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【天使鏡】

【天使鏡】




 ある朝目を覚ますと、鏡に映る姿が自分の物ではないことに気が付いた。


 では誰であるか。

 私ではない。

 右の手を挙げた。鏡の中の私はびくり、怯えるように身を縮めた。

 顔に触れた。感触は変わらない。それはいつも通り、男性の、少年の骨格をしていた。鏡に映る私は顔に触れることもなく、困惑の表情で私を見ていた。


 映るのは、美しい貌をした少女だった。


「誰だ?」


 私は尋ねた。彼女も口を開いた。声は届かなかった。だから次には大きく口を開き、唇の動きで言葉を読ませた。大きく開いて、あ、え、あ。たったそれだけのことで彼女はすべてを察したらしいが、その答えを返すすべを持たなかった。


 沈黙が訪れた。錯覚と思い、私はもう一度眠りに就くために部屋に戻った。背後、彼女もまた同じように部屋に帰っていくような気配を感じた。


 部屋に帰り、再び困惑した。

 窓ガラスに薄く映る姿は私の物でなかった。少女だった。彼女は目を丸くしている。もしやと思い、私は机の引き出しから手鏡を取り出した。

 そこに映るのも少女であった。


 14の春の日だ。

 あらゆる鏡のすべてに、私でない少女の姿が映るようになったのは。




 まずは鏡を嫌うようになった。

 気味が悪いのだ。自分がいるべき場所に他人が映るというのは。できるだけ近付かないように、見ないように。このとき彼女がどうしていたかは知らない。だが水面や街角のショーウィンドウに姿を見るたびに目を逸らしていたのは、きっと同じ理由からだったのではないかと思う。


 同時に、気恥ずかしかった。

 鏡は私的空間に平然と入り込む。そこに他人がいることへの居心地の悪さを常々感じていた。水場は最悪だ。未だに私は湯船に水を張る習慣を持たないし、脱衣所の鏡は取り外している。


 そして当然であるが、不便だった。

 鏡を見ても自分の姿が映らない、どころか水面にも映らないのだ。他人の瞳の中に少女の姿を見たこともある。ゆえに自らの姿を確認することができないまま月日が流れ、写真にだけは自らの本来の姿が映るということに気付いたときには思わず拳を握りこむほど喜び、それより毎朝自分の全身の写真を撮って身なりを確認するのが家を出るまでの作業フローの中に組み込まれるようになった。


 ようやく生活に慣れたのは、半年が過ぎ行きてからだった。

 ほとんど鏡を見ない日々が続いて、ようやく異常事態も生活の一部として飲み込むことができるようになったころ。


 けれど一方で、それとは別のひどいストレスを抱えていた。詳細は省くが、当時の私はひどく追い詰められたように感じていた。機械的に様々な物事を処理していたものの、あるとき、急に身体が動かなくなった。


 学校からの帰りの電車の中でのことだ。

 自宅最寄りの駅に着いた、そういうアナウンスが聞こえてきて、目の前でホームドアが開いた。しかし身体は動かなかった。


 動かせなかったと言い換えてもいい。

 ここで降りると頭では理解していたが、身体に力が入らなかった。一歩も動くことができなかった。


 その場から動けないままに扉が閉まった。私はそれを無感動に眺めていた。このまま乗り続けていたら、どこに辿り着くのだろう。その答えはすぐに車内アナウンスで流れてきて、私はその終点に何があるのかもよくわからなくて、もう何もしたくないと、ただそれだけを思っていたとき。


 電車がトンネルに入り、暗くなったガラスに鏡が現れた。

 そこに映ったのは偶然かこちらを覗き込む少女の貌で、私はけれどその日だけは、もはや目線を逸らす力もなく。


 少女が笑った。


 たったそれだけのことで、救われる魂もあると知った。




 愛だの恋だのといった種の言葉で自分の感情を分別することはできない。(複雑性という点に着目しての)高次感情・欲求・反応についてを軽率に一語の枠に当てはめることは自身の精神的活動に対しても、また言葉に対しても不誠実だと考えるためだ。


 だから、これを読むあなたに想像してみてほしい。


 本当につらいとき。

 何もかもが嫌になったとき。

 自分のことを考えるのも嫌で、自分以外のことを考えられるほどの思考の余裕もなくなっているとき。


 そういうとき、ふと目を滑らせたとき、そこにいつも笑ってくれる誰かがいたら。


 私が彼女に対して抱えていた感情は、きっとそれに類似している。


 ふとした拍子に目が合った。あの日以来、私はそれを逸らさぬようになった。彼女はそれに戸惑ったり、はにかんだり、ときには身の置き場のなさそうに恥ずかしがったりした。そういうことのひとつひとつが、私の命を長らえさせた。


