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六十九. 1863年、長州~長井 雅楽の最期~

「1863年、長州」



長井 雅楽(うた)の存在を忘れている方も恐らく多かろう。

藩内に於ける久坂の明確な敵に、この長井と中島 名左衛門という男の二人が在る。中島は肥前国高来郡(現・長崎県)に生れた砲術を極めし男で、大村・唐津・熊本・佐賀・福岡・岡山の諸藩に招聘された実力者であった。下関戦争の時期には長州藩の砲術教授を務め、下関砲台の築造に関っていた。

ところがこの男、戦争を目前にして砲台を駆動させない。夷狄軍艦は既に長州藩を攻撃の射程に入れていた。

無論、再三再四交渉したが、砲台に抱きつき立て篭って、砲台を使わせようとすらしない。下関に造った砲台はこの男にとって“作品(オブジェ)”である様で、戦争や国の存亡については二の次らしかった。

・・・此の侭戦えなければ、降伏の他に無い。

光明寺党の首領であり正義派の重鎮でもあった久坂に、長井 雅楽の存在と中島 名左衛門の登場は余りにも身に余る試練であった。

長井は、失脚しても猶多く支持者を持っていた。




―――河上 彦斎は舟より、からっ,と高下駄の音を立てて萩の三角州の内に降り立つ。・・・独りである。久坂や轟 武兵衛は下関に、彼の主君細川 韶邦(よしくに)は久坂等の主君毛利 定広と共に京で攘夷戦争の最終調整を行なっていた。

「・・・・・・」

・・・・・・萩も大概、日が長い。戌の刻(午後8時)近く迄日が暮れない時季も在る。彦斎は暫く手持無沙汰に萩の町を散策し、途中途中で店に入って反物や焼物を見たり食べ歩きをしたりしていたが、(やが)て思い立った様に城下の武家屋敷を訪ねた。



「居ない?」

彦斎はきょとんとして訊いた。少し照れてもいる。なまじ応対したこの家の女性が眼を瞠る程美しいのだ。まさという名で、防長で一番の美人と評判の女性らしい。


「ええ。現在は松本村の方に居ります」

「松本村?」


一方、まさの方も頬が紅潮している。全体的にテンションが高かった。まるで前以て彦斎の事を知っていた様な顔である。

「松本村といいますと、吉田 松陰先生の塾の在らす・・・」

「其処が松本村ですが、あの良人(ひと)が居るのはその奥の山です。東光寺というお寺を御存知ですか。そのお寺へ行く道の途中に草庵を結んでおりまして、其方に住いを移しているのです」

