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七十六. 1863年、大和~行幸準備~

「1863年、大和」



―――刻の流れは残酷なものだ。


孝明天皇発案の攘夷親征が迫っている。いや、攘夷親征自体には然程の問題も無く、寧ろ楽しみですらあった。朝廷と幕府の立場が逆転するのだから。

・・・懼れるべきは、同一日を狙って同じく神武天皇陵を目指す天誅組の動き。




「・・・・・・」

黒簪を結い上げた髪に差し、後れ毛を纏め上げる。黒簪は現代で謂うヘアピンの様な物である。うなじは意外に細く、白い。


ドンドン


「吉田先生ー・・・」

障子が前後に(しな)り、続いてすっと横に開いた。吉田 稔麿が振り返る。・・・・・・この、返事を俟たずして行動するくせはいつ何処から湧いたのか。

「・・・・・・・・・」

着替え中なのだが。

「・・・・・・・・・!」

・・・・・・佐倉は仄かに頬を紅くして、稔麿の姿を凝視した。いや彼女がやらしいとかそういう事ではなく。

「おろ」

部屋に居たのは稔麿だけではなかった。佐倉のよく知らない人達だが、佐々 淳二郎と兄によく似た松田の弟山田 十郎である。

稔麿は烏帽子と直垂の所謂(いわゆる)神官装束姿であった。

山田が白粉と刷毛(はけ)を持っている。・・・薄化粧をして、かなり本格的な衣裳替えをしていた。


「・・・・・・」


「・・・・・・何だ」


稔麿が居た堪れなくなって訊く。稔麿とて好き好んでこの格好をしている訳ではない。肥後人じゃないんだから。


「お前な・・・ 人の着替え中に戸を開け放して」

「久坂先生!」

佐倉が愕いて上を見る。久坂が佐倉の後ろから首を突き出して部屋の内部を(のぞ)いていた。久坂は何だか佐倉について“見ない方がいい部分”への遭遇率が高い気がする。

「うっわ、すっげぇ似合うな、吉田。赤間さんの稚児が其の侭大きくなったみてえだ」

「・・・・・・言うな・・・」

稔“麿”だけに。

稔麿が烏帽子直垂の神官装束を身に着けるのは実は人生で二度目らしい。一度目は赤間神宮先帝祭での稚児として。育て親が青山宮司ならまぁ在り得るか。

「ありがとうございます、佐々さん、山田さん。着物を借りるだけでなく着付も化粧も全部教えて貰って」

「うんにゃ、よかよか」

佐々が肥後語を直す気も無く言う。之が坂本 龍馬であれば「ほにほに」である。彼は果して今後本作に出てくるのだろうか。

「その衣装(ふく)を高杉じゃなく吉田が着る事になるとはな」

久坂が笑いながら言う。が、佐倉の距離から見ると若干痩せた様に見える。

「あの・・・一体何が?」

佐倉が恐る恐る尋ねる。其にしても微妙な位置だ。見上げれば久坂の首筋がある。

「・・・ん?ああ、今度長州藩(うち)藩主(との)さまが行幸に随行されるんでな。吉田は藩主(との)さまの小姓として付いて行くんだが、随行者は皆烏帽子直垂姿じゃなきゃいけないんだとよ。長州(うちの)藩はその実祭祀に予算を割いてないからな。肥後さんのを借りる事が出来て助かった」

