七十四. 1863年、帰京~前日譚~
生野の変の前日譚である。生野の変は天誅組の変と密接な関りが有る為、天誅組の変の前日譚と謂ってもいいかも知れない。
「―――この時期に!?」
「正気ですか平野さん!」
久坂と宮部は顔色を変える。二月後には攘夷親征を控えている。攘夷親征は謂わば、将軍を諸藩の藩主と共に天皇に伴わせる事で、将軍を天皇の僕として扱う其そのものが儀式的意味合いを持っている。詰り、其そのものが最も穏便なる政権譲渡である。将軍も天皇もその遣り方でよいとしてきたのだ。其をぶち壊しにする気か。
「ほら、久坂も宮部さんも反対すると言ったでしょう!」
桂が声高くして言う。如何やら、翠紅館会議で話し合った内容とはこの事らしい。
「平野さん、先程申した様に、九州は・・・」
「だけんこの時期たい。遠国では佐幕が息ば吹き返してきよる。ばってん、朝廷と幕府の立場の差が大きかは今ばい。之からはその差が小さくなっちく。なれば、朝廷の力が大きか内に幕府ば倒し、その後攘夷ば決行する」
「さればとて・・・!」
「幕府はまだ、倒せるほど弱くなってもいない。幾ら朝廷の力が大きいといっても、朝廷が兵を出せる訳でもない。俺達長州藩の武器さえ出せるか判らん。夷狄との戦争で使い果している可能性がある」
其に・・・・・・ 久坂は同じく御癸丑以来の説得をする宮部の顔を見て、唾を呑む。・・・・・・仮令、長州藩が万全の状態であっても、肥後藩が敵になればその時点で勝ち目は無い。細川の軍艦は凄かった。島津の軍艦は其を超えるというではないか。
「・・・!」
宮部が此方を向く。
細川、島津、唯一藩を相手にしても勝てるか如何か怪しいのに・・・長州に同情的な藩は在る。只、味方になってくれる可能性の有る藩は。
加えて、長州の領民だけではない。志士そのものも暴走傾向にある。天皇を置き去りに物事が進み始めている事に、久坂が気づいて御親兵総監の宮部が判らぬ筈が無い。朝廷に尻拭いをさせ勝手な事ばかりするならば。
―――捨てられる。実際に長州藩は捨てられる。
「・・・“倒す”って、朝廷の意向無くしての決起はいかんとではなかですか!」
彼等の方言につられて、宮部も方言で切り返した。
この神話の地に生れ生きた肥筑二国の議論というのは、他の藩を交えての議論とは少々懸け離れている。彼等の纏う神官装束の様に、表現や展開が多分に宗教的、文学的であり、方言が無くとも其だけでまるで一つの異なった言語の様だ。理論的な長州人や合理的な薩摩人には理解というべきか、翻訳のし難い言語である。通常は他藩を慮ってこの様な話し方はしないのだが、よほど想う処があったのか、長州人を措いて彼等は激論を交していた。
「―――貴方は、西郷(薩摩)に随分と染められて仕舞いなはりましたか」
と、宮部は平野の福岡人としての性格を否定した。
「―――宮部君、天皇は神やなか。人間ぞ。俺達の信じようものと違う」
「・・・・・・」
彼等は突如、長州人からすれば奇妙な事を言い出した。併し、宮部は黙って聴いている。彦斎も轟も、違和感無く聴いていた。
「・・・そげな事位、疾うに気づいとりましたよ。ばってん、神でなくとも、義理というものが人にはあります」
「之ほど凡てを奪われてまだ義理と言うとや!あんた、自分で言っておきながらまだ藩を、そして今の天皇を信じとっちゃなかとね。あんたが本当に朝廷の為と言うとなら、命ば捨てるに抵抗は無かたい。理解を求めとっては機を逸する・・・俺達にはもう何も残っとらん。んならこの命ばぶつけて朝廷という焔に焼べる薪となろう」
・・・・・・。御癸丑以来特有の“死の美学”である。宮部は窮した。御癸丑以来の“暴発”から逃れた者は在ない。
組織力を失った者は、弾とならなければならないのか。長州人はそう受け取った。宮部等肥後人の死が急激に近くなる。
「いや、まだ失っちゃいない」
久坂が宮部と御癸丑以来の間に割り込む様にして言った。
「奪わせない。・・・・・・肥後藩は必ず味方につける。だから挙兵はやめてくれ。肥後藩が味方につけば、西国雄藩も恐らく立ち上がる。そうすれば抑々(そもそも)挙兵の必要も無い」
