九. 1859年、江戸~少年・山口 圭一~
(・・・腹が減ったな)
現実に戻って、久坂はキョロキョロと手頃な飲食店を見回してみる。江戸時代後期―――この時期には、大衆居酒屋や寿司屋、天麩羅屋、蕎麦屋、惣菜屋等、現代の飲食店と直接的に結びついた外食文化が出来上がっていた。肉はまだ一般的な食べ物ではなく、屋台の様な簡易的な店が多かったが、立ち並びとしては現代に匹敵する。『江戸名物酒飯手引草』という食のガイドブックがあった程である。
(昼間から酒というのもな・・・)
併し、江戸の者達、所謂宵越しの銭を持たぬ江戸っ子達を見ていると、陽の落ちる前から豪快に酒を浴びるのも乙かなと思って仕舞う。ふらふらと誘われる侭何処かの一膳飯屋に入った。盆に乗って運ばれて来た飯をもぐもぐ食っていると、久坂の隣にちょこんと小さな客が腰掛けた。
(子供?)
久坂はもぐもぐ動かす口を止めずに横眼で子供を見る。何と謂うのか・・・かわいげが無い。ある程度の年齢までいけば凄みというか、怯む要素があるが、顔立ちに幼さが残る為に世間を穿った視線で視る反抗期の子供という風にしか映らない。だが、久坂が出会った事の無い類の子供だ。・・・若い乍ら瞳に冷徹さが宿っているところが、この少年と同じ位の齢に江戸で働いていた稔麿に若干似ているかも知れない。
「・・・・・・」
・・・只の子供でない事は確かだ。
「・・・・・・」
・・・・・・子供の方もじぃっと久坂を見ている。
「なんだ坊主」
久坂は面白くなって自分から話し掛ける。やっぱり子供は子供なんだなぁ。子供は純粋で素直なものだと思っていた久坂は、敵は味方に在りの様な背後から刺される様な衝撃を体験した。
「―――兄さん、この間、人相書にある松田 重助と一緒に居ませんでした?」
ぶっ!!久坂は咳き込み、中に残る(というか粗吐き戻した)液体ごと湯呑を地面に落す。幸い誰にも掛る事無くそこが救いだが、湯呑を拾ってくれようとした少年の腕をぐわっと掴んで覆い被さり、肩組みをした状態になる。
「・・・・・・お前―――・・・無事に家に着くといいな」
「えっ」
久坂が哀れむ様な眼をして少年を見る。まぁ取り敢えずは座れ。と言い長椅子に腰掛けた。先程より互いの座る距離が近い。
「お前・・・之以上言うなよ?言うなよ?」
久坂がこそこそ声で少年に口止めする。
(まさか見られていたのがこんな童っぱにだったとは)
久坂自身は見られている事に気づかなかったが、料理屋の外に出てすぐ永鳥が姿を消したのに、何かあったなとは思っていた。
松田 重助は幕末に於いては松陰以上に有名な、一歩間違うと松陰と同じ道を辿る大罪人故、そんな危険人物と接触していたからにはこちらだって若し見られていた時の為の手を打っていない筈が無い。
「如何してですか?兄さんは志士でしょう?其にあの人は間違った事はしていない。正しい事をしている」
「だから言うなって!幾ら正しくても世の中が其をなぁっ・・・て、え」
久坂は思わず少年を二度見・三度見した。眉間に皴を寄せ八の字になる眉に段々とへの字になってゆく口。久坂のだらしない珍妙な表情に、少年はこの人は大丈夫かと不安になる。
「・・・あー・・・わかった。兄さん長州藩士でしょう。何かこそこそしているし、少し言葉にも訛りがありますよ」
少年の冷静な分析に、久坂は心なしか目尻と眉を吊り上げる。聞き捨てならない事ではないか。
自分に若干の長州訛りが残っていたのも指摘されて初めて知ったが、長州人がその様に見られていたとは。
「・・・こそこそ?」
久坂は負けず嫌いな長州人の気質を丸出しにして食い掛る。むっとした感情を露わにしても、顔の造りが造りの為にそうは見えないが。
