『two』の場合
はぁー、と気怠い溜息とともに小さな喫茶店のドアベルが鳴った。
「いらっしゃ、……なんだ都築か」
「都築です」
「まあ奥の席にどうぞ」
「どもども」
黒いエプロンをつけた男が都築を迎え入れ、席へと導く。都築はその男性の後頭部に揺れる髪束を見つめて言った。
「なんか志田先輩また髪伸びましたね」
志田と呼ばれた男はぱちっと都築の方を振り向き、ああ、と髪束に手をやった。
「もうすぐ就職だからな。もう伸ばすのも難しくなるだろうし、せっかくだから伸ばせるだけ伸ばして3月にばっさり切ろうと思って」
「へえー。なんか寂しくなりそうですね、それ」
「学生時代との決別って感じでいいだろ」
はは、と笑う志田に促され、都築はボックス席に座る。
「何にする?」
「ブレンドで」
「はいよ」
メモを取るでもなく、志田がカウンターに「ブレンドふたつ」と伝える。ん?と都築が不思議に思うと、志田はエプロンを取って都築の対面の席に座った。あれ、と都築が言うと、志田はにっ、と目を細めて笑って、
「俺も上がりだ。相席いいか?」
「あ、はい。どーぞどーぞ」
都築が店内の時計に目をやると、すでに夜の9時を回っていた。店内の人もまばらで、眠気を誘うような穏やかなクラシック音楽がBGMにかかっている。
「で、どうした?」
「え?」
「いや、なんか溜息ついてたろ? だから何かあったのかなって」
「あー」
都築は諦めと苦笑の中間みたいな顔で志田の言葉を聞く。
「本当は今日、19時から北里に誘われて映画行くはずだったんですけど」
「もう大体オチが見えたな」
「案の定あいつ時間になっても映画館に来なくて。で、さっきこんなメッセージが来ました」
都築がポケットからスマホを取り出して、二、三度画面に触れた後、志田の方に向けて机の上を滑らせた。志田は覗き込む。
『20:38 北里:(謝罪のスタンプ)』
『20:38 北里:女の子にご飯誘われちゃって』
『20:39 北里:仕方ないよ! 北里くんはボクと違ってモテモテだもんね!(裏声)』
『20:40 北里:ええっ、照れるなあ……』
『20:40 北里:いくら僕が頭脳明晰で容姿端麗で誰からも愛される完璧超人美青年だからって、そんなにストレートに褒められると』
『20:41 北里:北里くんカッコイイよ!(裏声)』
『20:42 北里:ふふ、知ってる』
『20:42 北里:22時からの上映があるんだけど、それでいいかな?』
『20:43 北里:それならなんとか間に合いそう』
『20:44 北里:もちろん! 北里くんのためならいつまでも待つよ!(裏声)』
『20:45 北里:(感謝のスタンプ)』
『20:46 北里:やっぱり都築くんは僕のこと大好きなんだね(ハートの絵文字)』
『20:50 北里:ねえ』
『20:50 北里:既読無視しないで』
『20:50 北里:何か言え』
『20:57 都築:なんか』
『20:57 北里:ゆるさない』
サーッとスクロールを終えた志田は顔を上げた。
引きつっていた。
「……都築、奢ってやるよ」
「やった。ごちそうさまです。パフェ食っていいですか?」
「あっ、お前案外疲れてないな」
「もう慣れましたし」
なんだよ、と言いながら志田は席を立つ。カウンターの方に向かって歩いて行き、すぐに戻ってきた。湯気の立つカップを両手に持って。
ほら、とテーブルにカップを置き、都築はども、とそれを持って、一口飲んだ。
「もう店じまいするしめんどいからダメだって」
「なんすかこの店」
「客としてはどうかと思うがバイトとしてはものすごく楽だぞ。俺の後釜にどうだ。ここのバイト」
「あ、もうやめるんですか」
「ギリギリまではやるけどな」
うーん、と悩んだ様子の都築は、またコーヒーを口にして、
「2代目おしゃカフェ先輩襲名かあ……。考えておきます」
「あっお前それ」
そういえば思い出した、といった調子の志田の声に、都築は「はい?」と首を傾げた。
「最近後輩みんなその呼び方してくるんだけど、お前のせいだろ」
「え、このあだ名つけたの俺じゃないですよ」
「いやそりゃそうだけど……。広めたのはお前だろ」
「いいじゃないですか。事実だし、カッコイイし」
「お前話すり替える速度すごいな」
「オカ研で身に付けた最悪会話術です」