「平野さん、貴方も含めて、死ぬのはまだ早い。幕府が倒れても人材がいなければ、その後の国は誰が導くのだ。下手したら徳川の治める今よりひどい世になる。混乱は出来るだけ小さい方がいい。混乱が大きくなればなるほど夷狄の付け入る隙も―――」
「黙らんや、若僧!!」
―――久坂、宮部、桂は血の気を引いた。彼等三人の力を合わせても御癸丑以来を止める事が出来ない。
「今の徳川の治世より落ちた世が他に存在するや!“機を見る”と言いながら、時機は過ぎつつあるじゃなかか!徳川ははいそがんですかと政権を譲る訳がなかやん。此の侭徳川の世に戻り、夷狄との交易に拠って真綿で首を締められつつ生かされる位なら、力の余っとう内に敵に消えん傷を刻んで果てる方がよか!」
奪われた世界の中で生きるなど・・・・・・桂は2年前に松田に言われた台詞を想い出す様だった。最も奪われたのは誰かといえば長州藩だろう。併し人生を奪われたのは誰かといえば、叉話は変ってくる。長州藩は一国一塊で奪われた。だから一国集団で纏まる事が出来る。だが真木や平野はずっと、迫害の中に独り身を晒してきた。組織から切り解かれた者は皆そうだ。水戸天狗党残党しかり。薩摩精忠組は滅んだ。土佐勤皇党も今や、残党と謂う他無くなって仕舞っている。
そういった者達にとって今の世は、充分滅びの世界に等しい暗黒郷なのかも知れない。
現に、之から引き起される天誅組の変、生野の変、天狗党の乱等の人員は、そういった者達で構成されている。そう
「土佐の吉村 寅太郎君や備前の藤本 鉄石しゃんは既に準備ば始めよる。桂君、翠紅館会議で遣ったは報告くさ。異見は聞かん」
「―――――・・・」
ゴーン、ゴーン・・・と、頂法寺の鐘が鳴る。行燈の火は疾うに尽き果て、煙すら立たなかった。併し障子の向うは明るく、外より白く光が入ってくる。
―――久坂は机に突っ伏して、動かなかった。鐘が午九つ(おひる)の刻を知らせた。
「・・・・・・」
山口は固く閉された久坂の部屋を前に、暫く立ち止った。・・・流石に今回は、気丈にはなれなかったか。
山口はここ暫く、久坂の部屋に立ち入る事を遠慮していた。といって、山口が今回の事情を知っていた訳ではない。あの夜の話は長州藩上層部の範囲で止めている。
久坂から入るなと言われた訳でもない。凡て彼自身の判断である。
「山口」
後ろから稔麿が歩いて来た。吉田先生。山口は振り返った。稔麿の隣に彦斎が居た。山口からすれば、見慣れぬ組み合わせでもある。
「彦斎先生?」
「やー山口しゃん」
稔麿にしろ彦斎にしろ、意外な程平気そうだ。久坂等との差に(久坂等の姿を見てはいないが)少し驚いた。
「仕事だ」
稔麿は感情も感傷も無い声で言った。この男はどこまでも淡々としている。
「えっ?俺が?」
―――彦斎が眼を細めて山口に笑いかける。稔麿は早々に去って往った。彦斎と山口の二人だけが残される。この二人の組み合わせも叉、滅多に見られぬ珍しいものだ。
「・・・ちょっと付き合ってはいよ」
彦斎は山口に言った・・・山口は、彦斎の腰元から刀が一本消えている事に気づいた。
ドンドン
障子を叩く音がして、佐倉ははい!と慌てて返事をして障子へ駆け寄った。振り返り、えっと、見られたらヤバい物出してないよね・・・と部屋のチェックをする。
「何でしょう・・・」
念の為細く障子を開くと、珍しい訪問者が其処には居た。
「彦斎先生!?」
彦斎と、少し離れた処で何やらダメージを受けた顔の山口が立っている。
「・・・?山口さん・・・?」
「ああ、気にせんではいよ。彼とはその、ちょっとした感情の行違いしたったいね」
彦斎がフォローになっていないフォローをする。この時期は山口の男色家疑惑がまだ晴れていなく、互いに妙な気遣いの行違いが起きていた。
「・・・佐倉さんは趣味がいいと聞くけんな。ちょっとばかし付き合ってくれんね」
彦斎が佐倉に尋ねる。佐倉は困惑しながらも
「は、はぁ・・・」
と、答えた。特徴的な深紅の着物を今日は脱ぎ、くすんだ空の色の如き浅葱裏の衣を彦斎は纏っていた。
「・・・・・・;」
「・・・・・・」
なかなか無い面子で京の街を闊歩している。彦斎だけマイ‐ペースに、右へ左へ、するすると人波をすり抜け店を見物して回っている。そんな彦斎に対する二人の印象といえば。
(・・・あれ、なんか彦斎先生いつもより小さい様な・・・?)