「そう。こそこそ。最近は特にこそこそしていますよね。正しい事をしているのなら、もっと堂々とすればいいのに」
・・・。久坂はぽかんとして少年を見る。正しい事・・・そんな事を思って行動している長州人は其こそ松陰先生くらいの者だろう。長州藩にしてみれば生き残るのに必死なだけだ。大陸との国境が近いあの地は外国の格好の餌食となり得る。現に、鎌倉時代に元寇が襲って来た際は海を越えて隣の九州北部が戦場となり、多大な犠牲を払い乍らも追い返している。尊攘論者が西国に多いのも之が関係していると思われるし、現代の世に至っても反中・反韓感情こそあれど外国に対する危機感が関東で薄いのは、太平洋からわざわざ攻める非効率な国は昔も今も其程無いからなのであろう。
だから、謂って仕舞えば「たかだか黒船が来た」程度で弱腰になっている幕府に西国の者は失望しているし、そうでなくとも長州は散々煮え湯を飲まされてきている。同じ西国で外国の侵攻に手を焼いてきた薩摩と「開国」「攘夷」で考え方が真逆であるのは、九州北部や長州を含む山陰地方が防戦一方で外国を追い払うのに精一杯であったのに対し、薩摩は当時外国であった琉球王国の支配という或る種の成功体験を収めた経歴があるからかも知れない。
話を久坂と少年に戻すと、松陰の逮捕以降長州人に対する幕府の当りは益々厳しく、久坂等は今は耐える時期なのだが、少年がそこ迄知っていたのなら其こそ怪しい。
「・・・坊主。お前、何歳だ?」
「14です」
14・・・久坂は内心呟いた。久坂がその齢の頃にはまだ家族がいた。既に秀才と云われていたが、流石に彼でも論を語れてはいない。
「お前、松田 重助が何をしてるのかちゃんと解ってんのか?」
少し訊問調に訊いた。人間、教育という名で少なからず吹き込まれて成長するものだが、余りに明瞭としすぎている。何者かに利用されているのではあるまいか。
少年は疑う様に眉を寄せて
「・・・兄さんは本当に志士ですか?あれ位の事をしないとこの国は変らない。俺はあの人を尊敬していますよ」
と、きっぱり言った。
「大体、江戸の者達は暢気すぎるんです。そのくせ『火事と喧嘩は江戸の華』なんて言って。喧嘩を誇りにするんだったらその勢いで夷狄にも喧嘩を吹っ掛ければいいと思うんですけどね」
其は無謀だ。国防の要長州藩士は心裡で語る。其にしても、この少年は江戸の者なのであろう。自分の国に対して豪く辛口である。
「・・・お前、自分の国を豪く冷めた眼で視てんだな」
久坂は感心して仕舞う。宮部等熊本勢の様に自藩に対して何かしらの諦めや厭わしさを抱いているのとは叉違う。少年の方がまだ、自身の住む国に対して愛国の眼で見ている。
「そうですか?でも“志士”って皆そんな感じですよね。周りのものをきちんとよく視る勉強をしているというか。兄さん達西国の人はわざわざ遊学して日本全体を見に来る。江戸の者は江戸が日本そのものだと思っている。だから江戸に志士は生れないんだ」
少年はぼやく様に言った。久坂等西国の志士から見れば羨ましい事この上無いが。でもまぁ、平和“ぼけ”して仕舞う事は良くないのは確かである。我々現代に生きる者としても耳が痛い話だ。
「俺から見ればお前の方が変ってるよ。本当に14なのか、お前?日本全体について議論できる14歳なんて、全国探してもお前くらいなもんだぜ」
久坂が苦笑混りに返す。すると少年は初めて笑顔を浮べた。照れくさそうだが、無邪気な子供らしい笑みだった。少年は一転して人懐こい態度になると
「俺はずっと江戸住いなんですが、親族がいろんな処に行っていて、他所の藩の話をしてくれるんです。幼い時分から子守唄の様にその話を聞いて育ってきました」
