八十一. 1863年、八十八~同胞狩り~
『・・・おかえり、淳二―――・・・』
―――藩邸に入って仕舞ったか、と佐々は目覚めたばかりの頭脳で悟った。この男の脳みそは寝起きでもすぐ立ち働くところに特徴がある。久坂の様な無理を基本的にしないからであるが。
―――藩邸に入って仕舞ったとなると、外に出る事は非常に難しくなる。其はそうと、他の皆は何処に連れて行かれたか。
―――否。
―――あれは松田の弟の山田 十郎か。永鳥の甥の松村 深蔵も居る様だ。眼鏡を外されている為くっきりとは視え難いが、連行された他の皆は藩邸の敷地に入っただけでまだ外に身柄を置かれている。
〈―――・・・おかしいな〉
佐々は自身の状況をそっちのけで思考していた。・・・若しかすると、自分の推理も強ち外れてはいなかったのかも知れない。
矢張りこの計画に“人質”は外せないのだ、と佐々は想った。そうでなければ彼等を門の前などにいつまでも置いておかずにさっさと牢に容れるだろう。
―――俟っているのだ、あいつが来るのを。
佐々が此処に独り隔離されているのは、外にいる彼等とは同じ様でいて別だからである。・・・否、途中から違えたと謂うべきか。
―――駕籠の中を見た刻から。
長州藩邸までわざわざ運ばれ、併し誰も乗せる事の無かった駕籠―――・・・其こそあの中に“人質”が容れられていると佐々は推測したのだが、そちらは外れた。
外れただけで外れた事を知らなければ其で済んだのだ。そうであれば自身も今頃外にいたかも知れない。まぁ、だが只其だけの話だ。
―――あの駕籠の中には同じ佐々一族の桜田 惣四郎が居た。
佐々自身は駕籠の中を見る気も駕籠の中に入る気も無かったが、そういったところで余り運の無い男である。
〈俺はもうダメだな・・・・・・〉
佐々は飽く迄冷静にそう想う。自身の居る場処を知る同志もいないだろうし、此処に来る暇など誰にも無い。其に、佐々一族が関っているとなると、彼等はともかく自身の逃走は決して許さないだろう。
『・・・・・・』
・・・佐々は僅かに自身の手に力を加えた。窓から一部だけ視える空が緋く染まっている。陽が昇ってきた様だ。どんな日でも必ず陽は昇る。
―――ところが、八月十八日のこの日の朝空は、異様な程に茜かった。一日の始りの空なのに、終りを迎えている様な、流れた後の血の色の様に、或いはすべてを燃やし尽した炎の色の様に暗い紅が一帯に広がっている。
・・・・・・空が怒っている。まさにその表現が相応しかった。
『フフーン?―――・・・遂に、来ましたね』
・・・古閑 富次が外に置かれた駕籠に手を添えつつ、反対側の門を望んだ。
黒い影が門の上に在った。鮮血の色の様に紅く、破裂しそうな程に丸く膨らんだ朝陽を背にして。
周囲に炎の色に光る尾状の雲を複数引き連れ、まるで狐火の様だった。
『黒稲荷』
『――――・・・』
―――かっ、と獣の色を帯びた眼が見開かれる。命を狩ると決めた死神の刃がスラリと鞘より滑り出た。
赤黒い影が跳躍する。藩邸の樹や石畳が一瞬にして空と同じ色に染め変った。緋色の足袋が宙を駆け、血に錆びた刀が振り下ろされる。
ドッ!!