「えっ」

彦斎は間抜な声を上げた。訪ねた相手が草庵を建てて其方に引き籠っていればそりゃ驚くか。(しか)も美人で若い奥さんを置いて。

「道が分らなければ、案内しましょうか?」

まさが(あて)やかな笑顔を浮べて訊ねてくる。眼が大きく潤んでいる。貞淑な女性との噂らしいが、結構積極的だ。

「うんにゃ、よかです。女子がこんな時限に歩くと危険ですよ」

彦斎は眉をつり上げて、きっぱり断わった。彦斎はそういう女性を好まない。

「私は草庵(あちら)に泊っていけばいいので。貴方さまこそ、一人で行けばそうではありません?」

「えっ!?」

彦斎は顔を真紅(まっか)にした。

「っばっ失礼な!」

「大丈夫。黙っておきますし、私達夫婦は貴方さまの味方です」

まさはそう言われても気にしない。まさに押せ押せで、彦斎が

「・・・?はあ・・・・・・?」

と、返事に困っていると

「応援していますよ」

ぐっ★と拳をつくる。其とも、若しお暇でしたら、暫くこの家に居ますか?と訊く。何が何だか解らないが、めちゃくちゃ歓迎している様であった。


「・・・いや、僕は之から用事が有りまして。用の終ったら松本村の方に行く事にします。



―――下関で戦争のある事は知ってますでしょう?其に旦那さんを借りて行きますよ」



彦斎が醒めた声で目下に膝を着くまさに言い放つ。すると、まさは急に凛とした佇まいになる。居住いを正し



「ええ―――・・・あの良人(ひと)の“眼”を醒ましてあげてください」



と、歯切れ良く言った。・・・・・・武家の女らしい、誇りに満ちた声だった。


「・・・・・・」

彦斎がほんのり表情を和らげる。ガラガラと戸を閉めて彦斎が出て往くと、まさはきゃ~ん?と目が垂れて表情が完全に弛みきった。垂れた目が今度は可憐さを引き出す。だが。


(お話に聞いた女剣士さまが本当にいたなんて♪♪♪あの良人(ひと)を借りるってもう♪♪あの良人(ひと)の妾になればいいのに♪♪♪そしたらお友達になってしまうわ私♪♪)


さすが偏見の無い長州藩。併し恐らくは人違いである。

彦斎とまさは実は今後も接点があり、彦斎が男だと知ってまさの女剣士と友達になる夢は潰える事となる。筆者恒例の残念な美人だ。()ういう感じで佐倉が女だとバレる可能性は小さくなっていった(のかも知れない)。




―――――


グォオオオンッ



―――扉が自動的に開いた。否、違う。扉が斬られたのだ。扉の上半分が落ち、ふらりと影が立ち上がるのが視えた。併し、一瞬で消えた。



「――――!?」



内側に居た人間が呆気に取られる。その時が彼等の最期だった。扉の外を覗き込んだ瞬間に首が吹っ飛ぶ。血の雨を降らせて首がゴロゴロ・・・と転がると同時、高下駄がからん・・・と音を立てて乾いた地面に着地した。

―――・・・片膝が密やかに土に触れる。


「あ・・・」


鯉口が切られた。―――膝が地面より離れる。直後に抜かれた剣は踊る様にその場を一周した。軸足となり、その場で一周した片方の踵が地面を離れた頃、死体は十を超え倒れた死体が輪を描き、溢れ出す血は輪の内側に流れ、文字通りの血の池を数秒にして形成した。高下駄が刻んだ踵の跡に小さな血の渦が出来上がる。

首は放射状に飛散していった。


―――シャオォンッ


・・・・・・高下駄は動きを()めず跳躍し、通路の床にてかたん,っ、と踏み込んで、勢いを殺さず襖を斬る。着地して畳の床を踏みしめると、次の瞬間には室内で待ち構えていた人の形を成した影はばらばらに崩れた。

「・・・・・・」

血塗れになった己の刀を納めて波紋が煌めく死体の刀を奪う。次の襖を開くと、部屋の隅に固まる二・三の小さな影が在った。小刻みに揺れている。


「・・・あ・・・・・・っ」



斬・・・ッ!!



