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【鯨の雨】

【鯨の雨】




 夏の初めにバイクを買った。だからそれに乗って旅行に行こうと思った。


 と言っても私は旅慣れた人間ではない。旅行なんて年に数回も行けば多い方で、しかもその数回も友人の誰かが一から十まですべて計画立ててくれていた。だから具体的にどこそこに行きたい、という希望はこの思いつきの時点では持っていなくて、まずは行き先を絞るところから始まった。


 日帰りがいいだろう、と思った。多少の不備があっても乗り切れそうだから。

 公共交通機関が発達していないところがいいだろう、と思った。折角バイクを買ったのだから。


 とある村が思い浮かんだ。大学の講義で聞いた名前だった。私と同じ授業を受けていた方なら心当たりもあるかもしれない。鯨が見られるというあの村だ。


 他に心当たりがあるわけでもなく、その村に決めた。決めて、大した準備もせずに次の日に旅立った。失敗だった。


 村の近くに着いたまでは良かった。ただ、走らせていた海岸線沿いの堤防が一部工事で塞がれていて、細っこい路地の方を行くしかなくなってしまった。その先は閑散とした住宅街(街と言うべきかには疑問が残る)になっていて、驚くべきことに地図アプリに細かい道が登録されていない。どころか、太く見える道路も実際に向かってみると砂利だらけでバイクどころか自転車ですら登れないような山道だったりした。


 二、三度ほど、もう帰ろうか、と思った。別に村の中に入らなくても移動中に夏の海はたっぷり見た。これから苦労して辿り着いたところで鯨が見られるとも限らない。新品のバイクを下手な道を走らせていきなり摩耗させたくもない。


 だから最後のこの一本道を進んでみて、ダメだったらもう引き返そうと。そう思って進んだ。


 長い林道だった。

 背の高い木々が左右に並び立っていて、曲がりくねった車道は普通車二台がギリギリにすれ違える程度。空は葉に隠されて見えず、木漏れ日がアスファルトに模様を落としている。奥へ進むにつれてそれすらもなくなり、昼か夜かもわからないくらいに翳ってくる。


 10分くらいかけて林道を抜けた。そしてぎょっとした。暗雲が立ち込めていたのだ。夕立の予兆だ。走っている途中で暗くなっていたのは、林道のせいではなくて、単に天候が悪化していたからだったのだ。


 天気予報では一日晴れのはずだった。だからレインウェアも持ってきてはいない。厄介なことになった、と雨宿りできる場所を探した。しかし建物は驚くほど見つからない。もういっそのことどこかの民家に駆けこんでしまおうか、と考えるくらいには。


 ぼつ、ぼつ、とアスファルトに黒い染みが点々と広がっていく頃に、ようやく屋根のある場所を見つけた。ボロボロのバス停だった。四つ置きのプラスチックの椅子はうちふたつが破損していて、残りのふたつも色褪せていた。バイクを屋根の下に引き込んだときちょうど雨は激しく降り出して、みるみるうちに目の前の道路に水たまりができた。


 古い椅子に座る気にもなれず、雨が止むのを待っていた。トタンの屋根にはところどころ穴が開いていて、バイクを配置してしまえば自分の動けるスペースはごくわずか。黄色くかすれた昭和の選挙ポスターだけがじっとこちらを見ていた。


 気象情報を確認しても村のあたりに雨雲は確認できず、すぐに止むだろう、と悠長に構えていたのだが、40分を過ぎたあたりで不安になった。雨は激しさを増し、一向に止む気配を見せない。このまま夜まで降り続くようなら帰れなくなってしまうかもしれない。無理して今から帰ろうとしても、この豪雨の中でバイクに乗れるほど免許取り立ての自分の腕に信頼も置いていなかった。


