八十七. 1863年、八十八~如何にして長州と肥後は敵対したか~
ガラガラガラガラ・・・
「・・・・・・・・・・・・」
崖が崩れ、松田が今迄居た処が抉れて地面が無くなっていた。松田の縄尻を持っていた藩吏は影も形も視えない。
松田も身体を投げ出された。縛めていた縄を何とか抜けるも、捕まる所が無い。真っ逆さまに落ちる。
―――其を崖の上から稔麿が引き止めた。
「稔・・・麿・・・・・・」
稔麿の被っていた烏帽子が落下し、底の深さを教える。稔麿が松田の腕を掴んでいるが、咄嗟に撃たれた側の腕を掴むしか無かった。痛みが松田の身体を刺し貫いて如何にもならない。砕かれた骨の一つ一つの破片が凶器となって傷を割り開く様な、そんな拷問を受けている気分であった。
「松田さん、そちらの手を―――!」
稔麿がもう一方の手を差し出し、両手でしがみつくよう催促する。松田は悲鳴を口の端より漏らしながら
「離せ・・・・・・」
と、言った。
(・・・・・・もっと鍛われないけんかったか・・・)
と、自嘲する位、痛みに対して弱い。受けた傷以上に痛みを感じ易い部位である。
・・・・・・引き上げられたところで、縄につかねばならない現実は変らない。こんな処で―――捕まる訳にはいかない。
「・・・・・・俺は崖下からとんずらさせて貰う」
肉を千切られていく様な重さを纏って血が下に落ち、その度に体重が軽くなってゆく様に二人とも感じる。実際そうかも知れなかった。
「だから・・・・・・」
――――・・・ 松田が何事かを言うと、稔麿は松田の腕を離した。
痛みから解放された松田は其の侭気を失って仕舞う。松田が落ちてゆくのを観察する様な眼で眺めていた。
「松田 重助が転落した模様!」
肥後藩兵が空を掴む稔麿の姿を確認して言う。肥後藩が早くも動き始める。
「稔麿!」
定広公が叫んだ。
「崖下に行って松田さんを捜せ!」
――――・・・ 会話を聞いていたが如くの指示に、稔麿は眼を大きく開いて振り返る。定広も判断が迅速だった。
・・・コクン、と定広は肯く。
「兵をお前に預ける。松田さんは絶対に助けなければならない。・・・吉村さんの死を無駄にしない為にも」
稔麿は吉村の遺体を見る。
・・・・・・何の為に吉村は自分を庇ったのか。
稔麿は密かに拳を握りしめた。
「稔麿に続いて崖下に向かえ!肥後藩より早く松田さんを保護するんだ!」
「一刻も早く重助を捜し出し、生け捕りにせよ!殺してはならぬ」
各藩の長が命令を出す。どちらの藩が早く松田を見つけ出すかの競争となった。
護衛程度の数だけ残して兵が去り、更に肥後藩探索方が連れて来た津藩藩主・藤堂 高猷一行も交え、其を一つの兵とする。藤堂 高猷は新選組(壬生浪士組)隊士・藤堂 平助の父と云われる男である。
韶邦は稔麿とのいざこざを伏せ、吉村を撃った津藩兵にしても「罪人を撃ったのだから手柄である」と事情を知らぬ津藩藩主に言い含めた。津藩兵にとっても其は在り難い。
その前に行なった兵の事情聴取では矢張り狙いは稔麿であったとの事だった。併し、韶邦は飽く迄長州藩との対立は無かった事にし、兵の認識は勘違いだと言っておいた。詰り、誤射という事になって仕舞う。
尤も、稔麿に命中していたら命中していたで有りの侭を話し、津藩も組み込んだ長州征伐に発展していただろう。
吉村が身を挺した事で、長州藩は生き残った。
大事にならずに済んだ。
何れも、大事にしようと思えば出来たものでもある。殊に長州藩に関しては、藩士が他所の藩主に刀を向ける暴挙に出たのだから一方的に潰されてもおかしくない。が、侮辱を受けた側である藩主は吉村の遺体の方が大事そうなそぶりを見せ始めている。
「・・・・・・客人を死なせて仕舞った」
韶邦の興はそこで削がれている。この男は斯ういう男であり、義に反する事があると急激にやる気が冷める傾向にある。
大義を最重視するところは流石肥後藩士の親玉であるが、敵味方で分けないところは肥後人達とは似ていない。
「・・・韶邦さん」
定広が吉村を見下ろす韶邦の許へ行く。長州藩兵は警戒する。長州にせよ肥後にせよ、藩主より兵の方が真面な感覚をしている。
・・・・・・吉村の遺体に手を合わせる。
「・・・あの、吉村さんの御遺体は之よりどの様に?」
「引き渡す他に無いと思われまするな。生きておれば身柄を預る事も出来ますが、墓を用意する事は流石に出来ぬ」
韶邦は先程の対立の蟠りなど一切感じさせぬ声で答えた。この藩主の本心が一体何処に在るのかが判らない。普通に叉仲良くしてくれそうにも見える。
「此度の大和行幸は、尊皇攘夷派を嵌める為の罠、だったのですね」
定広は悲しそうな顔で言った。韶邦は端整な顔を全く崩さず、黙っている。京では長州藩自身が陥れられている事をこの男は当然知っていよう。が、其を定広に教えて遣りはしなかった。
「・・・私はあなたと、友達になれると思っていたのですが」
「“友”?」
韶邦は眼を眇めて定広を見る。心底理解できない様であった。予期せぬ韶邦の反応に、定広はたじろいだ。
「其は無理というものであろう。私はそなたを友と想った事は無い」