はは、と笑う都築に、志田は、はあ、と溜息をついた。そのとき、店内のクラシック音楽が止んで、代わりにテレビの声が聞こえてきた。都築は怪訝な顔をして、席の横の窓を見た。裏返しになっているが、そこには『営業時間 平日 11:00~21:30』と書かれている。時計はまだ21時15分を指していた。
「……これ、暗に早く帰れよってメッセージですか?」
都築の小声の問いに、志田は「いや」と首を振る。
「単に今日が木曜なのを思い出しただけだろ。マスター今やってるドラマ気に入ってるから」
「なんすかこの店」
「なんなんだろうな」
働く側としてはすこぶる楽なんだが、ともう一度言って、志田はコーヒーを口にした。それからカップを置いて、「で、だ」とテーブル越しに身を乗り出した。「なんすか」と都築は身を引いて応えた。
「この間、茅本が知らない女の子と歩いてるのを見たんだけど」
「あー」
そういうことか、と都築は声を上げて、
「初めっからそれ聞くつもりだったんだ」
「いや、だってさ、気になるだろ?」
「いや別に。ていうか俺もよく知らないですよ。あのセーラー服の子でしょう?」
「あ、そう! その子」
「知りませんけど……」
都築はぺったりと手のひらをカップにつけて、それから口元へと運ぶ。
「彼女なんじゃないですか? いや、知らないですけど」
志田は顔を伏せた。返答はなかった。都築はそれを不審に思って身をかがめて覗き込む。
顔面が蒼白になっていた。
「か、彼女……? マジで……?」
志田はこの世の終わりのような顔で肩を震わせていた。
都築は若干ヒキ気味だった。
「いやそんなショック受けないでくださいよ……。茅本ももう21ですよ」
「おま、お前……。そういう問題じゃないだろ。悪いやつに騙されてたらどうする。心配にならないのか……?」
「なりませんよ。なんならあいつ、誕生日の関係上俺より年上ですよ。相手中高生だし、心配するなら条例とかそっちの方じゃないですか」
ていうか別に彼女とか適当に言っただけだしそんな真に受けられても、と。
都築の言葉は明らかに志田に届いていなかった。
「こ、こうしてはいられない……」
「いやこうしててくださいよ。大人しくしててください、シス川コン太郎先輩」
「俺はシスコンじゃない!」
志田が勢いよく立ち上がって、店内がしんとした。テレビから流れるドラマの声が、からっぽの空気にむなしく響いた。
何とも言えない顔で都築は志田を見上げていた。何とも言えなかったので。
「ただ俺には義務がある!」
「……なんの?」
「妹分の人生を見守る義務が!」
ないのでは?という冷静な都築の言葉は、当然のごとく志田には聞こえていなかった。「こうしてはいられない!」と宣言した志田は財布から出した1000円札をテーブルに「おごりだ!」と置き、コーヒーを勢いよく飲み干し、黒いエプロンを片手に店の奥に引っ込んでいった。
そのスピーディーな動きを、都築は見送った。
後には残り少ないコーヒーだけが残った。都築はそれを飲んで、携帯を取り出し、メッセージを打った。
『21:23 都築:すまん』
『21:25 茅本:?』
『21:26 茅本:あ、この間のノートサンキューな』
『21:26 茅本:去年使った演習本で何か必要なのがあったら貸すぞ』
『21:27 都築:悪かった』
『21:27 茅本:???』
「なあ、都築くん、でいいんだっけ」
思わぬ方向から声がして、一瞬都築の思考が止まった。カウンターからだった。自分を呼んだのが、志田と同じ黒いエプロンをした痩せ型の中年男性、マスターだったことを都築はやや遅れ気味に認識した。
「あ、はい」
「志田の友達?」
「ええ、まあ」
バイトを呼び捨て。もう4年目だろうしそんな距離か、と思いながら都築は答える。すると、
「もう一杯飲んでく? サービスだけど」
「え、いいんですか。やった」
マスターがカップを両手にカウンターから出てくる。ひとつを都築の前に置き、しみじみした調子で、
「大変だろうが頑張れよ、青年」
とだけ言い残して、もうひとつのカップを片手に、テレビがよく見えるカウンター席に座った。
都築は熱いコーヒーを飲みながら、今言われた言葉の意味について考え、割と早くにその意味を察し、それからスマホを手にした。
まずはほぼ間違いなく相手が来ない待ち合わせの時間以降、ひとりで何の映画を見ようか。
そういうことから始めようと思った。