【Who am I?】
【Who am I?】
今年の活動内容が会誌の作成と聞いたとき、これ以上の機会はないと思った。僕はこれからこの場を借りて、誰にも言えずにいた記憶について告白しようと思う。
死ぬまで誰にも話さずいようと思っていた。今でも、口では伝えられる気がしない。けれど文章なら書き残せる気がした。これが誰かの目に触れているのなら、その予感は当たっていたのだろう。もしよければ、最後まで読んでほしい。
そして、教えてほしい。
僕が誰なのか。
僕は懺悔すべきなのか。
数えてみれば、もう10年以上も前の話になっていた。初めから曖昧だった記憶もさらに朧になっているけれど、覚えている限りで正確に書きたいと思う。
当時の僕は10歳だった。小学5年生の夏休みの出来事だ。
友達がいた。物心ついた頃からずっと一緒にいた友達だ。名前をSとしよう。僕はその頃ずっとSと、それからときどき自分の妹と一緒に遊んでいた。Sと妹は活発な性格をしていて、僕はそれほどでもなかった。だからいつも振り回されてばかりだったけれど、あの頃は仲の良い友達と遊んでいるというだけで何もかもが楽しかった。そういう時期だった。
その日もいつものように僕はSに連れ出された。ラジオ体操が始まるよりも前の時間。夏の日なのに、半袖じゃまだ寒いような、不思議な時間帯だ。
虫取りに行こう、と彼は言った。昨日も、一昨日も、その前の日にも言っていた。僕はあまり虫が好きじゃなかった。角のある虫はともかく、角のない虫、ましてや幼虫なんかは全然ダメ。授業で青虫の飼育をやったときは、毎朝貧血みたいになって、結局ほとんどSに代わりにやってもらった。
そんな僕がSの虫取りに付き合っていたのは、Sが僕を虫取りに誘ったのは、その角のある虫が目当てだったからだ。
噂があった。
どこかのお金持ちが逃がした、南米の珍しい虫を近くの森で見かけたと。噂の出所は僕もSも知らなくて、たぶん最初に言い出した本人も覚えてなかったんじゃないかと、今なら思う。そんなものを僕らは追いかけていた。自由研究だ。Sは言っていた。おれが捕まえるから、あとはよろしくな。そう言って笑っていた。
その日行ったのは、Sの家から自転車で走って10分くらいの場所にある、森だった。森と言っても、鬱蒼としたイメージじゃない。僕がいたのはそれなりの田舎で、あるのは田んぼと畑。残りの場所には手付かずなのかまだらに樹木が生えていて、どこでも山とか森とか、そういう風に呼ぶことができる場所だった。
僕らが行ったその森は、普段は行かない場所だった。登下校のルートじゃないし、その先に友達の家があるわけでもない。だけど普通にみんなが行くような場所はほとんど見て回ってしまっていたから、その日からは新しい場所を開拓していこう、という話になっていた。
神社があった。その鳥居の前に自転車を置いて、歩きやすくなっているところを探しながら、森の中に入っていった。
すぐに地面が傾いた。僕らは木に手をかけたり足を引っかけたりしながら、何かの拍子に滑り落ちたりしないように気を付けて斜面を歩いた。
そのとき、僕はすぐに視界が開けると思っていた。というのは、下り斜面になっているような場所は大抵高い場所にあって、ちょっと進めばすぐに家やら田畑やらを見下ろすことができるようになる。地元のあたりの山やら森やらは迷子になるほど深いような場所はほとんどなくて、すぐにそういう場所に繋がる。そういうのを感覚的に知っていたからだ。
けれどあの日、不思議と森は深まるばかりだった。
先に音を上げたのは、僕の方だった。
迷った?
僕の声に、Sは振り向かなかった。僕はもう一度、息を整えて、今度は声を張って同じことを言った。振り向いたSの額にも汗が浮かんでいてた。
え?
彼は聞き返した。僕らを取り囲む木々から蝉の鳴き声が大きく響いていて、僕らはお互いの声がよく聞こえていなかった。
迷った?
