七. 1858年、肥長
―――斬ッ!!
肉塊が雑草茂る地面に落下した。夜闇の宙に血の雨が降る。
ドサッ!
「・・・っ痛!な・・・何ば・・・・・・?」
担ぐ者を突如失って、地面に叩きつけられた乗物から男が転がり出る。そんな彼等の目の前に、影が躍り出て宙を舞った。
―――歪な二つの円い眼を描いた不気味な仮面が、月に照らされて、赤に、青に、白に、見える。
男が即座に刀に手を掛けた。併し刀を抜く暇も無く、男も駕籠者の肉塊と同じ様に斃れ、時間差で血を昊に向かって噴き上げる。ささやかな抵抗に己の肉塊を越えて跳ぶ刺客の着物に血涙を散すも、着物の色に同化してすぐに馴染んだ。
「―――そん格好は、たいぎゃあ立派たいね」
影が屍を越えて着地する。着地と同時に乗物の後ろに居たもう一人の駕籠者を薙ぎ、速度を緩める事無く後ろの列に突っ込んでゆく。最後尾も近くなって漸く一本の刀が刺客を止めるも、姿勢を落して地を這い進む様に懐に入り、逆袈裟に斬り込めば後ろに仰け反って斃れた。鈍色の刀を握った侭。
とどめを刺す必要は無かった。襲った者達は全員、一太刀で血抜きまで施してある。其程に斬る部位は精密かつ正確で、鋭利であり、刀に血がつかぬ程に迅かった。
仮面の刺客は此方を向いて近づいて来る。紅の着物は稲荷大明神の鳥居を暗くした様で、背丈は女子供の様。併し剣は此の世の人間と思えぬ程に強かった。
―――其は鬼か修羅かの様に。
唯一人生き残った、否生かされた者は、刀を抜く事も忘れ、はっとして、ぶるぶる震える指先をじわじわと刺客に向ける。
「わ・・・!わ(お前)が『肥後の黒稲荷』・・・・・・!!」
「稲荷寿司は好いとばってん、別に神ん遣いじゃなかとよ。そるばってんね、あたに天誅を下す事じゃ同じかもしゆんな」
「天誅・・・・・・?」
役人が恍けた口で言うと、刺客は役人の口を塞いで役人の肩を刃で貫く。役人は絶叫の悲鳴を上げるも、刺客の手の前に掻き消えた。
「・・・あたん所為で、此処ん人間皆殺しね。あたが生きとうと、肥後は腐る」
刺客は其の侭ゆっくりと、刃を横にスライドさせた。―――・・・軈て、ゴトリと地面に重たい物が転がり落ちる音がする。・・・聞いとうね?刺客は何度か、役人に向かって小さな声でそう言った。
・・・・・・その後、刺客は胸倉から白い布を取り出し、肉塊から湧く血を掬って
『 天 誅 』
―――と、書いた。
・・・刺客はきじうまの仮面を外した。露わになった細い顎を、透明な液体が伝う。ごしりと目許を袖で拭うと、頬が役人の血で汚れた。
「嫌やったらせんでよか事やん」
・・・茂みより、同じくきじうまの面を被った男が現れる。幕末が明けた後の書生に近い格好をした者であった。面を取ると如何にも文化人らしく、眼鏡を掛けざんばら髪で、肚に一物抱えていそうな空気を持っていた。
「・・・只の生理現象ね。こん涙が救いばい。人ば斬ゆ時に何も感じた事無かけんね」
「ならよかが。ばってん、斬る相手ば間違えんなや。・・・俺の髪、なかなか伸びんでまち歩くと恥かしか」
男は己のうなじを摩りながら言った。『まち』は熊本城城下町で最も賑わっている処を指す言葉である。城下町には遊廓もあり、時々遊女のお仕置きを受けて髷を切られた浮気男が江戸の吉原同様にうろついている。
「真面目んなってよかたいね。ばってんまだ伸びんとですか。そらもう僕のせい違うとよ」
「おろいか(良くない)後輩や。次は髪だけや済まんかもしゆんな。・・・あいた、しもた。稲荷山ん来た理由はそぎゃん雑談ばする為やなかったい」
男が着物の衿から紙を出し、ちょいちょいと手招きして其を渡した。辺りが暗いので字が読み難いが、宛先に『佐々 淳二郎殿』と書かれている。―――差出人は、宮部 鼎蔵。
「事情はそこに書いてあるけん、後で読んどきんしゃい。端的に言うと先生の御迎え兼御呼出ばい。どうも、長州がいかん事なっとって、外からの介入が必要なごた。―――て事で・・・・・・留守、任せたけん」
(・・・・・・果して、間に合えばいいが・・・・・・)
肥後の同志に速達で手紙を送り、宮部自身もその足ですぐ長州に向かって出立した。江戸時代当時の速達は、飛脚を使って江戸‐大坂間が3、4日程度掛っていた。肥後までは10日程度、佐々が手紙を読み長州に向かえば、宮部より早く到着する。
其に佐々はあの齢にして宮部に劣らぬ頭脳の持主だ。松陰が以前提案した無謀な計画の事もよく知っており、策も練っている。