―――矢張り藩主と藩士は違う。
「其は・・・関ヶ原の事があってですか」
細川も前肥後領主である加藤 清正同様に関ヶ原の戦いで東軍方だった。徳川に対する感情は西軍方だった毛利とは違う。
「徳川は我が盟友也」
と、韶邦は言った。
「とは謂えど、長州藩と徳川の仲の良し悪しは肥後には関係無し。肥後は肥後の遣り方で長州に接する。さればとて、我が盟友に危害を加えるなれば当然態度も変って参りましょう」
「そんな事は・・・」
無いとは言えない。藩主親子は主導していないのだが、藩士の言動の責任を負うのが藩主の藩主たる意義である。父の敬親はその覚悟をして、藩士に活動を一任している。一任した結果が攘夷のみならず幕府要人殺害で、其を黙認しているとなると毛利が徳川に危害を加えていると取ってもおかしくはない訳だ。
「―――そして、我が子をその手先としておるときた」
「し、併し!」
定広は焦る声で返した。御家事情を言われても困る。土佐山内家と違って細川家とは血縁的な関りが無いのだ。御家事情は知らぬが、韶邦という人物が領民を溺愛する傾向にあり、そこが引き倒しの性格である肥後国人とは異質である事は何と無く判った。
過保護であるとは聞いた事があるがこの事か。忠興以来の、というのはこの事も含めて云うのかも知れない。
「我々とて孝明帝の勅詔を忠実に実行した迄の事です!徳川は確かに800万石の大大名ではありますが、天皇の家来である事には変りが無い筈でしょう。天皇の命令を無視したのは幕府の方です。其なのに何故我々が咎を受けねばならぬのですか・・・!?」
「“天皇の命令”で御座いまするか・・・」
韶邦は言葉尻を捉えると、くすくすと哂う。其がやけに妖しかった。
「真に其は天皇の命令で御座りましょうか」
「え―――?」
・・・この男は、長州が欲して已まないものを兼ね備えている。否、長州ほど多方面に嫌われている藩の方が珍しいのだが―――
朝廷の信頼、外様にして徳川幕府の厚遇、そして―――・・・
「肥後細川の情報網を侮るでないぞ」
情報。特に、最も欲する薩摩藩の情報をこの藩は多く握っている。
薩摩藩は昨年の寺田屋事件以降、明らかに長州藩を意識した対抗策をがんがん講じる様になってきている。島津自らが弱めて仕舞った薩摩隼人の勢いを取り返すが如く、台頭している長州藩を陥れるべく表に裏に罠を張っているのだ。
目的の為なら手段を択ばない。之まで仮想敵同士として緊張感のある関係を築いてきた細川さえも島津は抱き込もうとしており、この時点で参預会議への参加を提案されていた。福岡藩ほどではないにしろ、薩摩の情報の宝庫である。
「・・・くだらぬ権力争いよ。島津にせよ毛利にせよ、どこまで天皇を貶めれば気が済む」
韶邦の声はみるみる怒気を孕んだ。定広は吃驚して口を噤む。なるほど、細川は毛利の欲する以上の情報を有していた。
「天皇の命令?茶番も大概にせよ。天皇の印のみ賜って内容は後におぬしらが作り替えたものであろうが。公卿もつくづく人間であらるるな。一つの勅語から、全く意味の違う複数の詔書が生れよるわ」
定広はぎくりとした。中にはそういった長州贔屓の公卿もいたかも知れない。其どころか、長州藩士が詔書の書き替えに立ち会い、政事工作をした、というのは粗事実である。
―――その最たる例こそが、久坂 玄瑞である。
更に、1月の翠紅館以降に久坂が行なった政事工作の殆どには轟 武兵衛が関係している。
この長州派志士の手を薩摩贔屓の公卿が使い出した事が恐ろしい。手の内を読まれている様だ。
「詔書など最早当てにならぬ。此度の大和行幸の面子は、孝明帝の本心を直接その御口から賜り、追討の勅命を受けた家よ。天皇が長州派の追放を命じられたのだ。之でも猶、勤皇先唱の藩と謳うか!」
「―――っ!!」
定広は絶句する。攘夷実行した細川や鳥取藩池田家まで協力しているのは、そういう事なのか。
―――尊皇攘夷派はいつの間にか、尊皇でありながら朝敵扱いにされている。
「・・・毛利よ。そなたは我が盟友・徳川の邪魔をし、我等が主君であられる孝明帝に叛き、更には純粋に尊皇であった我が子を権力争いの道具として利用しておる。その家と友好など、笑わせるでないわ」
・・・定広は言い返せなかった。時代の変化の哀しさをひしひしと感じる。肥後藩士宮部と長州藩士松陰が会津藩校に行ったと聞いた話が嘘の様だ。
もう、あの様に交流できる日は来ない。
「―――預けた我が子は必ず返して貰う」
韶邦は定広に背を向けて言った。
長州の欲するもののすべてを兼ね備えているこの男だが、あるものだけ、毛利が持ちこの男が欲しくて已まない。
「吉田 寅次郎・・・はもう去なれたか。重助を妙な道に誘った桂 小五郎を我は許さぬ。・・・背後に気をつけよと、忠告為されるがよい」
―――定広は唾を呑む。韶邦の怒りは自藩士と接した長州人個人にまで及んでいる。細川の記憶力と情報収集力に、定広は戦慄した。
以後、長州藩と肥後藩は大政奉還まで相容れない。結局、第二次長州征討で実際に戦火を交える事に依り、その敵対は決定的なものにまでなるのであった。




