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『ダイエットとは体重を一時的に減らす過酷な追い込みではなく、自然とベストな体型を維持できる生活環境を整えること。そんなことはわかっているのだ……』の場合

 曇り空を見つめながら部室でひとりアイスをのそのそ食べていると、気配を感じた。

 入口を見た。顔を髪で覆った女が、扉の隙間から中を覗き込んでいる。


「…………」


 都築は動じなかった。

 女は扉を開いた。中へ入ってきた。


「なぎりんダヨー」


 ダブルピースをしながら。


「なぎりんダヨー」

「…………」


 都築は無言だった。無言でいると、女は近寄ってきて、ピースサインの片方で都築の頬をぐにぐにと押し込む。都築は困惑と諦めの狭間のような表情でそれを受け入れていた。


「なぎりんダヨー」

「はい」

「そうです名切ちゃんです!」


 女が勢いよく首を後ろに振ると、ばさりと髪が翻って正位置に戻り、ごくごく健康そうな笑顔が現れた。今度は両手を胸の前に広げて、


「名切ちゃんですよー」

「そうですね」

「そしてあなたはなぎりん大好きつづきんくん!」

「そうですね」

「えっ……」


 名切と名乗る女は突然もじもじと腰の前で両手の指を絡ませ始め、


「て、照れる……」

「嘘つけ」

「うん!」


 嘘ですいえーい!と突如叫んで名切は都築の背を叩いた。ごえっ、と喉と胸の間から深刻な音がした。


「先輩アイス美味しい?」

「頭痛くなるタイプの味してる」

「あーん」


 名切は座る都築に合わせて腰を折り、目を瞑って大きく口の中を見せつけるように開く。都築は顔を顰め、


「やだよ間接口腔接触キモいもん」

「キモいとはなんですか乙女に向かって!!!!!!!」

「いやほんと。ほら」


 都築はセーターとその下のシャツの袖を勢いよく二の腕までまくり上げると、真白い肌を見せつけて、


「鳥肌立ってる」

「ほんとだ……」


 名切は都築の二の腕につつーっと指を這わせ、


「ほんとだ……」


 二回言った。


「ちなみにこれわたしが相手だからですか?」

「人間全部そう」

「じゃあいっか……」

「相互理解」


 都築は袖を戻す。それから名切の後ろにそれとなく目をやって、


「野宮は?」

「いつも一緒にいるわけじゃありませんよ」

「それはそうだけど」

「そのために神は人をひとりにまとめなかったんですから」

「そんなに壮大な話をしているわけではない」

「わたしとのみやんの絆が矮小な話だと言うんですか!?」


 えー、という顔で都築は名切を見た。

 ばーん、と扉が開いた。

 野宮だった。


「そんなものはない!」


 高らかに宣言した。

 がーん、という表情で名切は野宮を見た。なんだこれ、という表情で都築は虚空を見ていた。


「『絆? そんなもんありゃあしねえ。ここは街。関係だけが本物で、そこに特定の”誰か”が入りこむ余地なんてどこにもねえ。だけどそんなら、おれたちは何のために……』路地裏に座り込んだ男が、踏みにじられた吸殻に語りかける。空には煙のように頼りない月が吊り下がり、街の真ん中を通るどぶ川の水は、夜闇に紛れただひたすらに黒い。『人格は何のために。思考は何のために。存在は何のために。おれひとりにできることは』時計は何も答えない……」