ぴっ。―――甲高く、か細い悲鳴を乗せた血が襖に飛び、襖は血の道筋の通りに切れ、落ちた。襖の奥に白衣(びゃくえ)の男が居る。

「・・・来たか」

・・・・・・男は落ち着いた声で言った。身動ぎ一つしない。



「―――長井 雅楽」



・・・・・・高下駄が襖を跨いで、室内に入る。月光が刺客の素顔を映した。河上 彦斎であった。

長井は刺客の姿が余程意外であったのか、少し驚いた顔をした。


「貴方に選択肢を与えましょう。僕に此の侭殺さるるか、貴方自ら切腹為さるるか」


「その訛り―――」


長井は眼を見開き、・・・・・・静かに眼を伏せた。深く、殺した息を、少し長い時間吐いていた。

長井は肥後の訛りがどの様なものか知っている。長井と彦斎は知り合いではないものの、長井と宮部が知り合いであった。

―――スッ

彦斎の隣に検分役が降り立つ。と謂えど、殺しの検分役ではない。切腹の検視役と謂ったが正しい。


長州藩寄組大組頭、のち家老―――



国司(くにし)信濃――――・・・」



―――長井は凡てを悟った。世代が近ければ長井とて到底敵わなかった有能も有能な長井の後釜だ。久坂 玄瑞の同調者でもある。

宮部さんは飽く迄も寅次郎の味方を為さる御心算か―――・・・

そして藩は、後釜(わかもの)が牛耳るか

「―――娘だけは」

長井は衣を脱いだ。彦斎が血振るいをし、刃に残った血を懐紙で拭った。長井は掛軸の下の刀架に視線を送り、―――あの刀で頼む、と伝えた。

「・・・・・・」

彦斎は刀架より刀を取り、刀身を確認する。長井家伝来の刀か。刀の銘柄など分らず興味も無い彦斎は、専らよく切れる事と―――・・・刀の重さを感じていた。

「―――娘の命だけは」

長井は今一度、繰り返した。

「・・・狩らないでくれ。(あれ)は近く嫁にゆく。元々、長井の家督には何ら影響を与えぬ存在だ。・・・尤も」

長井の部屋に続く稲荷の通り道は、すべてが紅い血の鳥居をつくり、生命の時間を止めている。


「―――息子等の生命は、はや狩っておろう」

「・・・・・・暗闇の中、たれを斬ったのかなぞ覚えておらぬ」


―――彦斎は冷ややかに答えた。春なのに指先は冬の空気の様に冷たい。彦斎は刀を構えた。


「―――・・・介錯は拙者でも?」


・・・・・・長井は短刀を握った。腹部を撫で下ろし、左の脇腹に左の手を固定する。刃をその上に宛がった。

「息子達は暗殺者(そなた)に殺された。儂一人に選択肢が有ろうなど。・・・其に――――・・・・・・次期家老の手を汚す訳にもゆかぬろう」


長井は左の手を、刃を宛がう右の手の上に重ねた。そこに一気に力を加える。


国司信濃は眼を見張った。


河上 彦斎は刀を振り上げた。



―――ズ ッ




―――――


師・松陰誕生の地である旧松本村の山は護国山と云うらしいが、恐らくは維新後に付けられた名であろう。当時この山に住んでいた人には山という意識は無く、萩城下を一望できる小高い丘程度の認識だったかも知れない。当時は名前が無かったと思われるこの地を併し城下生れの筋金入りのお坊ちゃん高杉 晋作は山と認識し、団子岩と呼ばれる風光明媚な処に庵を構えていた。東行庵である。

「――――・・・」

晋作は己が一人間であるという感覚が希薄だった。世俗から離れる内に本当に仙人になったのだという達観と、自ら棄てたくせに世間から捨てられた様な妙な被害者意識が独立して育ち、其等の想いが心の中で綯交ぜになっている。あぁ、萩の城下は今日も平和だ、安堵する反面、視線は馬関下関の方を向いている。

(久坂―――・・・)

―――併し、晋作は動かない。其は肥後人や久坂、大楽に与えた処罰を慮っての事であるが、当の久坂本人は


「・・・・・・馬鹿め―――・・・」

と、返書を読んで唇を噛みしめていた。


心中穏かでない久坂と反対に、松本村の山の夜は今日も静まり返っている。

今日はいつも以上に静かな夜であった。

(―――嵐が来るか)

・・・・・・晋作は『留魂録』から顔を上げ、ぼんやりと日本海を臨む庵の丸窓を見た。恐らくは外国軍艦が其処にあるのだろうが、明りもつけず、音も無く、不気味に水平線を黒く塗り潰している様だ。

その影響か、燈明(とうみょう)はいつもと変らないのに部屋はいつもより闇が濃い様に感じられる。



からん,ころん



外国船が本気になったと晋作は直感した。外国人のえげつなさは長州藩の中では晋作が最も知っている。久坂が、長州藩が、朝廷が、無謀な戦いをしようとしている事を晋作は承知していたが、其でも猶、晋作は見守る肚心算でいた。

攘夷運動は桂や久坂に任せる心算でいた。

この地は平地の城下と比べ、冷涼として空気が澄んでいるのは確かだ。併し季節は春も過ぎている。にも拘らず、空気は冬の日の様に張り詰め、嵐の前の静けさを醸し出していた。


