくて何を求めて求められて何者なのか何者になれるのか何者になってしまったのかわからないまま人生を続行したり終了させたりしてだから人生の大半で自分を支えてきた月からの迎えみたいなものを諦めてしまって今まで誰からも理解されないなりに自分のアイデンティティを支えていたものに見切りをつけて石が光ろうと増えようと消えようとそういうのも本当はどうだってよくて少なくとも他人からはそう思われていてそういうのを後生大事に抱えていくことも神様たすけてくださいって本気で叫ぶこともなんだかんだ言ったってそんなに追い詰められてるわけじゃないからできなくてどうしようもないから生きたり死んだりぐるぐる回ったりそういうものを人生の意味だって空っぽの言葉で並べ立ててそのうちそういうのが自分の本心だったり世界の本当だったり本気で勘違いするようになったりそういうのを成長って言葉で表すって誰だってそういうこと知ってるんじゃないですかだって普通の人になったら幸せになれるって誰だってそういうのどこかで刷り込まれてるわけだし他の人と同じようにするのが一番楽だし効率良いし受け入れてもらえるし不安とかそういうの誤魔化したり忘れたり永遠に消えないって納得したりしながらやっていけるわけだしだから月がどうとかそういうありえないくらい夢見がちで自意識過剰なものを捨て去るのを成長って呼ぶってそういうことを主張すれば世界中の誰からも同意を得られるって世界中の誰もが言うからって世界中の誰もがずっとずっとずっとずっと学校で駅でバスでファミレスで外国で歩道橋で本で映画で音楽で海で空で地中で天国で昼も夜も朝も夢も月で宇宙で私の中で
だから私は幸せになれると思うんです。月を諦めたので。愛とかそういうので。
(文:アンバー)