「お前、其を肥後の方の前で言うか・・・」

稔麿が呆れて言う。稔麿自身は実は割と信心深いタイプである。だが、佐々と山田は。


「え?」   「ん?」

「・・・・・・」


形骸化している様で全く興味無さげだった。之が彦斎や永鳥等だと叉違うのだが。

詰り凡そ200年振りとなるこの行幸には、例外無く全員が烏帽子直垂の姿となる。無論、藩主もだ。

稔麿はこの度、足軽より士籍に取り立てられ、名実共に武士となった。久坂も事情はよくは知らないが、若しかしたらこの行幸が関係しているのかも知れない。

()くいう久坂も少し前、医者から士分に取り立てられた。下関戦争の前だったか。之には桂 小五郎の推挙がある。稔麿も恐らくそうだろう。

長州藩は士分を濫発(らんぱつ)している。羽振りがよい。長州藩だけは好景気・・・という訳ではなく、藩としてはどの(くに)よりも危機的状況だった。



―――下関戦争の敗北。


―――高杉 晋作の処分。



嫌な報せが次々と、玄瑞の元に舞い込んでくる。併し其等を一つも解決する力を持てない侭、久坂 玄瑞は絶望の中で生涯を閉じる事となる。


「久坂先生」


稔麿への用を終えたのだろう佐倉が、久坂の後を追って来た。久坂が部屋の前に来て立ち止る。ぱたぱたと走って来る佐倉を待って

「・・・何だ、俺にも用が有ったのか」

「そういう訳でもないんですけど・・・―――お茶菓子でもお持ちしましょうか?」

「は?」

・・・・・・。久坂はこの男のくせで色々考える。そして何だかむっとして、佐倉にデコピンを喰らわせた。痛い!佐倉はフシュウゥゥ・・・と湯気の出る額を押える。


「おう、持って来い」


久坂は何だか偉そうに言った。


「だが妙な気は遣うな。いつも通りでいろ」


は・・・?佐倉がくらくらしながら海藻の如く久坂の視界に浮上してくる。ふっ・・・と微かに頬が弛んで、部屋に入って戸を閉めた。



「――――せめて、お前達は・・・・・・・」



・・・・・・玄瑞は、堪え切れずに吐き出した。その呟きが、佐倉の耳に届いたか如何かは判らない。だが其とは関係無く、その小さな願いと希望さえ、天は非情にも叶えてくれない。




―――まるで“天誅”の言葉を乱用してきた己に、天が罰を下しているかの様に。




文久3(1863)年8月16日。孝明天皇を始めとした攘夷祈願の一行が京都御所を出発する。

運命の日だ。公家を挙げてはきりが無い為割愛するが、藩を挙げると先陣より、


備前岡山藩・池田 茂政(24歳、1863年より藩主/31万5000石/外様)

対馬藩(対馬および鳥栖・唐津)・宗 義達(よしあきら)(16歳、1863年より藩主/10万石/外様)

津和野藩(島根県)・亀井 茲監(これみ)(38歳、1839年より藩主/4万3000石/外様)

久保田秋田藩・佐竹 義堯(よしたか)(38歳、1857年より藩主/20万5000石/外様)

肥後熊本藩・細川 韶邦(よしくに)(28歳、1860年より藩主/54万石/外様)、英国船に発砲す

米沢藩(山形県)・上杉 斉憲(43歳、1839年より藩主/18万石/外様)

因幡鳥取藩・池田 慶徳(26歳、1850年より藩主/32万石/外様)、英国船に発砲す

仙台藩(岩手県南部および宮城県)・伊達 慶邦(38歳、1843年より藩主/62万石/外様)

阿波徳島藩・蜂須賀 斉裕(42歳、1843年より藩主/25万7000石/外様)

前宇和島藩主・伊達 宗城(四賢侯の一人)

長州藩主世子・毛利 定広。

後陣に水戸藩主・徳川 慶篤(31歳、1844年より藩主/35万石/親藩)。


他に特記すべきは、徳川第14代将軍家茂と15代将軍慶喜か。


数万人規模の随行だったと云う。

藩の共通点と謂えば、殆どが外様である他には特に見受けられない。この中には強硬な佐幕派や将軍家出身の者も在る。

只、本来は之に会津藩主・松平 容保が加わっていた。

会津藩が急遽随行を取り止めた事と、薩摩藩が御親兵を離れて猶大人しくしていた事こそが重要であったのだ。



この12の国主達は、素晴しき牽制役(ピエロ)であった。

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