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八十八. 1863年、八十八~暴れ馬(マスタング)~

彦斎の背後の扉が開かれる。


『――――っ!?』


桜田 惣四郎の動きが止る。彦斎ははっと顔を上げた。2頭の馬が藩邸内に入り、敷地の中を(ひた)走る。

人が乗っておらず依って手綱も握られておらず、野生同様の自由奔放さで鳴き、地響きを鳴らし、砂煙を上げる。

誰もこの状況を理解できない。

理性的だった者は我を忘れ、理性を失っていた者は我に返った。

馬は各々勝手な動きをしながらも藩邸の門という門を開け放ってゆく。(やが)て、



ピィィィ―――ッ!



と口笛を吹く音が聞え、馬は人質となっている彦斎の後輩達の上空を跳ねると、其を越えた一番向うの門扉を蹴破り、其処で止った。


「肥後では馬を喰うんだろ?1頭や2頭、贈答で()るよ」


前方に来た馬に呆気に取られていると、今度は背後で声が聞え、肥後人は弾かれる様に振り返る。

「まぁ―――俺の友達にだけどな」

本来は京に居る筈の無い者の登場に藩吏以上に彦斎の方が呆然とする。


『高・・・・・杉・・・・・・・・・』


「お(みゃー)でも窮地に陥る事があるんだなぁ、彦斎」

馬に乗った高杉 晋作が、藩邸の中に突っ込んで来る。


ドンッ! ドンッ!


高杉が馬を暴れさせながらピストルの引鉄を引く。わらわらと出て来た肥後藩兵の第二軍達も、突如として現れた暴れ馬のガンマンに対抗できない。

『うわっ!』

『ぐあっ!!』

高杉は馬上で弾を補充する余裕すらある。


「彦斎っ!!立て!!」


高杉が叫んだ。・・・・・・彦斎は立ち上がれずにいる。



『・・・・・・彦・・・斎・・・・・・・・・』



―――すぐ傍で倒れている永鳥が嗄れた声で呼ぶ。彦斎は涙目になった。・・・・・・泣いてはならぬ。仮面が無いから。


『行け』


『・・・・・・・・・』


『後、輩を守るのが・・・・・・先輩の務めだろ・・・・・・?』


永鳥が諭す様に言う。斯ういう時ばかり先輩ぶる。だが、永鳥がそう教える様に、・・・永鳥達が彦斎を守る様に、彦斎にも守らねばならない後輩が出来ていた。

後輩に業を背負わせてはならぬ



『―――行け、彦斎』



―――佐々が別の場処で呟く。無論、彦斎に聴こえる訳は無い。だがその声は、彦斎の脳裡(のうり)にはっきりと伝わっていた。

彦斎は佐々の兄の遺体を見つめる。


・・・・・・全く予想できなかった事ではない。斯ういう事をしていれば、いつかこんな日が来る事は解っていた筈だ。・・・佐々は俯いていた顔を上げ、安らかな表情を作ってみせた。佐々の後押しが無ければ彦斎は動けない。

