九十八. 1864年、南禅寺~鬼副長・土方~
ばんっ!
―――左手が叩きつける様に書物を閉じる。宮部の顔色は真っ蒼になっていた。
「―――――・・・・・・」
・・・・・・宮部は漸く、頭を手で支えた。其迄は両眼を見開いた侭ぴくりとも身動ぎしなかった。
胸騒ぎがする。
「・・・・・・・・・!」
忠蔵が引っ立てられたのは、古高拷問で有名な前川邸の土蔵である。彼等の前にも数々の長州系の志士がこの、其用に改造された滑車を用いた拷問を受け、自白させられた。
だが、忠蔵が自白する事は無い。土蔵の床に跪かされ、隊士に頭を押え込まれて最期の時間の訪れを只待っていると、永倉の小さな足に続いて鼻緒の赤い黒の草履を履いた足が中に入って来る。
「どうします?―――土方さん」
―――・・・土蔵に踏み込まれた瞬間、組内に於ける空気が先刻迄と一変した。
「喋れない宮部の従者、か」
新選組副長・土方 歳三が直々に忠蔵の前に現れる。
「――――・・・・永倉と代れ」
―――土方が囁く様な低い声で、忠蔵を押える隊士に言う。隊士が恐怖している事を、己の頭や背に触れる手の温度を通して知る。
隊士は軈て、土蔵から出て往った。
「・・・・・・・・・」
・・・・・・疾うに死は覚悟した筈だった。併し、其では甘い事を忠蔵は知る事になる。土方の顔が下りてきて、顔のすれすれまで近づいた。忠蔵の顔を覗き込み
「宮部の隠れ処は何処だ」
・・・・・・永倉と同じ訊問をする。
「・・・・・・・・・」
忠蔵は答えられない。だが土方は根から其を信じていなかった。否、関係無かったという方が正しいかも知れない。
「―――新八。之からコイツを器械にかける。左之助を呼んで来てくれ」
土方が容赦の無い台詞を放つ。囚人を吊るす拷問用の滑車を、土方は器械と呼んだ。忠蔵の血の気が引いてゆく。
「でも土方さん、ソイツ自白は出来ないから拷問に掛けても意味が無いんじゃ・・・?」
「関係無い」
永倉の疑問を土方は一蹴した。その非情な顔つきに、試衛館の頃からの付き合いである永倉も黙った。
「鳴くか鳴かないかは結果の話・・・・・・そういう事だろう?宮部」
土方は忠蔵の髪を攫んで前に引き倒し、肩甲骨に短刀を突き立てた。盛り上がっている骨を集中的に裂く激痛に、忠蔵は身体を跳ね上げた。
「ーーーーーっ!!」
「確かに鳴かねえな」
忠蔵は口を大きく開いて叫んだ。叫んだのに、殆ど掠れた息しか出ない。忠蔵の声の頼りなさに土方は嗤い
「宮部も考えたもんだよなぁ。唖者なら取っ捕まっても口を割られる心配は無い。使い捨てにももってこいの人種だろうしな」
―――永倉が土蔵から出て行き、土方と二人きりになった。土方という暗闇の世界しか其処には無い。絶望の時間が始った。
「―――可哀想にな。口さえ利ければ、こんな目に遭う事は無かったのにな」
・・・土方は執拗に、忠蔵が唖者である事を憐れんだ。忠蔵の過去の嫌な記憶ばかりが刺激される。其でも出ない己の声に、忠蔵は泣きそうな表情になった。
『・・・・・・殺せ』
あの滑車で宙吊りにされようが、笞で打たれようが、如何でもいい。どうせ誰の役にも立てないのだから、さっさと殺して欲しかった。遣いさえ碌に果せない自分に、宮部も愛想が尽きる事だろう。
「・・・ん?聴こえねえな」
忠蔵の声にならない訴えを土方は却下した。忠蔵の顔が絶望に染め上げられてゆく。・・・土方は忠蔵の肩に腕を回し、慰める様に言った。