僕はSに近付いて、もう一度言った。ようやく伝わったらしくSはあたりを見回して、頷いた。
戻るか。そう言った。
それから、使うか?と、Sは僕に虫取り網を差し出した。杖みたいに使って歩くか?ということだ。僕は自分がそういう器用なことをやろうとしても上手くいくイメージがなかったから、いらない、と首を横に振った。
Sが僕の前に立って、来た道を戻った。そんなに複雑な道を来たわけじゃなかった。だからすぐに戻れると思っていたのに、このときもなぜか、なかなか僕らは自転車を置いた神社の入り口まで辿り着くことができなかった。
これがどうしてだったのかは、今でもわからない。
単に僕らが疲れのせいで時間感覚を鈍らせていつまでも元の場所に戻れないと感じていたのか、それとも方向感覚に優れていたSが、慣れない場所に来たせいで珍しく帰り道を間違えたのか。
なんだかおかしいぞ、と思いながら歩き続いていると、僕はとうとう足を滑らせてしまった。朝露に濡れた地面に靴の底を取られた。咄嗟に身体を横に倒して、近くの木に身体をぶつけて止まることで何とか斜面の下まで一直線に転がり落ちることは避けられたけれど、痛かった。
驚いたSがすぐに僕に駆け寄って聞いた。大丈夫か? 僕は転んだのが恥ずかしくて強がった。平気、と。
だけど打ちどころが悪かったらしい膝には力が入らなくなっていて、立ち上がるのだって木に寄りかかりながらがやっとだった。
おれが大人を呼んでくる。
Sがそう言った。おれが大人を呼んでくるから、お前はここで待ってろ。Sは駆け出した。
取り残された僕は、嬉しかったけど、心細かった。夏の朝の森、蝉の声だけが大きく、僕はひとりになった。立っているのが苦しくて、木を背もたれに座り込んだけど、ときおり頭の上の方で知らない鳥が鳴いて、濃い草木の匂いが汗を冷やした。
不安になって、僕はそのとき、頭の中で数を数えていた。いち、にい、さん、しい。頭の中に時計の秒針をイメージして、あと何秒で迎えが来るか、考えていた。
1000を数えたとき自分で立ち上がった。まだ力は上手く入らなかったけれど、痛いのは少しマシになったような気がした。僕は木を寄り伝いながら、来た道の方向に戻っていった。
だけど、やっぱりどれだけ進んでも自転車を置いた場所には戻れなかった。冷たい汗が背中に噴き出して、息も乱れて、それからもう一度、足を滑らせそうになって、今度こそ限界だと思った。木に抱きつくように、寄りかかって瞼を閉じた。
そのとき、前髪の向こうを、何かが通り過ぎた気がした。
驚いて目を開くと、青い蝶がすうすう風の隙間を通り抜けるように飛んでいた。紫陽花よりも鮮やかな、本当に真っ青な蝶だった。
ゆうらりゆうらり揺れる蝶に、呼ばれているような気がした。
こっちにおいで。
そう言われたような気がした。
そんなことあるわけないと思うだけの余裕はもうなかった。僕はその蝶に導かれるように、ゆっくりと、必死で進んだ。
おうい。
そのとき、蝶の進む先から声が聞こえた。
初めは、空耳かと思った。
葉の風にこすれる音を聞き間違えたのかと思った。だけど、段々と傾斜がゆるやかになるにつれてその声ははっきりしてきた。
Sの声だった。
迎えが来たんだ。嬉しくなって、足を引きずりながら、それでも少しでも早くと僕は歩いた。傾いた地面はそのときにはもうすっかり平らになっていて、出口が近いと僕に思わせた。
蝶の青色を太陽がきらめかせたとき、森が開けた。
Sがいた。
膝まで地面に埋まっていた。
S。僕は彼の名前を呼んだ。
それで彼も僕に気づいた。助けてくれ。そう言った。
Sの立っていた場所は、水たまりの上に見えた。だけど後になって夏休みの日記を読み返してみればあの日の前日はずっと晴れて夕立もなかったはずだから、それは本当は小さな沼地だったんだと思う。
足が抜けない。Sはそう言った。僕は慌てた。このままSが地面の底まで沈んでしまうんじゃないかと思った。
思うように動かない足先で、固い地面とぬかるみとの境目を探した。焦っていたから正確な見極めはできてなかったと思うけど、僕は大体の見当をつけて、そこに立った。
Sが伸ばした手をつかんで、引っ張った。Sの腰から上が傾くばかりで、足の抜ける気配はまったくなかった。
力の問題じゃなかったと思う。勢いよく引っ張れば抜けるとか、そういう感触じゃなかった。
僕らは途方に暮れた。
だけどやがてSが言った。
誰か呼んできてくれ。
たぶんこれ以上は埋まらないと思う。
ゆっくりでいい。
待ってるから。
それしかないとわかった。僕は足を怪我していて上手く動けなかったけれど、Sはこの場を離れることすらできない。だったら僕が大人を呼んでくるしかない。
わかった。
僕は頷いた。それから困った。どっちが出口かわからなかったのだ。来るときにはこんな場所を通らなかった。
どっちから行けばいいの?