 そんなとき、「ねえ」と呼びかける声がした。

 黒い傘を差した少女だった。黒いセーラー服に、傘から覗く黒い髪。全身真っ黒で、しかし容姿の端麗な少女だった。


「なんでこんなところにいるの?」


 ぼだぼだと降り注ぐ雨の音の中で、その声はひどく聞き取りづらかった。私が大きめの声で「雨宿りだ」と答えると、少女は傘を傾け、天を仰いだ。


「運、悪いね」


 ストレートな物言いに私は苦笑いをして、「やはりこの雨は夜まで続くのだろうか」と尋ねた。すると彼女はこう答えた。


「ううん、一生」


 この少女は何を言おうとしているのだろうか、と考えた。そして何となく推測した。


 たぶん意味深なポエムを呟く変な子だ、と。オカ研によくいるタイプの人間だ。


 少女は長い傘を閉じると、トタン屋根の下に入り、私の隣に立った。けれどそれで話しかけるでも私の姿を見るでもなく、ただ降り注ぐ雨をじっと見つめていて、私はそれをはじめ不思議に思ったけれど、結局同じように止まない雨を見ることにした。


 ふと持ち上げた右の膝が軋みを上げた頃に、私はもう一度尋ねた。


「この雨はいつまで続くんだろう」

「一生」

「一生?」

「うん」


 頷いた彼女は、何の前触れもなく手に持っていた傘を思い切り投げた。それは雨空の下の薄闇に紛れて、もう100年も前からそこに投棄されていたかのように向かいの草地に紛れてしまって、少女は手に何も持たずに屋根の外に歩み出る。振り向いた彼女の髪の先はすでに水を含んでいた。


「来て」


 と彼女は言った。私は、傘が可哀想だ、と言った。彼女は私の手首をつかんで屋根の下から連れ出した。瞬きの間に濡れ鼠になって、もうどうでもよくなった。彼女に手を引かれるままに、どこへ続くかも知らない細い道を歩いた。


 そのうち海に出た。遠くの空は灰色で、強い雨が水面を曖昧に揺らしていて、煙のように薄い霧がぼやけて漂っていた。思っていた形とは違うが、とにかく目的地には着いた。


「鯨がいるの」


 ほう、と私は頷いた。知っていた。けれど、


「今日は見られそうにないな」

「ううん、見られる」

「この天気で?」

「呼べば来るんだよ」


 おおい、と彼女は叫んだ。叫んだけれど、あまりにか細い声で驚いた。隣の人に話しかけるような音量で、生まれてこの方一度も歌を歌ったことのないような声だった。胃に優しそうな声、と言い換えてもいい。

 だから私は代わりに、おおい、と叫んだ。少女の肩がびくり、と跳ねた。けれど色彩を失った海の向こうには何の影もない。水面の下には生きた魚すら一匹もいないように思えた。


「いないな」


 と私が言うと、


「いるんだけど」


 彼女は片耳を押さえて、


「雨、うるさいから」


 と言って、海岸に向かって歩いていく。踝が完全に水に浸かったあたりで、私を手招いた。


「歯、丈夫?」

「ん、まあ?」


 よくわからない質問に、疑問形で答えた。虫歯はない。けれど犬よりは弱いだろうとは思った。


「貸して」


 よくわからなくて首を傾げると、「歯、貸して」と言われて、さらに首を傾げると、彼女はあー、と口を開く。よくわからないままにつられて口を広げると、彼女は「そのまま」と言って私の顔を固定するように頬に手を当ててきた。


 そして、私の口に手を入れてきて、指先を犬歯に強く押し当てた。ぶつっ、と皮の破れる音がして、歯茎に血の香りがついた。彼女は血のにじむ指先を私の口から引き抜いて、海に浸した。

 私はまずどちらについて言及しようか迷った。血で呼ばれるのは鮫だろう、というのがひとつ。血を出すのが目的なら口の中を自分で噛めばいいだろう、というのがもうひとつ。迷って、後者を口にした。彼女は指先から海に引きずり出される血液のうねりから目を逸らさないままに答えた。