“赦し”が無ければ

〈―――俺だって、天誅の現場に何度も立ち会ってきた〉

・・・佐々は瞼を閉じる。一筋だけ、涙が佐々の頬を掠って落ちた。

先輩である自分の業でもある


『行け』


永鳥と佐々が叫ぶ。彦斎がよろよろと立ち上がった。遺体から真紅を纏う剣を引き抜く。



『そしてもう―――・・・後ろを振り返るな』



彦斎が走る。目の前に居る古閑が暗器を投げた。だが、届く頃には既に彦斎の姿は無かった。

『!!』

―――空が翳った。

彦斎が古閑を飛び越えて、真直ぐ後輩達の元へ向かう。藩吏は慌てて人質を自分達の許へ引きつける。併し彦斎の勢いは止らない。


『頭を伏せろっ!!』


彦斎と山田 十郎が同時に叫ぶ。藩吏に防御の暇も与えず、彦斎は数人一気に排除した。人質が縛られた縄を切り、逃げ切るまで敵を食い止める。

『深蔵、乗れ!』

流鏑馬の経験がある松村 深蔵に馬の手綱を引かせる。深蔵は鞍に足を掛ける際、遠くに居る永鳥の方を向いた。同じ顔が全く違う表情を作っている。

『叔父さん・・・・・・!』

『――――さよなら』

・・・永鳥は最後に微笑んだ。


勤皇党の若者を乗せた馬が門を出る。もう1頭に乗せた若者も逃がした。囚われていた人質は殆どが救われた。

彦斎の周りは死体ばかり。

『・・・・・・・・・はぁっ・・・はっ・・・』

彦斎は自身の周囲に人間が残らずいなくなると、ふらつき、両手を広げて黄色い日光に身を晒した。懐まで無防備だ。

遠くにはうっすらと敵の姿がまだ見える。

殺せと彼等は言っていた。

慶順(よしゆき)さまはああ言われたが、我々の手にはもう負えない・・・・・・!』

『―――構えっ!』

もう戦う気は無い。

ドンッ!

銃声がし、藩兵が倒れる。暴れ馬だ。暴れ馬が兵達を蹴散し、彼等を更に混乱させる。

藩邸の門も開きっ放しなので、兵も馬に集中できない。

馬が上空の視界に映る。



「彦斎っ!!」



―――ぐらりと傾いた彦斎の身体を、伸びてきた腕が受け止めた。

彦斎は我に返る。


「乗れ!!」


高杉が其の侭彦斎の身体を掬い、門の外に馬を走らせた。藩邸の門を出る。

・・・・・・彦斎は馬の鞍を掴みながら、遠くなってゆく藩邸の門を見つめた。



――――さよなら・・・



・・・・・・彦斎は自分の故郷(くに)の藩邸に背を向け、高杉の後ろに乗る。

『・・・・・何故・・・・(ここ)に・・・・・・』

指先から止め処無く血が零れる。雨粒の如く点々と地面に散っていった。その事に気づいた高杉が彦斎の腕を自分の肩に掛け、身体を支えつつ傷口を布で巻く。

「脱藩して来た」

高杉は事も無げに答えた。彦斎は悲しみも忘れて驚く。自身がたった今通り過ぎた苦渋の選択(わかれ)、之ぞ脱藩を意味しているではないか。

『な・・・・・・』

言葉を詰らせる彦斎の気も知らず、高杉は気の抜けた声で言った。

「来島のじいさんに、お(みゃー)(くに)嬰児籠(ゆりかご)に甘えて外では何も出来ねえのかと言われてむっかついてな。なら出てやるよ、って啖呵切って出て来た。肥後人(おみゃーら)とこれであいこだろ」

彦斎は唖然とした。この男は・・・否、長州藩がか―――・・・自分達が血で汚し、血涙を流し、不如帰(ほととぎす)の如き声を上げて泣く様な事でも、いとも簡単に成し遂げて仕舞う。高杉個人に至っては更に、突飛すぎるせいでこちらが落ち込む時間さえ与えられない。

・・・・・・気持ちに浸るのが馬鹿らしくなってくる。

『・・・・・・馬鹿め・・・・・・』

彦斎は力無く笑った。・・・・・・そうだ、振り返っている暇など無い。振り返ってももう救えない。

「・・・あんだって?標準語で言えよ。訛ってて何言ってんのか聴き取れねえ」

『・・・うるさい。・・・・・・標準語でなど決して言って遣るものか』

振り返る余裕があるなら・・・―――今あるより多くのものを守らなければ。

『―――貴様は馬鹿だ・・・・・・』

・・・彦斎は顔を伏せる。脱力感が凄まじい。此の侭眠り、目覚めなくても、朽ちるのが自分だけならもう別によい。




鷹司(たかつかさ)邸に肥後藩邸より逃げて来た者達が到着する。鷹司邸では久坂と桂が睨み合っていた。いつぞやとは立場が逆で、桂が会津・薩摩勢と戦う事を主張し、久坂が其を止めているところである。

(かえ)って来た・・・・・・」

二人は肥後人同士の再会を見届け、取り敢えずは一息を吐いた。

だが、まだ問題が解決した訳ではない。

「・・・肥後は恐らく兵を出せない。肥後が動かなければ、少なくとも外様の西国諸藩は其に引き摺られて戦力にならない。薩会程度の兵数なら、今居る尊攘派(われわれ)の人数で払える。孝明帝が御所に居られぬ間に、事を収束させる」