―――後は、間に合うか如何かだ
佐々もすぐに肥後を出た。併し間の悪い事に、幕府はこの時期松陰に目をつけ始めていた。
「吉田 寅次郎は此処に居るな!?」
―――!? 松下村塾で松陰に説得を続けていた吉田 稔麿と入江 九一は、突如激しい音を立てて開け放たれる襖に、愕いて振り返った。松陰はたじろぐ事無く背筋を伸ばした正坐の姿勢の侭、静かな眼で、土足で上がって来た来訪者を見つめた。
「―――稔麿。之は・・・藩の上方の者か?」
入江が松陰の前に身を挺しつつ稔麿に訊く。松陰は藩の御偉方にも顔が利くと聞く。その様な相手に対し、之程までに高圧的に接してくるものなのだろうか。
「知らぬ・・・併し、藩の者にしては以前と態度が違うし、長州特有の訛りも無い。・・・・・・幕吏か」
稔麿も警戒の眼で来訪者を見る。藩の者を通さずに幕吏が直接乗り込んで来るとは、彼等にとっても予想外であった。長州藩が松陰に対して寛容である事を、幕府は松陰の処分の重さや大きさを手掛りに密かに調べ上げていたのである。
この徹底さは、彼の大老・井伊にしか出来ない。
・・・・・・入江と稔麿は思わず剣に手を掛けるも、抜ける筈が無い。此処で刃傷沙汰を起す訳にはまさかいかないし、松陰の正体を隠し徹すしか乗り切る術は無いと思われた。
併し。
「―――吉田 寅次郎とは、僕の事です」
「先生!?」
稔麿と入江は唖然と松陰を見た。松陰は二人に退くよう命じ、在ろう事か
「・・・・・・僕は、貴方がたを心より俟っていました」
と、言い放つのであった。
之には幕吏の側も仰天する。
「・・・貴様、間部 詮勝公の暗殺を計画していたとは、真実か」
と問うた。松陰は一寸の詰りも無く
「―――真実です」
と、答える。
「―――!」
「先生・・・・・・!」
松陰よりも稔麿や入江、そして幕吏の方がたじろいだ。松陰は徐にその場から立ち上がると、悠然と歩を進め自ら幕吏に近づいた。粗末な着物を着て体格も小さいのに、幕吏は松陰が迫って来ても身動ぎする事が出来なかった。
松陰が武器を持っていたら、幕吏は只では済まなかったであろう。
現実に松陰が標的人物以外を傷つける事など在り得ないが、其位、幕吏は松陰の纏う圧倒的な空気に呑み込まれていた。
「・・・では、逆に僕から問いますが、貴方がたはこんな遣り方で日の本が生き残れると思いますか」
!? 幕吏は松陰が問いで返してきた事―――其も赤裸々な問い―――に度肝を抜かされる。松陰はこの幕府の犬達に対して、説得を試みようとしているのである。
「如何にも僕は、老中・間部 詮勝暗殺を画策した。日米修好通商条約締結の意味を、よもや幕府の要人である貴方がたが知らぬ筈はないでしょう。本当は井伊大老の方を排除すべきだが、井伊大老の政策を実行に移しているのは他ならぬ間部。故に、先に間部を殺すべしと考えたのです」
松陰はまるで彼等に其を伝授するかの様に、間部暗殺の必要性や間部暗殺に依って井伊政権は如何なるか、打撃を受けた井伊政権に対し次はどんな手を打つべきか、井伊政権から解き放たれた暁にはどんな政治を行なうべきで、如何すればこの国が生き残る事が出来るかを声高に、丁寧に理路整然に語る。幕吏は余りにも筋の徹った主張に呑み込まれ、思わず共鳴しそうになる。首を縦に振り、肯定の意を表しそうになるも
「―――騙されまいぞ!!」
幕吏の一人が剣を抜き、その音に他の幕吏達も目が覚めた。松陰の演説に呆然となり、我を見失いかけた幕吏達は、身を以てこの男が危険な人物である事を知る。
―――この男には、宗教者の如き魔力がある。
「ひっ捕えよ!!」
「―――っ!」
「松陰先生っ―――!!」
―――たとえ無実だとしても、野放しにしておけば幕府はいつの日か足を掬われるのではないか。この男は其程までに、短時間で自らの思想の虜にし、他人を惑わす魅力と魔力をもつ。・・・孰れ支持者を拡大させ、一大勢力となって幕府をも呑み込む存在となろう。
・・・今はまだ、この男より年下の若者や子供が誑かされている程度であるが。
―――この男は、他の尊皇攘夷思想家とは明らかに器が違う。
・・・・・・恐ろしいのは、この男を支持するパトロンが現れた場合だ。その後だ。
「お前達もだ!来い!」
ザッ 幕吏が彼等を取り囲み、稔麿と入江をも捕えようとする。稔麿と入江は反射的に刀に手を掛ける。
「―――御上の言う事に、逆らう気か!!」
