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『須子本』の場合

 月橋大学のサークル棟。三階の一番西に日当たりの良い部屋がある。

 『オカルト研究会』と端の破れたコピー用紙の貼られた扉の中には、やや髪の長い、線の細い男がいて、口元に手を当てながら【鯨の雨】と題された文章の並ぶパソコンの画面を睨んでいる。


「……寿司食いたくなってきた」


 ひとり呟き、立ち上がる。

 こざっぱりと片付いた部屋を見回して、次に机に置いた鞄を漁る。ううん、と不満気な声を上げたあと、財布を取り出して、ポケットに滑り込ませる。


 鞄を閉めて、ノートパソコンの蓋も閉じた。そしてそれらをそのままに、扉の近くのプラスチックのフックにかけてある鍵を手に取って、


「ふぐ」


 扉に激突した。

 というより、扉が激突してきた。内開きの戸が急に開いて、それが男の鼻に当たった。


「うわ、すまん!」


 開いたのは背の高い女だった。開いた扉の間から身体を滑り込ませて、顔を押さえる男を心配するように近寄る。


「大丈夫か?」

「イケメンになってしまう」

「安心しろ。一生ならない」


 女はひどく冷静な顔になって、心配するのをやめた。男は鼻の下を指で触り、鼻血が出ていないか確かめるように皮膚を撫でた。


「ちょうどよかった。都築(つづき)に用があって来たんだ」

「レジュメか。寝坊?」

「いや、今日は何かやる気が出なくてな」

「なるほどね」


 都築と呼ばれた男はどうでもよさそうに頷きながら、鞄に入った薄いクリアファイルからA3の紙を数枚取り出す。軽くめくってページ番号を確かめた後、はい、と手渡して、女はそれをありがとう、と受け取った。女はその中身を確認すると、すぐにうんざりした顔になり、


「また論文リストか……」

「それ過去問に出てたやつだから読んどいた方がいいぞ」

「ああ、このへんだったか。ノートは取ったか?」

「いや、解説本丸読みだったから」

「いつものだな。わかった、ありがとう。助かる」


 女はレジュメを鞄の中にしまいこむと、それにしても、と都築の鞄に目をやった。


「そのファイル綺麗になってないか? 前はこう……、もさっと」

「この間名切(なぎり)の前で鞄開けたら喜々として全部整理してくれた」

「……私もやってもらおうかな」

「ただあいつ隙あらば裁断しようとしてくるけど」

「やっぱりやめておく」


 うん、と都築が頷くと、女は自分の鞄を開いて、中を確かめた。はあ、とひとつ溜息をつき、


「うわ、茅本(かやもと)の鞄きったな」

「……実は夏学期のレジュメとか入れっぱなしなんだ」

「捨てろよ」

「いや、捨てるのも勿体ないというか……。わかるだろ? 折角学費を払ってるんだし」

「『いやほら……、これはこれで機能的なんだよ。ベッドから手の届く範囲によく使うものを置くと、必然的に床が埋まるっていうか……』」

「お前まさかうちのお母さんと繋がっているのか?」

「うちの代、ゴス川ロリ太郎以外全員部屋が汚いし全員言ってること同じだし最悪だな」


 茅本と呼ばれた女は、自分の激烈にごちゃごちゃした鞄の中身をじっと見つめた後、今度は経年劣化以外の落ち度が見当たらない小奇麗なオカ研のサークル室を見回した。


「いっそここに住むか。名切が定期的に掃除してくれそうだ」

「そのうち『元を断ちましょう! 死ね!』とか言われそう」

「やめよう」


 不安げな顔になった茅本はふと、机のノートパソコンに目を留める。


「あ、もしかして会誌を作ってたのか?」

「うん。お前の記事がトップバッターな」

「…………は?」


 何を言ってるんだこいつは、という表情で茅本は都築を見た。視線がかち合う。身長は同じくらいだ。


「なんで?」

「適当にファイル開いたらお前のが一番最初に出てきたから」


 他意はない、と言う都築に、茅本は腕を組んでうーん、と唸り、


「ならもっと気合を入れて書けばよかった」

「茅本あれ書いてる途中で寿司食いたくなっただろ」

「わかるか。すいとんのあたりから腹が減り始めて、最終的に寿司のことしか考えられなくなってしまった」

「俺も寿司が食いたくなってしまったんだけれど」

「そう言われると私もまた……」


 ぐうう、と茅本の腹が鳴った。都築が漫画かよ、と突っ込んだ。


「行くか、寿司屋」

「回らない寿司を……、茅本が奢ってくれる……?」

「回る寿司で割り勘だ」

「割り勘はおかしいだろ、お前俺の二倍くらい食うのに」

「大トロとかウニばっかり食べればいいだろう」

「ふたりそろって破産するチキンレースやめろ」

「ゲーム理論でありそうだな」

「適当な発言してるとゲーム理論の民に襲われるぞ」


 茅本が部屋を出るのに続いて、都築は鍵を取って部屋を出た。

 サークル棟の廊下は雑然としている。特に文化祭前の季節になると、何に使うんだかわからないような無意味げな大道具が道を塞いでいることがある。ふたりはそれを避けたり跨いだりしながら進んでいく。


 三階、二階にはそれほど人はいなかったけれど、一階は結構な人が溜まっている。特にコピー機に人が並んでいる。学内で専用コピーカード以外のICカードを使えるコピー機の数は限られているのだ。


 それを横目にふたりはエントランスを渡る。壁掛け時計は11時を指している。この分なら結構寿司屋も空いてそうだ、と話しながら玄関へ出た。


 雨が降っていた。


「げー」

「天気雨だな。どうする?」

「どうするって言ったってなあ」


 雨は強く降っている。しかし雲間から太陽はしっかりと覗いていて、少し待てば雨は上がるようにも感じた。


「中でちょっと待つか?」

「そのごちゃっとした鞄に折り畳み入ってないの?」

「この間使って玄関に投げっぱなしだ」

「茅本の部屋の廊下、ペットボトルが散乱してそう」

「お前私のお母さんだろ」


 違うわ、と答えた都築が踵を返す。しょうがないな、と茅本もそれに続こうとして、


「あ」


 と声を上げた。

 都築はその声の向かう先を見た。黒いセーラー服を着た、髪の長い少女が立っていた。光るみたいに明るい雨の下で、黒い傘が理科室の暗幕みたいに浮いて見えた。


「都築、悪い」

「あ、うん。いいよ別に」


 すまんな、と茅本は頭を下げて、駆けだした。都築は玄関から、茅本がその黒い少女の傘の下に、狭苦しそうに身を屈めて入っていくのを見ていた。


 視線を上げると、未だに雨は強く降り続いている。太陽の光で雨の根元は透明に輝いて、どこか知らない世界から落ちてきているように見えた。



 学食に海鮮丼ってあったっけ。



 雨が降り止むまで、都築はそんなことを考えていた。

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