「でも、お前の価値は其だけじゃねえよ。喋れねえだけで・・・身体は健康じゃねえか」
「・・・!?」
忠蔵は土方の真意を測り兼ねた。併しながら、少しずつ形を帯びてくる其に、忠蔵は此の世には死して終らぬ世界が存在する事を知る。
「身体にも十分利用価値はあるぜ?」
「!!」
忠蔵は今更逃げようとした。自分の様な唖者が新選組屯所までついて来た事そのものが間違いであった。結局、自分が宮部を窮地に引き摺り込む事には変りが無い。
土方が縄尻を引っ張った。土蔵の扉ががらんと開く。原田 左之助が、忠蔵の前に立ち塞がった。
「宮部先生の“本心”ってのを聞いてみたくはないか?」
・・・・・・土方が猶も執拗く囁きかける。土方の言葉が、くるくる、蜿蜒と頭の中を駆け廻る。くるくると、滑車が綱を巻き上げ始める。
「―――てめえの“存在価値”ってヤツを」
笞が振り下ろされる。・・・痛いのは心の方だった。いっそ宮部が此の侭見捨ててくれればいい。自分には最早其だけの価値も無い。
「泣きながら失神しちまったぜ」
―――一刻ほど経って、原田が土方に報告に来た。忠蔵の身体は未だ器械に吊り下げられている。
「―――相応に傷めつけたか」
早々に土蔵から引き揚げていた土方が、醒めて乾いた声で言った。傍には顔色の悪い山南 敬助が居た。
原田の着物には忠蔵のものと思われる真新しい血が飛び散っており、他に以前長州藩士達を拷問した時に付けたであろう古い血の跡が在る。
「ああ。只の従者にしては相当耐えたが・・・でも、こんな事を遣って一体何になるんだ・・・?」
「よし。ならば今度はソイツを南禅寺の三門に吊るし上げてこい」
は・・・? 原田は困惑した顔をする。山南は蒼を通り越し、土気色の顔で土方に食い下がった。三門といえば、境内ではないか。
「境内に罪人を晒すのかい!?其に、南禅寺は肥後細川家と阿波蜂須賀家所縁の寺・・・両藩が黙っているハズが無い!!」
「ソコだよ、サンナンさん」
土方が悪鬼の如き表情で言った。
「両藩には喧嘩して貰おうぜ。肥後が悪ィんだよ、罪人の始末もつけられずに偉そうな顔をしやがって。其に、肥後人は長人共と違って絶対に仲間を取り返しに来る。たとえ下僕であろうともな」
土方は昨年の八月十八日の政変での河上 彦斎の動きについて研究していた。―――政変での河上 彦斎の働きと失態。敵と味方の犠牲の多さが、其の侭彦斎の働きと失態である。仲間を想う程手元が狂う。
その狂う精神を河上 彦斎に叩き込んだのが宮部 鼎蔵だ。
加え、長州は助ければきりが無い程京にも国許にも藩士が居るが、政変の犠牲で肥後は一人でも欠ければ後が無い事情がある。
―――宮部は必ず網にかかる。
「故郷の菩提寺に仲間が晒されるなんざ仕打ち、アイツらが我慢できるハズがねぇ。矜持だけは立派なヤツらだ。従者を吊るし、そしてその周囲を張れ。見張るのは・・・そうだな、お前と、あの肥後者の隊はどうだ?」
「んなっ!?」 「えっ!?」
原田と山南は同時に声を上げる。そして、自分達の同志ながら戦慄した。池田屋で彼等が何かを断ち切る迄、極一部の者しかまだ鬼にはなり切れていなかった。
「ど・・・同郷の者に吊るさせようというのか・・・・・・!「見せしめだ」
―――土方は鬼であった。彼は既に断ち切っている。だからこの様な、鬼畜めいた事が出来る。
「次はてめえの番だというな」
・・・原田と山南は、絶句した。
