『丘』の場合
幻聴かと思ったがそんなことはなかった。
『閉館15分前になりました』穏やかなクラシック音楽とともに自動音声が聞こえてくる。都築は腕時計を見た。時刻は21時45分。月橋大学の図書館。今日は開館時間の8時30分からずっとここに籠っていた。
うん、と背伸びする。腹筋が伸びて、肩が音を立てる。はあ、と脱力すると空腹を自覚した。13時頃に学食に抜けたきり何も食べていない。机の上には開いたハードカバー、ルーズリーフとレジュメが散乱している。
結構進んだな。思い、あくびをしながら机の上を片付ける。裏に『月橋大学図書館』のバーコードのついたものだけを選び取って、5冊ほどを抱えて席を立つ。都築が座っていたのは壁に向かう一列のテーブル。振り返れば目の前はすぐに書棚だ。
都築が今いるのは、図書館の地下1階。閉館前の時間帯にもなると都築以外に人影はない。というのも、ここに置いてあるのは基本的に何年も借りられなかったために追いやられてきたような書籍ばかりだからだ。試験前で他階の机が全部埋まってるんでもなければ、ここに来る人間はそれほど多くない。
書棚の間に都築が入ると、センサーで電気が点いた。都築は迷うこともなく目当ての棚の前に立ち、書籍の背表紙を見ながら順番通りに差し込んでいく。途中で気になったのか、関係ない本もいくつか手に取って、順番通りに並べ直した。
うん、と満足げに頷いて席に戻る。レジュメとルーズリーフを申し訳程度に並べてクリアファイルにまとめて突っ込む。鞄を持ち上げて、机のまわりに忘れ物がないことを確認して、椅子を戻した。
ついさっきの書棚の間を再び抜ける。それから、書棚横についている、緑に光るスイッチをぽち、と押した。それでその棚の通路電気が消える。
月橋大学図書館の地下階は電動の集密書架になっている。スイッチを押すことで目当ての本棚の間が開いて電気が点くようになっていて、使い終わったらスイッチの灯りを消して電気を消すように、との省エネに関する指導がされている。
都築はそれをよく守る。スイッチを押す感触が気持ちよく、真新しく金属質の強い書棚のデザインも気に入っているからだ。
こうして地下に残っているのが自分ひとり、という状況になれば、都築は階の全体を見回って電気の消し忘れをチェックしたりすることもある。閉館まであと10分ちょっと。すぐに係員が見回りにくるだろうし大して意味のないことだとも思うが、ついやってしまう。楽しいので。
カーペットの上を行く。それほど階は大きくない。端から端まで歩いても、棚の数は左右におおよそ10くらいずつ。スイッチはすべて今歩く中央通路沿いで押すことができる。
驚くべきことだが、電気の消し忘れがない日というのはあまりない。毎度都築は『そんなに忘れるものか?』と首を傾げるものだが、しかし普段地上階しか使っていないなら自動で電気の点く場所は自動で消えるものだと思ってしまうのも無理ないことかもしれない、とも思う。入学直後のガイダンスで言われたことをそんなに長々と覚えていられると考えるのも、人間の記憶能力を過信しているような気がした。
ふたつ、電気を消した。
事務室に続くらしい封鎖された扉の前に着いた。
踵を返した。
人が倒れている。
幻覚かと思ったがそんなことはなかった。
一番奥の棚の間、乱れた金髪の女が倒れている。
可能性①、病人。可能性②、死体。可能性③、霊体。
どれかな、と都築は近づき、しかしその表情はすぐに興味関心から呆れに変わった。
知り合いだった。
ぺちぺち、と頬を叩くと、んん、と呻いて身体をよじる。そして姿勢を整えてまた安らかな眠りが再開されそうだったので、都築は寝ている女の鼻をつまんだ。ふぐっ、と声を上げて、薄目が開く。
「おはようございます」