「はい」

「ところで野宮ちゃん、追いかけてた蝶々はどうしたんですか?」

「いつの間にか消えてた。ところであれ名切には見えてた?」

「見えなかったですけど」

「まーたボクだけに見えてたのか。先輩、これ幻覚?」

「幻視蝶」

「オシャレな響き」


 都築は興味なさげにアイスを貪ろうと木製の小さなスプーンを動かす。けれどもうほとんど溶けてしまったそれをかき回すばかりで、一向に内容体積は減る様子を見せない。


「ちなみにどんなのが見えてたの」


 投げやりに聞くと、


「3mくらいあって、」

「それは幻覚です」

「やっぱしそうか……」

「むしろ野宮ちゃんよくそれを実在生物だとかすかにでも思えましたね」

「実在してたら億万長者だと思うと、つい期待を抑え込むことができなくて……」

「こいつ新種発見からよく億万長者までキャリアプラン膨らませられるな」

「幸福な家庭の建設までスムーズにいったんだけど、儚い夢に終わったよ」

「野宮ちゃん、いくら妄想だからってそんなどうやっても無理なことについて考えてもつらくなるだけですよ」

「表に出ろキミとの友情も今日までだ」

「やっぱり友情あったじゃないですか!」

「しまった」


 やったー勝ったー!と両手を上げて跳ねた名切は駆け出して窓をがらりと開けた。寒風吹きすさぶ。秒で閉めた。


 都築は嫌そうな顔で液体になったカップアイスを見つめている。それからぐいっと、それを傾けて飲み干し、眉間に深い溝が刻まれた。

 野宮が聞く。


「先輩、それ美味しかった?」

「元気なときなら」

「あーん」


 野宮は都築の横で床に膝立ちになり、目をかっ開いたまま小さく口を開いた。都築は頭痛を堪えるような表情のまま、


「もう全部食った」

「察しが悪いなあ、これはキスを求めるポーズだよ」

「どんなキスだよ」

「教えてやるよベイビー」

「口唇接触キモいから無理」


 都築の言葉に、一瞬野宮は考えるような、何も考えてないような顔をして、


「たしかに口唇接触キモいね」

「相互理解」

「キモすぎて鳥肌立ってきたよ」

「マジで」

「ちょっと待ってください」


 名切が割り込む。


「鳥肌ってそんなに頻繁に立つものなんですか?」

「ボクはそうだね」

「うん」

「もしかしてふたりは鳥なんですか?」

「鳥の定義によるかな」

「何でもかんでも定義によろうとすると神罰が下るぞ」

「そういう先輩こそ容易く神を持ち出しすぎると通りすがりのプロとかにボコボコにされるよ」

「何のプロだよ」

「神のプロだよ」

「誰だよ」

「名切くん答えをどうぞ」

「えっ! ……じゃあわたし?」

「正解」

「この世に真理がひとつ増えた……」


 天使が通る。会話が途切れた。一瞬の間、部屋にいる3人がそれぞれ別々に3人とも、完全に何もない空間を見つめていた。何がいるわけでもなかった。


「あ」


 と最初に声を上げたのは名切。そうだ、とバッグをごそごそ漁ると、中から小さな爪切りを取り出して、


「都築先輩、爪伸びてません?」


 都築は言われて、自分の指先をんー、と眺めて


「それなり」

「切っていいですか?」

「どうぞ」


 都築は指を差し出すが、「待たれい」と野宮がふたりの間に割って入って、


「なぜボクには聞かない?」

「あれ、野宮ちゃんこの間深爪したって言ってませんでしたっけ」

「言ったさ。だけど深爪してるからってこれ以上爪を切れないってことがあるかい?」

「あるだろ」

「えっ、根元まで切っちゃっていいんですか!?」

「うっそぴょーん」


 喜色満面で聞いた名切に、野宮はさらりと返して都築の後ろに隠れた。都築は若干不安そうな顔でまた指を差し出す。


「握力が残る程度には爪も残してくれ」

「そんなに切りませんよー」


 心底嬉しそうににこにこ笑う名切がその指先を取る。ふたりは座り、名切は机の上の箱ティッシュから1枚引き抜いて指の下に敷く。顔を近付けてじっと見つめる。


 ぱちん、ぱちん、と。

 軽い音が部屋に響く。窓の外の曇天は分厚く音を閉じ込めるようで、近くの椅子を引いて野宮も座り込む。