桂としては、孝明天皇が攘夷親征(大和行幸)から戻って来られる前に薩会との戦いを終らせ、長州を正当化したい。無論、桂なりの理由があり、今ならば其が出来るという事と、今この機を逃せば長州藩はひどい場合全国に居場処が無くなる可能性を危惧したからだ。孝明天皇がこの場に立ち会われれば、気紛れで白黒が決められて仕舞う。更に、孝明天皇に随行した藩主も戻って来る事から、各藩の命令系統に太い線が通る。薩会と対峙する場である外構九門は、肥後が最も藩兵の数が多い為に他藩も肥後の動きに引き摺られているが、藩主が帰って来れば各藩に意思が生れる。薩会は其を計算し、朝幕諸藩が長州を見放すのを手薬煉(てぐすね)引いて()っているのだ。


「!」


久坂は何事かに気づく。

「桂さん・・・あんた、若しかして―――・・・」

―――薩会に同調されては困る。

「その為に彦斎を――――?」

―――沈黙が流れた。宮部が遠くで身を翻すのが視界の端に映る。横顔のあの瞳は、透明に、此方を見透かしていたりするのだろうか。


「・・・・・・長州藩が生き残る為なら何でもするな、あんた」

「――――」

・・・桂は弁明しなかった。


「・・・河上さんと高杉が後は戻れば百人力だ」

桂が淡々と言う。確かに彼等は個人戦で負けた事は無い。その点では心配要らないかも知れない。が―――



ヒヒィン !



馬が鷹司邸の敷地に駆け込んで来る。馬に乗って入って来たのは、桂がたった今名を口にした二人であった。

「高杉!」

久坂が駆けつける。高杉が手綱を引いて馬を止める。彦斎が高杉に負われてぐったりしていた。その消耗具合に久坂と桂は愕いた。

「彦斎・・・!?」

久坂が急いた声を上げると、彦斎がひょっこりと顔を上げた。

「生きとう・・・・・・」

併し、流石に顔に疲れを隠し切れない。

「宮部先生は・・・」

「彦斎!」

宮部が迎えに来た。轟も外に出て来て、弟子の様子を見る。高杉に手を添えられて馬を降り、宮部に引き取られて歩く。

(かたじけな)いな、高杉君」

宮部は頭上からフワリと彦斎に羽織を掛けつつ、横顔で言った。彦斎は背中を向けた侭手を振って去って往った。

・・・・・・肥後人は、矢張り他藩人に内情を触れさせたがらない。


「―――佐々は救出できなかった様だな」

轟は剣呑さを抑えた声で言うと、長州人に背を向け、宮部等と同じ様に室内へと入って往った。


・・・・・・取り残された長州人。


「―――永鳥さんもだぜ」

・・・・・・この場に居るのが完全に長州人だけになってから、高杉は口を開いた。



「・・・藩兵も物凄い数死んでたけどな」




―――彦斎が同郷の同志の手当てを受けながら、漸く一息を吐いた。外の喧噪を他所に、本の少しだけ横になる。




「薩会と戦うのは無理だ」

久坂は桂に言った。桂は凍りついている。精確には久坂もだ。彦斎の取り澄ました背中が頭から離れない。


「佐々君の兄を誤って斬り殺したそうだ」

肥後人(うちわ)の話を終えて、宮部が長州人に報告する。久坂等は更なる衝撃を受けると同時に、彦斎のあの背中の理由がわかった気がした。

「永鳥君をだしに使われた様だな。佐々君だけ別の何処かに引き離されていたそうだ。如何も先刻の“古閑”という者が、彦斎に強い怨みをもつらしい。更に、(かつ)ての同志が佐幕に寝返り・・・もう何が何だか・・・」