佐倉より少しは高くなかったか。今はひょっとすると佐倉より小さいかも知れない。
能々(よくよく)見ると、足元がいつもの高下駄ではなく、草履だ。而も懐かしの畳表草履を履いている。畳表草履は畳同様藺草から出来ており、歌舞伎役者くらいしか履かない謂ってみれば“古めかしい”物である。
(物持ちがいい人だな・・・)
草履だけでなく。
(う~~~ん・・・・・・)
佐倉は浅葱色の着物を視線で追いながら眉間に皴を寄せていた。佐倉も山口も江戸出身、詰るところ流行の発信地から京に来ている。浅葱は一時期江戸で流行したが、とっくの昔に廃れてこの時には既に流行に乗り後れた野暮な田舎侍の代名詞となっている。
更に、木綿生地で長持ちする事から生活困窮者が着続ける事も多く、浅葱木綿の羽織を着て歩くなど「私は貧乏武士です」と言い触らしている様なものだ。壬生浪士組が「身ぼろ」と京の人々に蔑まれたのも、浅葱色のだんだら羽織という“時代後れな”隊服を着ていた理由が大きい。
余談だが、幕末に熊本を訪れた他藩の武士曰く「肥後の侍は皆みすぼらしい格好で家も狭かった」らしい。理由は他藩同様に肥後藩も倹約令を出していたからだが、農民に負担を掛けると国人一揆が再来するから、士分の者がとにかく我慢、我慢で切り詰めていた様だ。農業県の力半端無い。
という訳で貧乏武士な彦斎さん、本日は久々のお買い物である。
「・・・見失うなよ」
山口がそっと佐倉に耳打をする。
「え?」
「今日は、あの人の護衛で来てるんだ」
「護衛?」
佐倉は首を傾げた。護衛なんていなくても、あの人はひとりで蹴散せるだろうに。其とも、あの人自身に何か仕事があるのだろうか。
「・・・ま、佐倉はいつも通りでいてくれればいいから」
「はぁ・・・」
返事をしつつも、・・・いつも通りって何だろ?と佐倉は思った。・・・そして、山口と街を歩いた日を指折り数えると、かあぁっと顔が紅くなるのだった。
「やー済まんね、付き合わせちしもて」
彦斎がからんころん言わせて山口と佐倉の許へ戻って来た。あ、大きさが元に戻ってる。
「ばっ?」
・・・・・・佐倉が突然、立ち上がる。彦斎より大きく見えた。佐倉の隣に座る山口も吃驚する。・・・待ち構えていたかの様な仁王立ち。
「彦斎先生、着物屋に行きましょう!!」
・・・・・・何かの火が点いて仕舞った様である。
「?ああ、僕も佐倉さんに服を見て欲しかったつたい。服がそろそろ切れてきとってね」
怯まない彦斎。さすが人斬って胆が据わっているというか。いや其は山口だってそうか。そこんとこがやっぱり“姐さん”っぽい。
名目上は三人とも男の筈なのに、山口は全然男と居る気がしなかった。