・・・当然だ。稔麿と入江は只の門下生に過ぎない。長州藩は松陰の門下生事情も松陰の掲げる突飛な計画の詳細も把握している。他ならぬ門下生が松陰の狂気に歯止めを掛けている事も。だが幕吏はというと、長州藩の言う事には一切耳を貸さないのだ。
「・・・・・・くす」
松陰が我慢が出来なくなった様に哂った。過剰反応した幕吏等がぐっと松陰を押え込もうとする。
「何が可笑しい!?」
幕吏の一人が問い質そうとした。併し、松陰は笑みを浮べた侭、意味深に幕吏を見返すのみで何も言わなかった。
「・・・っ!」
入江が刀を抜いた。隣の稔麿も剣を抜いている。―――此の侭大人しく松陰を引き渡したところで、無事に松本村に還って来る訳が無い。聴く耳を持たぬ幕吏の拷問に近い尋問を受け、最近は獄中で死者が出ているとの噂だ。数分接しただけの幕吏の態度で松陰の往く末が想像できた。
「―――稔麿」
「ああ―――・・・」
入江と稔麿が背中合わせに剣を構える。だが、正直なところ多勢に無勢であり、自分達は既に壁際に追い詰められている状態だ。
「・・・っ」
・・・じりじりと、幕吏に気圧され後ずさる。ぎゅ・・・っと柄を握り締め、覚悟を決め斬り懸ろうとした時
「お待ちください!!」
長袴が床を擦る音が聞え、幕吏と全く衣装の異なる人物が室内へ乱入する。幕吏だけでなく稔麿等三人も目を大きくして其方を見た。
「その剣を下ろしなさい、吉田 稔麿、入江 九一。―――・・・御無礼を御許しください。その二人は何も知らぬのです。突然の事に驚いて剣を向けて仕舞っただけなのです」
「―――長州藩第13代藩主世子・毛利 定広公」
稔麿と入江はその科白に、新しく来た人物を益々凝視した。長州藩次代藩主が直々に松下村塾に止めに来た。次代藩主の登場にも全く臆さぬところから、松陰が如何に太いパイプを持っているかが覗える。
・・・・・・松陰よりも、定広の方が余程憔悴している。
「・・・・・・その二人は、長州藩が厳明なる処分を下します。之で良いですかな?ですから、二人については如何か御容赦戴きたく思います」
・・・幕吏達も、流石に藩で最も偉い大々名なる藩主の子に言われるとバッサリ斬り捨てる事は出来ない。毛利の護衛が幕吏を取り囲み形勢は逆転したかの様に見えた。併し。
「―――っ!併し、吉田 寅次郎は幕命に依りこちらに引き渡して貰う。之は、幾ら次代藩主であるあなたでも逆らえませんぞ」
「―――・・・承知しています」
!! 松陰が幕吏に連れて行かれる。稔麿と入江は咄嗟に彼等を追おうとした。だが他ならぬ毛利の家臣に其を阻まれる。
「―――定広公!?」
入江が我を失って叫ぶ。稔麿はすぐに抵抗をやめ、状況を冷静に観察していた。毛利の家臣も叉、そんな稔麿を冷静に見て、彼の腕を掴む手の力を少し緩める。
「吉田 稔麿、入江 九一。君達には謹慎を命ずる。加え、今後一切、吉田 寅次郎との接触を禁ずる。―――・・・連れて行きなさい」
「そんな―――!!」
入江と稔麿も、毛利の家臣達の手に拠って松下村塾から連れ出される。誰も居なくなった松下村塾はすぐに木の板で入口を打ちつけられ、立入禁止とされた。松陰の松下村塾は、廃止された―――・・・
「何ば―――?」
―――肥後の佐々 淳二郎が長州に到着したのは、幕吏が松下村塾に踏み込んだ数刻後の事であった。宮部はまだ到着していない。
物々しい格好―――というより装備―――をした男達が、ぞろぞろと列になって闊歩している。・・・佐々は長州にある異変を感じ、入国審査をする前に手近な樹に登って上から萩の田舎道を一望した。手鎖をされた粗末な着物の罪人一人を、之でもかという人数の男達が誘いている。
(・・・幕吏か―――?)
佐々は目つきのきつい三白眼を細めて列を見下ろした。連れられている罪人は―――・・・吉田 松陰。佐々も松陰とは面識がある。
彼等が向かう方向を見ると―――・・・萩に唯一つだけの牢屋敷・野山獄へと続く。
(・・・・・・)
佐々は目視で確認できるところ迄松陰と幕吏の往く先を視線で追い、松陰が野山獄に収容されたと確信を得た。するりと樹を降り、
「間に合わんかったばいな・・・・・・」
・・・伏せる眼元を前髪が蔽う。併し、悔むにはまだ早く、そんな暇も用意されていない。一刻も早く江戸に報せると共に、宮部と合流し、叉長州藩と連携を密にする必要がある。
(・・・指し寄り(とりあえず)長州に置かしち貰い、先生ば待っとる間に永鳥しゃんに文ば書くか・・・・・・)
佐々は眼鏡のフレームを上げ、上関の番所に向かって歩き出した。