『冬の空』の場合
「よし、終わったっ」
ぺしん、とエンターキーを押した都築はその直後に、あ、と口を開いて、
「自分の書いてなかった」
うわー、と椅子にもたれる、ぎしり、軋む。
天井の一辺を見つめる。かちりかちり秒針が遠慮なく声を立てる。つう、と窓曇りが雫になってサッシに落ちる。外は何もかも失われてしまったように暗い。
あー。
喉から鳴き声みたいに音が漏れて、
「どうしよ」
どこから来ているとも知れない蛍光灯の明かりだけがはっきりしている。
あー。
1分。
うあー。
2分。
んぐー。
3分。
「よしっ」
書くぞ、と気合を入れて起き上がる。そして気付く。
部屋の入り口に男が立っている。
「……よう」
志田だった。
珍獣を見る目をしていた。
どもっすどもども、と都築はキーボードの上に手を置いたまま挨拶する。
「どうしたんですか、もう夜ですけど」
「いやお前がどうしたんだって感じなんだけど……、体調悪いのか?」
「いえ別に。だらけてただけです」
質問に答えない志田。勝手に都築は手がかりを見つける。手に持ったレジ袋。学内購買のロゴマーク。体積は大きく、質量は小さそう。
菓子袋だ。
「ストレスで過食ですか」
「ん?」
言われて、志田は一度首を傾げて、ああ、と自分の手元を見て頷いて、
「ひとりで食べるんじゃないから。あ、だけど」
「ストレスですか」
「あー、まあ当たらずとも、っていうか」
「?」
「いや俺のじゃなくてさ、」
「にゃーん」
猫の鳴き声ではなかった。志田の声でも、都築の声でもなかった。
志田の後ろに女が立っている。
「にゃーん」
黒い猫耳をつけている。
「…………うわ」
長い沈黙の果てに、都築が口を開いた。
それを契機に、ずい、と女は志田の前に出る。都築に迫る。都築は逃げる。壁際に追い詰められる。女は腕組みをして、大仰に言った。
「ここにね、結局内定が出なかった猫耳お姉さんがいます」
「お帰りはあちらです」
「そしてあなたはハロウィンにえっちな自撮りを送ってほしいとあれほど頼み込んだにも関わらず平然と無視を決め込んだ後輩よ」
「誰だってそうしますよ」
「何してんだこいつ……」
さらに都築に迫ろうとする女。志田が呆れた顔で見ている。
「まさか冬見先輩それで今更そんなカッコしてるんですか」
「ええ、そうよ」
「無駄に堂々としてるなこいつ……」
「家からこの恰好をしてきたわ」
「もう11月後半戦ですよ目を覚ましてください」
「永遠に醒めない夢を見ているのよ」
「夢見ながら起きてこないでください」
「この後輩辛辣ね……」
「誰だってこうしますよ」
「自分の人格に普遍性を過信するのはやめなさい。痛い目を見るわよ」
「就活全落ちですか」
「ええ、就活全落ちよ。……それ私だ……」
急に現実を直視してわなわなと震えだす冬見、横をすり抜けた都築、さりげなくふたりの間に立たされて壁として扱われる志田。
「で、残念会でもやるんですか」
「ん、おう」
言われて思い出したように、志田は菓子袋を改めて机に置いて、
「それもあるんだけど。それとは別に冬見は院試通ったからな。祝勝……勝?」
「おめでとう会?」
「そんなとこ。都築がいるとは思わなかったけど。あれやってたのか、会誌」
「そうです」
都築は思い出したようにノートパソコンを動かして、かちかちとマウスをクリックしながら、
「そして自分の分をまだ書いていないことに気づきました」
「うっかりだな」
「こんなの気合入れれば2、3時間くらいで書けるから別にいいんですけど」
「あ、ねえそれ」
いつの間にか現実に戻ってきていた冬見が口を挟む。
「何部刷るの? 1000万部?」
「世界的ベストセラーか何かですか」
「印税で暮らしていけないかと思って」
「夢見たまま起きてこないでください」
辛辣だわ、この後輩……、と呟きながら冬見が静かに猫耳を都築の頭に付け替えた。都築は特に何の反応も見せずに受け入れた。
「実際、何部くらいなんだ?」
志田の言葉に都築は指折り数えはじめ、
「2、6、8、11……。予備も入れて15部くらいじゃないですか」
「あ、そんなもんか」
「そんなもんですよ。どうせ売れないですし。大学生活の思い出にひとり1冊ずつ配って、予備を4冊部室に置いて終わりじゃないですか」
ああー……、と頷く志田の横で冬見が、
「原稿料は?」
「ゼロですけど」
「すると今回の出来事で私の得た利益は可愛い後輩からの好意のみということ?」
「それすらありませんけど」
「ほんとに?」
「ほんとはって言おうと思ったけど気持ち悪くなってきたんで色々ナシでいいですか」
「志田くん見てこれ、私の後輩。可愛いでしょ」
「いや俺の後輩でもあるけど……」
都築を指差してご満悦の表情の冬見、困惑する志田。それをよそに都築はキーボードを叩いている。
文字が入力されていく。一文、二文。
文字が消去されていく。一文、二文。
その様子を冬見が後ろから覗き込む。都築の肩に手を添えて、軽く体重をかけて。
「何の話にするの?」
「セクハラ」
「えっ、セクハラの話?」
「いや先輩の行為が」
「私とセクハラ行為する話……?」
「お前ら全然会話通じてないな!」
言いつつ、志田もパイプ椅子に腰かけ、都築の横から画面を覗き込む。ものすごい速度で打鍵された文字がものすごい速度で消されていく。
「……何してんの?」
「いや、何書こうか迷っちゃって」
「迷っちゃって?」
「とりあえず一文目だけ書いて最後まで書けそうか書けそうにないか判断してます」