宮部自身が困惑の色を浮べる。聴いているだけで(おぞ)ましい話だ。如何やら古閑という男には肥後人らしからぬ背徳さがある様だ。

「・・・・・・完全に勤皇党(こちら)の作戦負けだな」

宮部は床を見つめて言った。母藩と最悪な決別の仕方をした。誰の所為でもない。因果応報というものだ。

「只、藩兵は完膚無き迄に叩いたが―――」

・・・・・・之から如何するか、という話である。


「轟さんや彦斎に余力は有る。

―――だが、彼等を此処で之以上戦わせる気は無い」


と、宮部はきっぱり言った。誰が聴いても説得力のある言葉だった。

「・・・イモとサクラはこんなんで済むかえ」

高杉が口を開く。イモは薩摩だが、サクラは桜肉(馬肉)文化のある会津を指している様だ。他藩嫌いの高杉は、直感的に、薩会を悪意の眼で視ている。

「・・・一理ある」

久坂は高杉の声を冷静に受け止めた。久坂が薩摩志士と交流していた頃、彼等に抱いた印象は「重要な事ほど語らない」であった。語彙が全体的に少ないのかも知れなかったが、どっしり構えて穏やかに振舞いつつも動きは鮮やかで、酒と同じで飲んでも飲まれない野太さがあった。

「不言実行で情に流されず・・・・・・博打に出る時は大抵隠し球を持っている」

朝廷工作をしていた久坂は想像が出来る。薩会が如何遣って天皇を(なび)かせたか。

そう、この衝突に勝利しても、別の処で勝敗が決るよう薩摩は恐らく手を打っているのだ。そこが桂の立場や人脈からでは視え難い。


「孝明帝は完全に薩会寄りだと俺は見る。・・・もう赦しを乞うしか俺達には無いんじゃないか。

之以上・・・何も失う訳にはいかねえだろ」


宮部が腕を組んで一つ息を吐いた。・・・桂は陣笠の縁を下げる。顔色は見えないが、首筋が白かった。

恐ろしい存在がいる。


―――来島 又兵衛や真木和泉等、所謂“御癸丑(ごきちゅう)以来”である。


「来島のじいさん来てんのか!?」

久坂が素っ頓狂な声を上げる。高杉はこの期に及んでも対岸の火事を見る様で、んあぁ。と気の抜けた声で肯くと

「俺を追いかけて来たみたいだな。脱藩の弁護が必要やろうって」

と、答えた。久坂は思わず悪態をつく。

「・・・あのじじい、単に自分が京に来たかっただけじゃねぇのか・・・・・・!?」

「あぁな」

「ああなじゃねえよ!!」

久坂が高杉に食って掛る。何故来島 又兵衛の出陣を止めなかったのかと小一時間問い詰めたいところだったが、高杉が来なければ彦斎等は助からなかったかも知れないと想うと責められない。何よりそんな時間は無い。

「そういやじいさん御門に居たぜ」

「は!?」

「大砲も引き出しちょったな」


「何だと!?」


桂が人が変った様に烈しい声を発した。隣に居た宮部がびくりと肩を跳ね上げる。



「あの数の薩会の兵を追い払うのに大砲などは要らない。今鷹司邸(ここ)に居る尊攘派で十分に倒せる。来島翁の狙いは、御門を開かせ、御所を占拠する事か!?」



或いは、力で天皇を手に入れる為か。孝明天皇は居られないにしても、天皇の家族が居ると思われる。

―――久坂と宮部、桂は顔を蒼くした。“御癸丑以来は止められない”という刷り込みにも近い畏怖が合言葉の如く三人の頭に(よぎ)る。

「・・・・・・真木さんは鷹司邸(ここ)にちゃんと居られるのだろうか」

宮部が殆ど独り言ちた。・・・真木? 高杉は御門を確認はしたが例の如く真木を知らない。

「・・・心配だ。見てくる」

宮部が立ち上がる。久坂と桂も動き出した。どんな事情があろうとも、天皇に手を出せば朝敵である。之だけは、この国の真理だ。

「俺が来島さんを止めに行く。高杉、お前はこっちにつけ」

了解(わか)った。宮部さん、あなたの身も危険だ。鷹司邸から外には出ないでください。真木さんは長州藩兵(われわれ)が止めます」

(はや)る宮部の足を追いかけようとした時、長州藩家老の益田 右衛門介が来た。狼狽(うろた)え、荒ぶる益田の手に4人は部屋へと押し戻される。


震える声で、益田は叫んだ。



「朝廷からの沙汰が、下りた!!」

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