からんからん,ころん


―――長州藩が亡びる事を、この男は幾度も夢想したらしい。其はそうであろう。日本全国三百諸侯全てに嫌われ、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ列強諸国に喧嘩を売り、当時人口56万5000人の一自治体が全世界を敵に回したのだから。併し晋作は、長州藩が亡びる事を憂いていた訳ではない。

福岡・佐賀・岡山。長州藩は好戦的な諸藩に囲まれている。たった一自治体が犠牲になる事で西国諸国の眼が醒めるのであれば、遣る意義というのは大いに有ろう。


からん,ころん

―――破滅の足音が聴こえてくる。


晋作はこの音に清々しささえ感じていた。

晋作は振り返った。


からん


「―――『伊曾保物語』の「狐と葡萄」の狐か、あたは?」

す、と扉が開き、狐の様な面が覗いてきた。まるで湯上がりの如きさっぱりした顔つきで、手拭を顔に当てている。

「――――・・・・・・彦、斎・・・・・・・・・?」

「狐ならもっと巧く化けにゃあ」

―――河上 彦斎である。晋作が彦斎と顔を合わせるのは堤の死以来4ヶ月振りだった。思わぬ来客に、晋作は呆然とする。

「・・・・・・あたがなかなか応じぬと聞いたものでな。迎えに上がりましたぞ、お坊ちゃま?」

彦斎は晋作に手を伸ばした。手甲を嵌めた手には血がべっとりと付いている。手だけではなく、柿渋色を選んだ装束も真紅に染まり、下駄にも血が飛び散っていた。彦斎が手拭で拭っていたのは、顔に飛んだ血であった。

「あんた・・・・・・」

「本当は匿わしち貰って風呂でも借りたいところばってん、あたば連れてさっさと馬関に逃避行した方がよかばいな。此処に居ってもすぐ足の付く」

彦斎は拭いても猶紅いぬらぬらとした唇で笑んだ。やけに血色がよかった。

「・・・・・・怪我は・・・・・・?」

晋作は血色を失くした顔で訊いた。・・・腰元の仮面。汚れたきじうまの面と流れ出る堤の血が想起される。

「そんな簡単に()らるるか。すべて返り血ね。只、今回は大きな止め栓を切った。もう一つ、馬関で大きな錨を切る。したら後は戦争よ。この戦局、あぁた次第ばい」

「―――!?」

晋作は愕く。本陣には久坂が居る筈だ。久坂が前線の指揮を執るのではないのか。

「ほらあた今すっぱか顔したね」

「は?」

「狐と葡萄」の寓話といい、すっぱい顔といい、彦斎の意図がよく解らない。寧ろ彦斎の方が狐に見えてきて、化かされた気分になる。


「玄瑞ひとりで全てが出来れば其こそ長州藩なぞ必要無いね。おぬしもひとりだと堤さんの様な事になる時もあろう。ばってん、僕ではおぬしらの不足分を補う事は出来ぬ。生命を奪う事は出来ても救う事は出来んけんな。今回は諸藩もついとるばってん、諸藩は後方支援しか出来ぬ。おぬしが玄瑞にも夷狄にも敵わぬと思って見とるだけだったら、長州藩は本当に終りよ」


―――彦斎はからん,と高下駄の音を立てた。踵を返したのだ。―――行くとよ。彦斎は夜に眼を光らせて言った。



「―――『村塾の双璧』とやろ?」



「!」



―――松陰先生の死以来、忘れていた言葉だった。


『暢夫(晋作)は玄瑞を、玄瑞は暢夫を唯一失ってはなりませんよ。暢夫の識と玄瑞の才、二つが組み合ってこそ事が成る』



「あんまり肥後人(ぼくら)をがっかりさせんではいよ」

彦斎は羽織だけ着替えた。血の臭いは取れないが、狼にでも嗅ぎつけられない限り山越えばかりの下関への道には支障は無い。



肥後人(われら)長州人(ぬしら)の味方になるのは、横の者達と協力する“友”の倫理に惹かれたが故。仲良うしなっせ」

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