長梢子棍の回転棒が相手の脳天に叩きつけられる。柄の下部で背後の敵を突き、跳ね上がる回転棒で正面に居る別の敵の顔を叩いた。其の侭柄を振り回し、幕府軍の斥候を蹴散す。
「―――こっちだ!」
松田が中津等を手招き先に進む。取り敢えず峠を越え、十津川の方面へ下る事にした。十津川郷士とは話がついている。十津川まで行って仕舞えば彼等に匿って貰えるし、十津川に近づくにつれ包囲も解けてくるだろう。
「十津川のヤツらがいい時宜で降伏してくれた。幕兵はそっちに気を取られている。御蔭で可也逃げ易くなった。後は―――・・・如何に韶邦を利用しつつ他国の網を避けるかだな」
細川 韶邦はあの性格上、他者に危害を加える事は極力避ける。保護を是とする者だから細川の影響が及ぶ安全圏内を動きつつ十津川への最短経路を探るが賢明か。
・・・そう言う割に、松田の額には絶えず脂汗が滲んでは流れていた。
「気分の方は如何だ?吉村」
松田が中津に負われる吉村に声を掛ける。併し、吉村の反応は薄かった。中津が背を揺すったり、肩からだらんと落ちた侭の腕を握ったりしていたが、其でも吉村は動かない。
「松田さん」
中津の焦る声に松田が引き返す。おい。松田が慌てて吉村の顔を見る。顔を動かされた吉村は努めて健気な表情をつくり
「だ・・・・大丈夫だ・・・・・・」
と、弱々しい声で言った。嘘を言う吉村に松田は怒る。
「どこが大丈夫だ!・・・少し休憩しよう。弥三郎、吉村を看てくれ」
「了解ったっす」
内田は医師の子だ。適当な家に侵入し、吉村を下ろして畳の上に寝かせる。天誅組追討令で集落の人間は皆避難している為、人々と出会す事は無かった。
松田が家の中の物を漁る。短時間で晒等の包帯類、焼酎等の消毒液、漢方等薬品の類を一通り探し当てた。余りの手際の良さに内田と竹志田の若僧達はぽかんとして見る。
内田が固定用の木が必要と言えば、斧が木を割る音がする。中津も負けずに何処からか木材と鑢を持って来て即席で作った。
彼等は非常に手馴れている。住人が居れば脅して強盗する事も厭わなかったろう。現に松田は過去、船頭に短刀を突きつけて脅した前科がある。不逞浪士が可也板に付いている。
―――中津が外に出て、周囲の警戒に当る。
「・・・確りしろ、吉村」
内田が手拭を冷す隣で声を掛ける。八月十八日は朝から燃える様に暑かった。手拭を冷しても絞るとすぐ熱を帯びて仕舞う。
竹志田も顔色が余り良くなかった。
「・・・飲めよ、ほら」
内田が竹志田に水を勧める。
「・・・・・・すいません」
竹志田が松田を気にして態とぶっきらぼうに礼を言う。やれやれ、と、松田は見て見ぬ振りをするも内心は微笑ましく思っている。
つい、竹志田達の肩肘張ったところを脱藩したての頃の自分と重ねて仕舞う。
「・・・・・・お、お前は・・・」
ん? 吉村に話し掛けられて、松田は視線を戻す。ずっと彼を敵視していた自分と竹志田達後輩を見る眼が同じだ。その事を吉村は不思議に感じていた。
「何故、俺を助ける・・・・・お前の目的は果せた筈だ・・・・・・お前達肥後人だけなら何とかなるかも知れないのに・・・・・・」
「何を言っているんだ。・・・扨てはお前、まだ俺を疑っているな?」
松田は苦笑してみせる。いや、そういう意味ではない。吉村が慌てて弁解しようとし、身体を起す。
「解っている。だから寝ていろ。創が開くぞ」
後輩を超えて弟にするかの様に吉村の額をこづき、再び寝かせた。吉村は何だか気恥かしくなる。
「・・・うちの藩主の仕業とも限らんからな。若しそうならばあの男を藩主にもった俺にも責がある」
・・・・・・。吉村は顎を上げて松田を見る。松田に掛れば大抵の人間は後輩や弟扱いされるのではないかという程、誰に対しても身近な物言いをする。
「・・・・・・藩主は藩主、お前はお前だ・・・・・・。・・・先刻は、悪かった」
先刻なのか昨日なのか。夜通し移動している彼等にはその辺の感覚が曖昧である。夜明けの月は不気味な程に赤銅色がかっていた。
「お前も手当てをしろ・・・・・・俺は・・・如何も、すぐにカッとなって手を出す癖がある様だ・・・・・・」
・・・ほい。内田がぎこちない手つきで絞った手拭を松田に渡す。・・・全く、此処に居る奴は揃いも揃って素直じゃない。