「…………?」
女は起き上がる。しかし寝起き特有の怪訝そうな半目でじーっと都築の顔を見つめ、それから確かめるように両手で都築の頬をぺたぺたと触り、
「実在……?」
「はい」
「人類……?」
「はい」
「…………?」
「はい」
「あっ!」
と急に声を上げた女に都築は「しーっ」と人差し指を立てるが意に介されず、
「月橋大学3年、都築」
「はい」
「オカルト研究会長」
「はい」
「一方私は月橋大学1年、鷹森」
「はい」
「よしよし」
鷹森と名乗った女は、にまっ、と笑い、
「で、ここどこ?」
「図書館」
「……あーあーあー、なるほどね。確かにここまで来た来た」
「来て?」
「寝た」
「迷惑だからやめようね」
「うん。もーやんない」
うんうん、と頷く都築に、鷹森は「今何時?」と尋ね、都築が「もう閉館」と答えると、「そっかー」と背伸びをした。
「じゃ、帰ろっか」
「うんうん」
「会長の家行っていい?」
「は?」
いやあの、と都築は続けようとしたものの、流れ続けるクラシック音楽を思い出すように視線を天井の方に向け、
「とりあえず出てからね」
と歩き出し、鷹森も大人しくそれに従った。
「うわさっむ!!」
寒風吹きすさぶ、わけではないが外は非常に寒かった。冬の透明な空気が夜に紛れて空から降りてきているように、11月はもはや秋の空気を忘れていた。
都築はすでに冬物のコートを羽織っている。一方鷹森は昼間の気温に合わせてか、秋にしても薄着の服装で、特にガバガバの首元が見ているだけで震えそうなほど寒々しい。
が、都築も寒かったので特に上着を貸すこともなかった。
「会長の部屋こたつ出してある?」
「ひとつ聞いていい?」
「何?」
「なんで1年生は俺の部屋に来たがるの? 別にテーマパークやってるわけじゃないんだけど」
「え?」
本当に怪訝そうに聞き返した鷹森の息は白く、
「でも野宮さんが『あれで生きてるのが不思議』とか言ってたよ?」
「知らない間にテーマパークになってる……」
夜の大学。22時も直前になると明かりはほとんどない。図書館前、昼間だったら人の行きかう広場も学食テラスもすっかり主役は夜の植物で、点在する街灯を目指して名も知らぬ羽虫が小さく上る。シャッターの閉まった購買部は遠目からは廃墟のようにすら見え、あの奥に未だ数多の商品が陳列されたままというのはにわかには信じ難いことのように思える。
学食の横を抜けるようにふたりは歩く。さっぶーと零した鷹森が都築の首裏に手を回し、ひえーと都築が声を上げ、鷹森が冷える?とけらけら笑った。
先には大きな下り階段がある。その先、一体何に使うんだかよくわからない建物の前を通り過ぎると、一番よく使う教室棟があって、そこも抜けてしまえばすぐに正門が見える。
「そういえばさ」
首を竦めながら都築が言う。
「知ってる? ここの教室棟、地下があるんだよ」
「へー、図書館みたいな? 何があんの?」
「いや知らない。データ出てないし、立ち入り禁止になってるのかすらわかんないし」
「え」
へえ、と鷹森は興味深げにその教室棟を見て、
「そんなんあんだ。なんか雰囲気良くて落ち着くなーと思ってたんだけど」
「階段から普通に降りられるんだけどさ。別に封鎖とかもされてなくて」
「先に行ってみたことないの?」
「そういうの全然知らなかったころに茅本とたまたま見つけて、何があるのか気になって降りてみたことはあるんだけど」
正門近くの街灯は薄い光を放っている。守衛室の前には警備員が立っていて、教室棟の前に立てば大学のすぐ目の前にある駅ホームの光が遠く輝くのが見える。人影はまばらで、来ない電車をじっと待ち続けているようにも見えた。
「地下で日光入ってこないからものすごく暗くてさ。電気勝手に点けるのもなあって3歩歩いてリタイア」