 日々のストレスは相変わらずだった。何も根本的な解決はしていなかった。それでも、私の心は毎日少しずつ楽になっていった。

 見るべき誰かがいること、見てくれるだれかがいること。それが私を自由にした。


 そして、少しずつ、違和感にも気付き始めた。


 彼女の映る鏡、その背景は全く私の立ち位置から映るはずのそれとは違っていた。初めからそれ自体は見て知っていたが、段々とそれが違う意味を持つことをわかり始めた。


 鏡の映る先はそのとき彼女がいる場所に近接した鏡から見ることのできる場所だとは思っていた。しかし、そこから見える風景はあまりにも見慣れないものだった。見慣れぬ部屋だとか、見慣れぬ街だとか、そういう程度の話ではない。


 顕著だったのは、文字だ。初め、彼女の笑顔の向こうにある文字の意味を一目で取れないのを、鏡文字になっているせいだと考え、それほど真剣には考えなかった。

 しかし気付く。それは鏡映しになった日本語などではなかった。


 奇妙な文字だった。少なくともアルファベット系統の文字ではなく、アジア圏の文字でもなかったように思う。アラビア文字でもないと調べてわかったときに、違和感は巨大になった。


 おかしいのだ。彼女も、鏡に映る先にときおり映る彼女以外の人物も、私と変わらないアジア系統の顔立ちに見える。それなのに文字の形は全く異なる。それが気になって、次に気になり始めたのは調度品。


 アンティーク趣味と片付けるには難しいほど彼女の行く先々、いたるところに、古風なのか先進的なのか判断に困るような道具が溢れている。


 極めつけには、彼女が私と同じように学校に行っていたときのことだろう。私はそのとき化学室で実験の最中で、教室の一番後ろ、ガラス棚から薬品を取り出そうとしていた。そのガラスにぼんやりと映る彼女の周りには古臭い置物が溢れかえっていて、一体何の勉強をする部屋やら。そんなことを考えていると、地球儀らしきものが映った。


 その表面に映されるそれは、まるで地球のものとは違っていた。


 六大陸もなければ三大洋もない。奇妙な黒色に星のように無数の白が点描されているように見えた。

 「それはなんだ」と尋ねたかった。が、そんなことをして聞こえるわけもなく、文字が違えば彼女に即座に伝える手段も思い浮かばない。私は平静を装い、実験を続け、しかしその間ずっとひとつの欲求に思考を支配されていた。


 彼女をもっと知りたかった。




 家に帰り、物置から古い地球儀を引っ張り出し、地図帳も横に置き、鏡に向き合った。映る少女は首を傾げ、私もその意図を上手く伝えるすべを持たなかった。

 それでもどうにか、手探りでも、私は自分の考えを彼女に伝えようと試みた。


 君はどんなところに住んでいるんだ。私はここだ。

 君はどんな名前で何歳で、私は。


 そんなことを。

 面と向かえばすぐに知れるようなことを、一枚の鏡を隔てて、もどかしく私たちは伝え合った。


 様々なことを知った。

 彼女の住む飛び石の大地のこと。そのひとつひとつに名前がついて、彼女は球体の上方に位置する島に住んでいるということ。

 技術発展の具合が私たちの住むこの世界とは異なること。私たちはそれぞれ何か小物を持ち寄ってはその働きを相手に見せ、そして同じ機能を持つ道具を使う様子を見せてもらい、そのたび大袈裟なくらいに驚いたり、喜んだり、興味を持ったりした。時代がちぐはぐに見えるような外見と中身の組み合わせがあったり、あるいはそもそももう一方の世界には存在しないようなものがあったり、そういうことが私たちの隔たりを大きく見せたり、ときには小さく見せたりした。


 そして、彼女の名前。


 正確な発音を知ることは叶わなかった。子音の発音がどうしてもわからなかったのだ。発音記号によるやりとりにしてもそもそもがその記号がどの音を表すかわからなければ話にならない。そして互いに、自分の口腔における舌の動きを相手にじっくりと披露する、なんて選択を取ることはできなかった。あまりにも恥ずかしかったから。