と、嬉しそうに言った。松下村塾に在る―――飛耳長目帳―――を久坂は想い出す。松陰先生の様な開明的な教育を、この少年は最初から受けてきた訳か。・・・様々な処へ赴く親族の家業、については追及しないが。
「坊主、名前は」
久坂はまたまた面白い人物に出逢った。人々との出逢いが久坂の運命の舵を取る。其は久坂が死の淵に落ちるその刻まで続く。
「山口 圭一」
と、少年は名乗った。決して史実に現れる事は無い、歴史の波に消え去った名前である。
とはいえ、この山口 圭一―――・・・幕末期にあっては存命の為、作者にはまだ説明の余地が残されている。
彼は彼の有名な新選組監察方・山崎 烝の従弟である。無論、山崎 烝の存在を知ろう筈も無い久坂がその情報を活用できる事は無いが。山崎には実母と継母が存在するが、山口は実母の親戚である。山崎の実母の家系は忍であった。
山口は攘夷志士を高く評価すると共に、攘夷志士に強い憧れを抱いていた。佐幕方につく事になる山崎とは敵対関係となるが、活動時期は重ならない。
「自分の信ずる道を堂々と進み、其を守る為に命を懸けて戦う姿に尊敬します」
と、山口は頬を紅潮させて言った。奇しくも、之は山崎 烝が新選組隊士として一生を全うする動機と同じである。
同時に山口は
「こそこそするのはみっともない」
と、厳しい眼をして吐き捨てるのであった。そして
「長州藩士が身を隠す様に辺りを気にしているのが情けないと思います。肥後や水戸は堂々と活動しているのに。覚悟が足りない」
こう続けた。山口はとかく逃げ、隠れる事や欺く事を親の仇の様に嫌った。・・・実際は親の方がそういう事をしているのかも知れないが。
長州藩士がこそこそしている様に見えるのも山口自身が陰で事を為す事に対して敏感であるからかも知れない。
・・・松陰先生の事を想えばこそ、反論したい事は幾つかあったが、長州側の事情など知らないのが当然だ。久坂は黙って聞き入れる。
・・・・・・本人は厭うているが、そちらの才能は継いでいる様だし。
「・・・じゃあ、一緒に活動してみるか」
―――久坂は山口を尊攘活動に誘った。とはいえ、山口の望む“堂々と”というのは松陰先生くらいにしか出来ないし、その末路が現在の長州だ。松田は堂々としている様に見えるが彼ほど他を欺いている者は在ない。日陰者は日陰者の身を弁えていなければ、死ぬ。
「・・・・・・日の下で堂々と生きるには、先ず日向に出られる状態にしないとな」
久坂は場処を移して二軒目の甘味処の椅子から立ち上がった。山口の分の銭も置き、串に団子一つを残して呆ける山口を見下ろす。
「残念だが、近く俺は長州へ戻る。次はいつ江戸に来るか判らない。まぁそんな長州でも興味が湧いたら、向島の思誠塾に居る高杉 晋作を訪ねてみるといい。松田さんと俺が一緒に居るところを見たんなら、ソイツの貌も多分見てると思うがな。ソイツも俺と同じ長州藩士で、攘夷志士だ。―――お前が理想とする志士に若しかしたら近いかも知れん」
・・・・・・うまくいけば、仕込んで貰えるかも知れんしな。久坂はそう言い捨てて、甘味処を出ようとした。併しすぐに山口が追い駆けて来て
「待ってください」
―――袖を引き、久坂を引き止める。振り返ると、山口が意志の固い眼で此方を睨んでいる。その眼には、既に覚悟が決っていた。
「今から俺を、高杉さんの処に連れて行ってください。・・・その方が怪しまれないでしょう?」
「―――面白い」
・・・・・・久坂は思わず、にたりと不敵な笑みを浮べた。只幕吏の影に怯えるだけだった長州藩が、変る瞬間でもあった。