お、おう……、と引き気味になった志田と交代で冬見が、
「あなたの部屋の話を書けばいいじゃない。あの勝手に部屋の扉が開くやつ」
「だから前も言いましたけどあれ建付け悪いだけですって」
「誰も入居してない隣室から壁を叩かれるし」
「建付け悪いだけですって」
「コップに水を入れて放置しておくと次の朝に割れてるし」
「建付け悪いだけですって」
「いやそれは無理あるだろ」
「なんでこんなに頑ななのこの子……」
「あらゆる怪奇に関する諸現象は建付けの悪さによって説明がつきます。それはともかくとして、」
ぺしん、とエンターキーを一打。二打三打四打五打六打七打八打九打。空白が一行二行三行四行五行六行七行八行九行。
あー、と呻いた。そして立ち上がり、
「今日はもう疲れたんで帰ります」
「ちょっと」
冬見がその腕を引く。
「何ですか」
「言語化不能よ」
「わかりました」
「わかるのか……」
「これが人間の絆よ」
「鳥肌が」
「お前らふたりの会話を聞いてると酔って気持ち悪くなってくる……」
まあ都築も座れよ、と促して志田は袋を開封し始める。冬見が「あ、飲み物廊下に置きっぱなし」と言い残して部室の外に出ていく。志田が「何でだよ……」と本当に理解しがたいといった声音で零して、都築は、あー、とまた呻いて机に突っ伏す。頭痛を堪えるような表情でマウスのホイールをぐるぐる動かした。
「あれ」
ふと気付いたように声を上げ、ぱちぱちとマウスを動かす。
「ん?」
ひょい、と志田が覗き込むと、画面にはメールボックス。
「来てない」
「何が?」
「大暮くんの分です」
1年の、と志田は頷いて、
「提出自由で締切なしだろ、そんなもんじゃないか? というか大暮以外はまさか全員提出したのか」
「はい」
「驚きだな……。協調性の欠片もなさそうなやつらなのに……」
「その代わり自意識が強烈ですからね。まさかフィクションで、って言ったのに全員体験談っぽい話提出してくるとは思いませんでした」
「う」
「あ、そういえば志田先輩もですね」
「ふぃ、フィクションだから……」
「そうですか」
なんでもいいですけど、と言いながら都築はメールボックスを凝視して、
「うーん」
「そんなに気になるか?」
「まあ。大暮くん真面目だし、前会ったとき『出しますよー』って言ってくれてたんで」
どん、と扉が揺れた。「開けてー」と声がする。「はいはい」と都築が立ち上がって扉へ。重たげな袋を持った冬見が入室してくる。
「どんだけ買ってんですか」
「お金使うの楽しいからついね」
「最悪の性質してますね」
「貴族向きなの」
どすん、と袋を置くときにはすでに志田が部屋に備え付けの紙コップを3人分取り出している。
「これ俺も参加する感じですか」
「まあ、せっかくだからな」
「そうね、せっかくだもの」
志田が都築の右隣に、冬見が左隣に座る。「並び順おかしくないですか」との疑問は、まあまあと抑え込まれた。
特に何を合図するわけでもなく、各々が食べたいものを勝手に開けて、飲みたいものを勝手に注ぎ始める。
都築はふと、扉が半開きになっていることに気付く。
「あ、そういえばうちの部室覗き込んでくる人に心当たりあります?」
「いやいきなり何の話だよ」
「面白そうな話ね」
「いや面白くはないですけど、この間知らない人がじーっと部屋の中見つめてたんで」
「面白いじゃない」
「こえーよ!!!」
「誰かの知り合いかなーって」
しかしふたりとも心当たりはない、と首を振る。都築はそれ以上興味が持続するでもなく、そうですか、と頷いてしまう。
「それにしても、大学生活は早かったわ」
「お前は少なくともまだ2年あるけどな」
「院と学部じゃ全然別よ。無責任でいられた時代はここで終わりだわ」
「まるで卒業した途端に責任感が身に付くような発言ですね。幻想ですよ」
「やればできる子なの」
「まあでも確かに、」
ぐい、と志田が炭酸を飲んで、
「短かったな、大学。楽しかったけどさ」
「それ美味いですか?」
「マズイ」
「ください」
「はいよ」
「色々あったわ、4年間……」
「あったか?」
「よく考えたらなかったわ」
「もっと自分の人生に自信を持ってください」
「無理難題」
冬見はクッキーの袋を開けようとして、開けられず、都築に手渡し、
「でもとにかく色々怪奇現象に遭遇したことは間違いないわね」
「あー、確かにな」
「もう何が現実っぽくて何がオカルトっぽいんだかよくわからなくなっちゃったわ」
「それはどうなんですか」
「考えすぎると気持ち悪くなっちゃうのよね」
「深く考えないのが一番」
「生きてく上での知恵ですか」
「知恵を巡らせないことが一番の知恵なのね」
「虚しすぎるな」
「単純に思考体力足りてないだけなんじゃないですか?」
都築の発言は流される。封の開いたクッキーをもそもそと冬見は口に運ぶ。
「でも、結局オカルトって」
なんだったんですかね、と言葉は落ちた。開きっぱなしのメールボックス、新着の文字。無題。差出人。
大暮。
「あれ」
「来たんじゃないか?」
「え、何の話」
「大暮がまだ提出してなかったんだってさ」
「あ、そういえばまだ自分の分書いてないんだった」
「いくらなんでも忘れんの早すぎだろ」
あー、ともう一度呻いた都築。机上のウェットティッシュで指先を拭いて、マウスを片手に。白いカーソルが未開封のメールアイコンの上に重なって、
かちり、と。
本文。
『助けてください』