「雨降るっけ」

「さあ」

「降りますよー」


 都築が首を傾げ、名切が答える。


「今夜は冷えるらしいですよー。あったかくして寝ましょうね」

「ありがとうお天気お姉さん。ボクは今日寝るつもりはないけど」

「えー、なんで?」

「寂しい夜になるからさ」

「?」


 よくわかってない顔をする名切。窓の外を見つめながら都築が言う。


「傘忘れた」

「なら早く帰った方がいいですよー。大雨警報出るかもって言ってましたから」

「まあ今日は帰るつもりないんだけどな」

「えー、なんでですか?」

「寂しい夜になるから」

「?」


 再びよくわかってない顔をする名切。しかし都築の右小指の爪を切って、ふと気付いたように。


「あ、誰かわたしにも話振ってください」

「名切くんは今夜誰と過ごすんだい?」

「誰とも過ごすつもりはないんですよ」

「なんで?」

「寂しい夜になるから……、んん? なんかこれ言葉の繋がりおかしくないですか?」

「余白は神秘によって埋まるよ」

「さては野宮ちゃん誤魔化そうとしてますね。誤魔化されました」

「めでたしめでたし」

「ハッピーエンド」


 いえーい、と名切が呟いた。ぱちん、ぱちん、と規則正しい音だけが響くようになる。


 ふと都築は気配を感じた。

 入口を見た。顔を髪で覆った女が、扉の隙間から中を覗き込んでいる。


「あ、先輩」

「え、うん」

「足の爪は?」

「恥ずかしいからやだ」

「ですよねー……。ちなみにのみやんは……?」

「ボクは足まできっちり深爪したから無理」

「切りすぎちゃダメですよー。爪巻いちゃいますからね」

「足の爪って小さくて上手く切れないからついばっつりやっちゃうんだよね。なんかこう、あるのかないのかはっきりしろよって感じで」

「ピンセットとかで引っこ抜いてあげましょうか?」

「うそうそうそぴょん。いやほんとうそ」


 野宮は庇うように靴の爪先を床にぐりぐりと押し付けた。都築は手首をがっちりつかまれていたので指を庇うことはできなかったものの、肩はかなり引けていた。


 ぱちん、と最後の一音。


「はい終わりです。はー、すっきりした」

「死ぬかと思った」

「大袈裟ですね」


 名切はティッシュの上で爪切りをとんとん、と叩き、それから丸めて部屋のゴミ箱に捨てた。


「ところで、最近髪も切れるような気がしてきたんですけど」


 しゃきしゃき、とハサミを扱うジェスチャーに、都築は迷うように口元に手を当てて、


「……流石に不安だな」

「えー、大丈夫ですよ。この前髪だって自分で切ったんですから。ほら」


 さらさらと前髪を手で流す名切に、都築はへー、と感心の声を上げ、


「あ」


 と思い出したように部屋の入口を見た。


 先ほど覗き込んでいた女はいなくなっている。つられて名切も入口の扉を見ていて、


「さっきの人、先輩の知り合いですか?」


 と聞いて、しかし都築は首を振り、


「いや知らない、と思うけど。てっきり名切か野宮のどっちかの知り合いだと」

「わたしは知らないですよ」


 都築と名切は同時に野宮に視線を向け、野宮は、


「……あ、ボクにしか見えてないわけじゃなかったんだ」


 もう一度天使が通った。

 今度は重い沈黙だった。


「……あの」


 最初に声を上げたのはまた名切で、


「わたし、寂しい夜いやなんですけど!」


 切実に叫び、都築も野宮も頷いて、


「そうだね、都築くんちで徹夜で遊ぼう」

「モンスターハウスはもっといやなんですけど!」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ! 恐怖の夜はやだー!」

「人は恐怖から逃れることはできない」

「知ってますけどー! そういう話じゃなくてー!」


 部屋の喧騒をよそに、窓の外の雲は重々しく厚みを増し、色は黒く、太陽の光をどんどんと翳らせていく。


 雨の降り出した音が部室まで届くのは、もう少し時計が進んでからの話になる。

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