―――数日後、久坂は予定通り長州へ帰藩した。本作に於ける久坂と松陰の仲というのは不思議なもので、久坂と松陰が同時に現れた場面は殆ど無い。久坂が萩の地に着いた頃、松陰はまだ野山獄の方に身柄があった様だが、松陰が江戸へ檻送されるのを見送った時の情況が筆者には伝わってこない。高杉も叉然りで、松陰と之迄に過した時間を筆者に見せてはくれない。筆者は敢て、其について追及する事は止めた。
双璧がその様な御蔭で松陰の存在に最後まで現実感を得られなかったのが、筆者の吉田 松陰という男を書いた感想である。故に、松陰の処刑を描こうにも現実感がまるで無い。
吉田 松陰は安政6年10月27日(1859年11月21日)に江戸伝馬獄にて斬首されるが、桂・久坂・高杉、何れの門下生も彼の死目に立ち会う事は無かった。皆、藩命に依って自由に動く事を赦されなかったのである。
江戸にて松陰の世話をしていた高杉も、藩命を受け慌しく江戸を発ち、長州へと戻った。松陰の死の僅か10日前であった。
松陰が伝馬屋敷に移ってから高杉が江戸を発つ迄、彼等は密に手紙の遣り取りをした様だ。「男子たる者の死」を主題とした手紙で、高杉は男らしい男として如何いう時に死ぬのがいいかを問うている。その問いに対する松陰の返書には
死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず。
道尽き心安んずる、便ち是死所。
世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。
と、書かれていた。死は好むべきものでも、憎むべきものでもなく、正しく生き切れば、軈て心が安らかなる時が訪れ、其が死に時だという意味である。
世の中には、身体は生きていても心が死んで仕舞っている・・・という人が在る。逆に、身体は滅びても魂は生きているという人も在る。仮令生きていても、心が死んで仕舞っていたら何の意味も無い。併し、魂が生きていれば身体が滅びようとも残るものが在る。
死ぬ事に依って志を達成できるのであれば、いつ死んでもよい。生きている事で大業の見込みがあるのであれば、生きて成し遂げればよい。其が、松陰が死を目前にして辿り着いた答えであった。
高杉はこの返書を受け取った後、萩へ発つ直前となった手紙の末尾に
『孰れ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目に掛りましょう』
と書いて、渡した。之が其の侭、高杉と松陰の交した最後の言葉となった。そして、松陰が弟子と交した最後の言葉ともなるのであった。
―――吉田 松陰の死を見葬る長州人は、遂に在なかった。
ザッ・・・
「――――――・・・・・・」
・・・・・・松陰がアメリカ密航を画策して下田へ出発した時と同じ、彼等だけが、松陰を見葬った。
「・・・・・・・・永鳥・・・・・・・松田・・・・・・・・・」
・・・髷を結い、紋服と、仙台平の袴をつけた正装の男が力無く、ぽつり、ぽつりと呟いた。・・・涙を流している。薄墨色の着物が水分を含み、風を受けて乾く間も無く、ぽつり、ぽつりと色を濃く、暗い、闇の色としてゆく。
―――ザ
面を被った男二人が、黄昏刻の空の下、正装の男の背後に立つ。
「――――河上」
名を呼ばれ―――・・・二人の男と同じきじうまの面をつけた小柄の人物が、・・・ピタ、と彼等の数間後ろで止った。紅に紅を塗り重ねた深い血の色と臭いを纏っている。
正装の男は顔を上げた。
「――――・・・・天誅だ」
男は鬼の形相をしていた。涙が包む眼球の中の瞳には、怒りの焔が烈しく燃え上がっている。
「―――はい」
・・・翌年、幕末史に残る一つの大きな事件が起る。