「ん」
と、受け取った。変に礼を言うとこの類の人間は固まって仕舞う事を知っている。
「気にするな。お前のなんてまだかわいいものだ。裏切られたと思えば腹も立つだろう」
松田が手拭で顔を拭く。・・・ふぅ、と湯上がりの時の様な或いはオッサンがおしぼりで顔を拭いた時に吐く様な溜息を吐いた。
不逞浪士具合だけでなく老成具合も進んでいる様だ。ちょいワルオヤジへの進化が期待できる。
「・・・そういえば・・・土佐に居た頃も、武市先生や龍馬さんに何度か注意された事があったな・・・・・・いごっそうだと」
「玄瑞の友人という事で知る名前だな」
松田が柔かな声で言った。妙に心が安らいでいる。・・・そして、何故だかやけに彼等は昔を想い返していた。
「感情の振れ幅が大きくなるのも、一本気で純粋であるが故だ。純度高く突き詰めれば“狂”となる―――と、言っていた奴が昔いたっけな。純粋すぎる奴は他人の目には、より狂人に映り易いのかも知れんな」
・・・そう言って、松田は水を飲み、まつげを落して顔を伏せた。まるで酒でも嗜んでいる様なしっとりとした仕種であった。
「・・・・・・」
・・・瞼を開き、顔を上げる。肥後熊本藩主・細川 韶邦は白の神官装束から例の黒づくめの具足に着替えていた。本作ではずっとゴキブリと記述してきたが、『紺赤糸威二枚胴具足』という立派な名前がきちんとある。
「重助がおるな・・・・・・」
韶邦は既に十津川郷士の裏で肥後人が動いている事を把握していた。飽く迄高取藩(奈良県高市郡高取町)の援軍として高取藩士を第一線に立たせながらも、自藩の斥候や探索方をあらゆる処に鏤めている。そして彼等の情報を元に、矛先を絞ってじわりじわりと進軍を始めていた。
藩祖の忠興譲りなのは何もその容姿や甲冑のセンスだけではない。戦のセンスも忠興以来と云われる程優れている。
―――更に、隠れた気性の烈しさも忠興以来である。
「―――他人事だと思うておったが汝が関係しておったか、重助よ。他国に迷惑を掛けるとは、相も変らず手の掛る子だ・・・・・・」
韶邦も松田を子供扱いする。
「之は如何やら我が藩の問題でもある様である。・・・決して肥後藩の包囲網から彼奴等を出すな。我が到着する迄唯の一人も自害者や怪我人を出してはならぬ」
韶邦は攘夷親征に随行する小姓と遜色無い白い衣装の探索方に命じた。叉、自身は自身と同様の真黒い越中具足に着替えた一部の兵を連れて移動する。
ヒ ヒィン
手綱を引かれて白馬が一声を上げ、崖を引き返す。事態が掴めず細川について行動していた定広公が
「俟ってください、韶邦さん!之は一体、如何いう・・・」
と、目の前を通り過ぎる韶邦に尋ねようとする。が、稔麿が其を止め
「・・・余り刺激しない方が宜しいかと存じます。他国の主君は長州藩と違い、基本的に藩士に厳しいものです。現に、細川右京太夫の目的は天誅組の討伐から自藩士の逮捕へ方向が変っている模様。・・・長州藩の動きに依っては松田さん達の命に係わります」
と、助言した。・・・追って来ない長州藩に、韶邦は一瞬だけめくばせする。
・・・稔麿は韶邦の背を睨んだ。・・・韶邦も叉、稔麿を意識する。
「・・・・・・。ここは距離を置いて右京殿の動向を窺いましょう。藩主世子がおられるとなれば肥後藩藩主といえど長州藩に手出しは出来ませんでしょうし」
「―――ふっ、藩主世子を顎で使うか・・・」
・・・韶邦が白馬を加速させながら呟く。韶邦は端から長州藩を如何斯うする気は無かった。その実、長州藩に露程の興味も無い。韶邦としては、自身が薩摩を抑えている様に長州を福岡藩47万石が抑えろよと文句を言いたい位であった。期待はしていないけど。
肥後と薩摩、肥後と福岡、長州と薩摩・・・西南諸国はとにかく仲が良くない。
さればとて。
「・・・・・・我が子を手に掛けた罪は大きい」
長州藩に対する怒りは大きい。―――吉田 松陰と桂 小五郎。この男達が誑かさなければ、肥後の内部抗争が之程迄に激化する事は無かったのに。
「煩わしい国よ。主君が藩士に振り回されよって」
主君とは民を導くもの。故に主君は総ての責を負う。併しあの藩は藩士が勝手に動いている。責任の所在をどこに向けたらよいのか判らず、韶邦は腹立たしく思った。