「早っ」
「あのまま歩いてったら階段に戻れなくなりそうだったから。自分の手のひらも見えなくなんの。で、それっきり。立ち入りできるならどうせ大したもんもないだろうと思ったし」
「ほへえ」
色々あんねえ、この大学。と感心したように明かりの失せた教室棟を見つめた鷹森は、思いついたように逆側に視線を向け、
「あ、じゃあさ。あれって何?」
「どれ」
「あのいっつも看板立ってるとこ」
ああ、と都築は左手の建物を見て、
「あれ博物館。たしかにあんまり行かないから知らないか」
「え、そんなんあんの」
「小さいけどね」
「良い?」
「人はいない」
良いじゃん、と鷹森が言って、都築が、良いよ、と頷いた。
それから鷹森は、博物館の先にある建物を指差して、
「じゃああっちは?」
「どれ」
「あの正門脇のスロープの先。木でよく見えなくなってるとこ。前から気になってたんだけどさー」
「学生事務」
「ジム?」
シュッと軽く拳を振った鷹森に、違う違う、と都築は首を振り、
「デスクワークの方の事務。入試の成績開示とかやんなかった?」
「やってなーい」
「まあそのうち行くことになると思うけど。事務手続きの窓口だよ。あそこで成績証明とか取れるし、バイト募集の張り紙もある。実験系とか」
「へえー。全然知らなかった」
「まあそのうち使うんじゃない? 落とし物とかもあそこだし、あと教官によってはあそこのレポートボックス使う人もいるかな」
「へえええ~、色々、」
と言いかけて、くしゅん、と。
鷹森がくしゃみをして、寒そうに肩を震わせた。いつの間にか、立ち止まっていた。
一瞬、間があった。
次に、都築もくしゃみをした。
ふたりは顔を上げて、見合わせて、はは、と破顔して、
「帰ろっか」
とどちらともなく言い出して、駅へと歩いた。
守衛に頭を下げて、駅の階段を上って、改札を定期券で抜けて、階段を下りて、ホームへ。鷹森はすぐに電車を待とうとしたけれど、都築が奥へと歩いていくのを見て、合わせて後ろからついていった。
ホームベンチには空きがある。けれど一瞬腰を下ろして冷たくて、結局ふたりは立ったまま電車を待つことにした。
「あ、じゃあ会長。これは知ってる?」
夜空を見上げ、踵を上げたり下ろしたりしながら、鷹森が口を開いた。都築はポケットに手を入れて俯いている。
「ここ、各停しか止まらないじゃん?」
「うん」
「でもさー、いつだったかな、午前2時とか3時? 回送電車が止まるんだって」
「へー、なんで?」
「さあ。駅員の交代なのか何なのか知らないけど、そーゆーの見た人がいるんだって」
知ってた?と鷹森が聞き、知らなかった、と都築が答えた。だろーね、と鷹森が笑った。
「だって嘘だもん」
「……あー」
電車がやってくる。先ほどふたりが下りてきた階段のあるのとは逆側の方向から。一瞬間を空けて、信じ難いほど冷たい風が頬を切っていく。
電車は止まらず、走り抜けた。急行だ。
急にあたりは静かになる。先ほどよりもずっと。遠くの虫の声も、電球の生きる音も、夜の冷たさに伝播してすぐ隣に佇んでいるようだった。
「じゃあ、これは知ってる?」
都築が口を開いた。鷹森は空を見上げている。
「人は死ぬと、天国に行く」
電光掲示板は、3分後に訪れる各停車両の情報を映している。その下には通過列車。
夜空の星は、ここではないどこかの市街の光に紛れてひとつも見えない。月だけが独り、切り絵のように貼りついている。
「それ」
空へ上る白い吐息は、涙よりも水っぽい。
「ほんと?」
尋ねたのは、鷹森。
「さあ」
答えたのは、都築。
「そのうち、わかるんじゃない?」
電車が来るまで、残り2分。
ふたりは並んで待っている。