「口内炎ってね、できるとご飯食べるの大変なんだよ。痛いの。口内炎、できたことある?」

「まあ、一、二回くらいは」

「ほんと? すごいね、わたしはすぐできちゃう」


 何の話だ、と思っていると彼女は立ち上がって私の手首を取る。そして海岸線から遠い場所に立ち、海を指差した。


「ほら、来たよ」


 目を凝らして見た。

 靄の向こうで影が動くのが見えた。


「……鮫じゃないか?」

「鮫じゃないよ」


 一応聞いてみたが、別に鮫でも構わないと思った。海岸線から離れているのだ。鮫がロボだったりゾンビだったり陸上生物だったりしない限りは平気だろう。


「それにしても、随分大きいな」


 その影はどんどん巨大になってきていた。未だはっきりと姿が見えないながら、すでに水上に出ている部分だけで一軒家程度にはあるように思える。


「……大きすぎないか? 鯨ってこんなものか?」

「知らない。鯨見たことないもん」

「ん?」

「ん」


 頷かれた。


「いや、さっき鯨と君は言ったじゃないか」

「うん、言った」

「……?」

「……あ、普通の鯨ってこと。……ん? えと、普通の鯨、見たことなくて。あの鯨は鯨」

「……特別大きいってことか?」

「昔、お兄ちゃんが言ってたんだけどね」


 近付く影はますます大きく、波は高く、私たちは自然、後ずさりながら話した。


「イルカと鯨の違いって、大きさだけなんだって」

「ああ、聞いたことはあるな」

「ほんと? すごい、物知り。それでね、だから、海にいる大きい哺乳類は全部鯨って呼んでもいいんだって」

「いやそれはどうなんだ」

「違うの?」


 そりゃ違う、と答えようとしたところで、霧が揺れた。

 白幕の向こうから、彼女の言う鯨が姿を現した。


 それはでろっとした形状の白い生き物で、強いて言うならすいとんに似ていた。大学と同じくらいのサイズの。


「あのね、それ」


 じっと見上げる私に、彼女が言った。


「鯨になったり、お兄ちゃんになったりしたんだけど、最近はずっとそんな感じで。雨もずっと止めてくれないから村から出られないの」

「村から?」

「うん。雨降ると道なくなっちゃうの」


 陸の孤島か、と細道を思い出して納得した。そうなる、と言われれば納得してしまう雰囲気のある村だった。


「だから、お姉さんはたぶんこの村から出られなくてね」

「……なるほど、運が悪いな」

「うん、それでね」


 少女が見上げた先、白い生き物から、人型の腕が伸びるのが見えた。


「この子、村の人全員食べちゃったのに、まだお腹空いてるみたいなの」


 私たちの頭上を手のひらが覆う。それから飴玉のように手の内に握りこまれた。

 暗闇の中で身動きも取れず、あっさり諦めがついてしまって、空を渡るような浮遊感に身を任せていたら、犬歯に残る血の香りでふと目が覚めた。


 口を開いた。

 噛んだ。

 ホタテの味がした。


 すると次の瞬間、冷たい水の感触で飛び跳ねた。腰まで海に浸かっていた。うわ、と驚いて海岸に上がろうとして、少女にぶつかった。ぱしゃ、と彼女は海面に倒れ込んで、すまない、とその身体を抱き起こした。


 白い巨大な生き物はいなくなっていた。

 小さい生き物なら近くにいて、波に頼りなく揺れていた。相変わらずすいとんみたいな形をしていた。


「何したの?」


 と彼女は尋ねた。私は少し考えて、その小さな生き物を指先でつまんだ。表面のぬめるそれを、ひょい、と口に入れた。少女はぎょっとする。


「食べられるの?」

「海のものは大抵生で食べられる」


 ような気がする、と私は答えながらそれを噛み砕いた。そして、ごくん、と飲み下す。


「それにな」


 ぐい、と指で口を引っ張って、彼女に歯を見せた。




「私は歯が丈夫なんだ」




 雲間から小さく日の光が覗いて、波が白く輝いていたことを覚えている。




(文:須子本)

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