 けれど、母音の組み合わせはわかった。彼女が大きく口を動かした。え、ん、い。


 彼女の世界における発音の法則はわからない。だからきっと、この名を正確に発音できることはないだろうと思った。だから私はこう決めた。


 天使、と。


 考えついたときには熱が昇り、伏せた顔は間違いなく赤く染まっていたと思うが、しかし私にとっての彼女はそういう存在だった。


 私を助けてくれた人。


 わかりはしまい。だから好きに呼ばせてもらおうと思った。決めて、心を落ち着けて顔を上げると、彼女が心配そうに覗き込んでいた。

 そのときには、もうきっと、彼女にも私の気持ちは伝わっていたと思う。


 彼女が私を何と名付けたのか、知りたいと思った。


 冬の迫る、暖かな日のことだった。




 遅かれ早かれその日は来たに違いないと思う。


 彼女に会いに行こうと思った。


 どうやって。

 知らなかった。知らなくても良いと思った。彼女の下に行けるまで、思いつく限りあらゆる方法を取ればいいと思った。たとえそれが湖面の月に手を伸ばすような愚かな行為だったとしても、私はそれを試さずにはいられなかったし、そもそもがありそうにもない状況だったのだ。今更ありえそうもないことのひとつやふたつ、自分の想像を超えてあっさり達成できるに違いないと楽観していた。


 会いたい、と。

 届かぬ声で彼女を呼んだ。彼女が頷き、微笑むのを見て、もう何もいらないような気がした。


 私から会いに行くことに決めた。理由は単純だ。私を取り巻く世界は私を苦しめ、一方で彼女を取り巻く世界は彼女を祝福しているように思えたから。どうせなら良い世界に行きたかった。けれど本音を言えばどちらでもよかった。彼女が私の下に現れたなら、それですべてが叶ってしまうような気がしたから。


 思いつきは単純だった。人気のない泉の前に私は立っていた。薄明り、東から昇ってくる夜の気配が私の背を追っていた。

 目の前には彼女がいる。私はそれを覗き込む。


 鏡の向こうに行くのは難しい。

 けれど水面の向こうに行くなら簡単だ。


 冬の水は当然冷たく、すぐに暖を取れるように準備はしておいた。これで行けるとも限らず、ただの愚行になる可能性も十分考慮していた。


 けれど、彼女を見るだけでそんな憂いも不安も取るに足らないことに思えた。


 水面は揺れる。


 それでも私たちの瞳は互いの芯を捉えて離さず。


 宇宙さえほんの小さな余白のように思えて。


 彼女が両手を広げて。


 私は飛び込んだ。




 淡い運命の予感がすべてを壊してしまったと知るのは、次に私が水面から顔を出したときのことだった。


 周囲を見渡せど変化はなく、失敗を悟った私は、能天気にも「次はどうしようか」なんてことを考えていた。

 冷たい水に浸した身体を震わせながら、失敗した恥ずかしさにはにかみ、彼女にそれを伝えようとしたとき、気付く。


 そこに彼女はいなかった。

 私に微笑みかけていた彼女は、鏡の向こうにいなくなっていた。


 水面をかき回した。叩いた。飛び込んだ。

 されど何らの変化もなく。

 数秒もしてしまえば波も収まり変わらぬ静寂を取り戻し。


 覗き込んだ先。

 鏡に映る私は、知らない人のような顔で佇んでいた。




 彼女は私の精神が生み出した、幻想の逃げ場所だったのか?

 そう疑わない日はない。


 以来、彼女の姿はどこにも見当たらず、鏡は本来の機能を取り戻し、私の顔ばかりを映し出す。


 彼女の笑顔は。

 私を救ったあの微笑みは。

 天使の姿はもうどこにもない。


 会いたいと、願ったがためにすべてが壊れてしまった。

 ただそこにいてくれる。それだけで満足しておくべきだった。後悔しない日もない。


 十分だった。十分だった。十分だった。

 言い聞かせるように何度も唱えた。私は強くなった。痛みにも苦しみにも耐えられるようになった。人を跳ねのける方法も、かわす方法も覚えた。だから誰の微笑みがなくとも、天使がいなくとも生きていけるようになった。だからあの一瞬だけで十分だったのだと、そう言い聞かせて無理に納得させるようなことも、何度も試みた。


 けれど、あの日から。

 あのときから。

 それでも私は。

 私たちを引き合わせたのが運命なら。

 引き離したのが運命なら。




 運命じゃなくてもいい。

 もう一度、彼女に会いたい。




(文:響)

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