南禅寺三門の楼上が、忠蔵の生き晒しにされた場処であると伝えられている。
「新選組の土方ぁ~~~っ!!」
―――ある意味当然と謂えるであろうが、忠蔵が南禅寺に晒し者にされた事で真先に動いたのが肥後藩である。
夜半に吊るされて翌日早朝には、肥後藩の役人が新選組屯所に怒鳴り込みに来ている。
「??土方さんなら、今日は珍しく朝寝ですよ」
隊士達はもう起きている。沖田 総司がのほほんとした態度で返答した。近くには、地面にぼたぼた血を落しながら歯磨きをする若い隊士が居る。
「でですね、本日発売の新商品があるんですよ~~♪♪聞いてます??佐倉さん」
「土方を叩き起してこんかぁ~~~~~っっっ!!」
スルーされ、肥後藩吏がブチ切れた。はいは~い、はいっ。沖田がばびゅ~んと土方を呼びに走る。呼ばれて飛び出た土方は肥後藩吏の姿を見ると
「ちっ。なんでィ総司、鼠が迷い込んだだけじゃねえか。あれくらい駆除しとけ」
「え~っ。私今日非番ですもん。非番の日は剣を抜きませんっ」
「おいこらてめえら」
再び寝に戻ろうとする土方を、肥後藩吏が引っ張り止める。土方はトリートメントしてそうな髪を掻き上げて、ちっ、と舌打をした。
「これはこれは薩摩の方でしたか。おいこらなんて」
「違ぇよ。確かに肥後では滅多に言わねぇが」
朝から火花を飛び散かす二人。暫くの間睨み合っていたが、軈て土方が予想していた通りの質問を肥後藩吏はした。
「肥後の本陣である南禅寺に何者かを晒し者にしたのは新選組だな」
「さあねえ」
土方は欠伸をしながら言った。藩吏側は今回ばかりは本気で腹を立てている。無理も無い。南禅寺三門は日本三大門の一つに数えられる程の寺の名物でもあり、この門を見る為に参詣する客も多い。そんな寺の玄関口とも謂うべき三門に晒されれば、寺の面目が立たない。
「ふざけるなよ貴様!てめえは何だ、いけ好かねえ奴は徹底的に貶めるのが新選組の流儀ってのか!!」
彼等は互いに自分達が心の底から嫌われている自覚がある。その所為か藩吏は罪人の三門への生き晒しを肥後藩に対する嫌がらせと捉えた様だった。
阿波藩や寺の住職には知らぬ存ぜぬで通しているが、身許が同藩人だった場合が恐ろしくて手が出せない。何より新選組隊士が張り込んでおり、其を払えるだけの兵力が今の肥後藩には備わっていなかった。大事にもしたくない。
―――そんな藩役人の本音が土方には聴こえている。土方は心底うんざりし、言葉を択ばず罵倒した。
「女が腐ったみてえにうじうじとうるせえ奴だなあ。之だからお役所の人間は役に立たねえんだよ」
「あぁ!?」
「・・・そうだよ。アンタん藩の罪人だよ。肥後藩が宮部やら河上やら松田やらで大変そうだから、新選組も手伝ってやってんのさ」
土方がひどく凶悪な顔つきで言った。・・・・・・。肥後藩吏は黙って土方のその顔を睨む。静かになったが、流石藩の重役だけあって土方に怯んだという訳ではなさそうだ。
「なあ上田さん、ここは一つ知らんぷりを貫き徹してみてくれよ。アンタが何もしなくても、罪人は勝手にいなくなるさ。
―――俺達はなぁ、罪人を使って、大捕物をしようとしてんだよ」
――――・・・。藩吏は冷やかな瞳で土方を見た。肥後の罪人を用いて大捕物など、導かれる答えは一つしか無い。
「肥後藩の面目が保たれる上に、藩の邪魔者も勝手に消えてくれる。今後の名誉も保証されるってこった。
肥後藩にとっても悪い話じゃねえと思うがなぁ―――?」