僕が聞くと、Sも困ったような顔をして、あたりを見回した。それから指差して言った。
たぶん、あっちの方だと思うんだけど。
自分の感覚とSの感覚なら、Sの感覚の方を信じられた。だから僕はその言葉に迷わず従った。
待ってて。すぐに戻ってくるから。
足の痛みを堪えて、早足で歩き出した。走れるほどじゃない。だけど急げないほどでもなくなっていた。
もう一度森の中に入って行った。Sの示した方向を進む。地面は平坦になって、前よりずっと歩きやすくなっていた。
だけど、すぐに僕の足は止まった。
大きな蜘蛛がいたからだ。
それも、野犬と同じくらいの大きさの。
ありえないと思うだろう。
僕もそのとき、そう思った。
だけど目の当たりにしてしまえば、そんなことを言っている暇はなかった。僕は急いで来た道を引き返した。誰かを呼びに言っていたんじゃ間に合わないと思ったのだ。
がさりがさり背後で音を立てながら蜘蛛が僕を追ってきた。
僕はもう、足の痛みも忘れてなりふりかまわず走ったけれど、ときどき振り向いてみれば蜘蛛は決して距離を離さず、詰めたりもせず、僕の後ろをついてきていた。
沼地に戻った。
S! 僕は彼の名前を叫んだ。逃げなきゃ! 叫んで、僕はもうどこまでが沼でなんてことも考えずにSの下に駆け寄った。
Sは血相を変えた僕に、はじめ戸惑っていたけれど、追いかけてきた蜘蛛の姿を見て、彼も驚いて声を上げた。
僕はSを引っ張り上げようとしたけれど、やっぱり彼はびくともしなくて、その間にも蜘蛛は僕らに近付いてきていた。焦ってさらに一歩、Sの近くに踏み出して、足首が埋まった。足裏の地面がゆるくなったことで上手く力が込められなくなって、僕は転げそうになりながら、どうにかSを引き上げようと必死で動いた。
だけど、Sは僕を突き飛ばした。僕は尻もちをついて、その拍子に足首が沼から抜けた。
お前だけでも逃げろ。
彼は言った。僕は首を横に振った。
いいから逃げろ!
Sに怒鳴られたのは初めてだった。
だけど僕はSを見捨てることができなかった。
だから僕は、泣きながらSと蜘蛛の間に立ちふさがった。
大きな蜘蛛が僕にのしかかるように身体を持ち上げたまでは覚えている。
その先は、何も。
目が覚めると、僕はひとりだった。Sも蜘蛛もいなくなっていた。
立ち上がって、Sの名前を呼んだ。返事はなかった。怖くなった。やっぱり誰かを呼んでこなくちゃ。Sがあのとき指し示した方に、だけど蜘蛛にだけは会わないように気を付けながら僕は森を進むことにした。
すぐに自転車が見えた。僕らの置いた自転車だった。ふたつあった。ということは、Sはまだ森の中にいるんだろうと思って、僕はさらに焦って、大人を呼びに行こうと自転車にまたがった。
向かった先は、自分の家だった。そのあたりにどんな家が、どんなところにあるのかわからなくて、とにかく自分の家を目指す以外に頭が回らなかった。
玄関の戸を開けて叫んだ。
誰か。Sが。
出てきたのは眠そうな目をした妹だった。
どうしたの? 妹に聞かれて、僕は答えた。Sが森で。その先は上手く言葉にできなかった。妹は首を傾げていた。
そして家の奥の方に引っ込んで行った。妹はこう言った。
おかーさん。Sくん来たよ。
その意味がつかめていないうちに、パジャマ姿の母が出てきた。
あら、どうしたのSくん。ラジオ体操?
何を言われているかわからなかった。だから僕は一方的に、自分が伝えたいことを伝えた。
Sが森で大きな蜘蛛に。
今度は、母が首を傾げる番だった。
どうしてこんなに話が通じないんだろう。苛立って、それならこの時間ならまだ家にいるはずの父に助けを求めようと思って、靴を脱いで玄関の框を上がって、そして僕は見た。
玄関の姿見に、Sの姿が映っていた。
僕が、Sの姿をしていた。
これが、僕が誰にも話さずにいた記憶だ。
あの日から、僕はSとして生きている。
あの日あの瞬間まで、僕が僕だと認識していた、あの妹の兄は綺麗さっぱり、はじめから存在していなかったように姿を消してしまった。誰の記憶にも残っていなくて、僕はあの妹の友達のSとして家族から認識されるようになって、それからずっと自分の家を離れてSの家で過ごすようになった。
膝の傷も消えていた。慌てて戻った森の前には、自転車がひとつだけ取り残されていた。これについても、誰も覚えていなかった。誰のだろうね。そんな風に、誰も興味も持たずにただ放置されて、今ではどこに行ってしまったのか、僕も知らない。
あの沼地にも、あれからは二度と辿り着けていない。そもそもが、あれほど深い森が自分の地元にあったことすら信じられない。
僕は今でも、この記憶が本物なのか、偽物なのか、わからないのだ。
幼少期によくある記憶の混濁なのだろうか。
白昼夢を現実と誤認して覚えてしまったのだろうか。
犬と同じ大きさの蜘蛛なんているわけがない。
いきなりひとりのこどもの存在が消えてしまうなんてあるわけがない。
僕もそう思う。だけど、心から否定することはできない。
あのとき、自転車はふたつあったのだ。
あのときまで10年間、僕は僕として生きてきたのだ。
あのときまで10年間、Sは僕ではなくSとして生きてきたはずなのだ。
僕の記憶のうち、どれが本物で、どれが偽物なのか。
僕にはわからない。
だからどうか、これを読んで、わかる人がいたら教えてほしい。
僕は僕か?
それともSか?
そして僕は、あの日、何か取り返しのつかない罪を犯してしまったのではないか。
(文:two)