六十八. 1863年、長州藩邸~各藩の恋愛事情~
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
襖の向うに居たのは彦斎だけではなかった。
「ーーーーー・・・・・・」
佐々も明らかにドン引きした表情で、表情筋も身体の筋肉も凍りつかせている。彼等の引き様と自分の側からしか見えない着崩れた佐倉の胸の晒に、・・・・・・山口は色々と悟った。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
・・・・・・佐々と彦斎は出会した場処が心霊スポットだったみたいな恐怖に近い顔で後退り、縁側の縁から片足を踏み外しそうになりつつ叫んだ。
「「衆道・・・・・・・・・!?」」
「・・・?」
「ええっとあのコレはですね!!;;」
そうだ。彼等に佐倉の正体はバレていない。男と全く疑っていない点では助かるが、彼等とは今後も顔を合わせるだろうし変な誤解はされたくない。
「何だ今度は。何があった」
救世主が現れた。桶の転がる音に、後から来ていた久坂と稔麿が駆けつけたのだ。
冷てっ。久坂と稔麿は濡れた足袋で部屋に入ると、大体の事を理解した。
「「・・・・・・・・・」」
彼等も叉、絶句する。
・・・・・・山口が居るから大丈夫だと思ったんだがっ!?一体全体、何が如何なってこの様な展開になったのかさっぱりわからない。彦斎等の気配に気づかぬ程に山口は余裕を失くしていたというのか。
「・・・・・・あの、先生?」
山口に肩を抱かれた侭でいる佐倉が、きょとんと首を傾げて言った。
「“シュドウ”って、何ですか?」
ピ キ 。
この場の空間だけ一瞬の歪みが生じ、この場の時間だけ数秒止って再び刻を刻み始めたのがわかった。
「―――っ山口しゃんは衆道もわからん少年にこぎゃん事を!?」
(((寧ろ何で佐倉を女だと疑わない!?その方が色々しっくりくるだろー!?))
その容貌をしていれば仕方が無いのか。彦斎は最早他人事だと思えない様である。そしてお前等は何故当然の如く清めの塩を持っている。
「そんな不浄なもんでもねぇだろが」
「ばっ!!?」
取り敢えず佐倉が女だとバレていない事にホッとした久坂がよく解らないフォローをする。彦斎はするするした毛を逆立てて固まった。そんなフォローは望んじゃいない!山口は心の中で必死に叫びを上げていた。・・・・・・稔麿に眼を遣ると
「・・・・・・・・・」
・・・・・・稔麿は、斯ういった会話が交されている事そのものに引いている様であった。
「如何したのだ」
もう来なくていい。部屋で待機していた武市と平井の土佐勢と宮部が、桶の転がる音に続く騒がしさに様子を見に遣って来たのだ。
「ああ、義兄弟の契りか」
要らないフォローをしたのはまさかの土佐人であった。
「イイネ!故郷の土佐を思い出す」
欲しいのはそういうフォローじゃない!!別に山口はそういう趣味でも文化圏の人間でもない。どうしよう、ツッコミが在ない。
土佐は薩摩、会津と並んで衆道の三大文化圏である。―――一方で
「!!」
「!?」
「「・・・!?・・・・・・!?」」
肥後人は愕きの余り「!」と「?」だけで見事に会話が成立している。肥後も薩摩と同じく男尊女卑の風土をいっぱしに残してはいるが、だからといって硬派な訳でもない。寧ろ熊本の衆道に対する動揺はなかなか滑稽・・・大きいもので、廃藩置県に依って従来の国境が無くなり、他藩出身者の流入が激しくなった明治5(1872)年、熊本県の前身であった白川県は「なんか学校で衆道する奴等が出てきて全然勉強しないんだがどうすればいい!?」と当時の司法省に泣きつき(因みに謂うと司法省は肥後藩出身者が多く出仕した。肥後は細川第6代重賢以来法律に強い藩と知られていた為)、『鶏姦罪』という男色行為を禁止する法律が急遽制定された程である。ま、有名無実化されていたけど。
男尊女卑で男色もダメってじゃあ何ならいいんだよ。
「なに顔を紅くしてんだよ」
「はあっ!?」
詰りはそういう事で。長州藩は専ら女好きの藩で、男色文化はすっかり廃れていた事から完全なる異文化だと思っていた様で、土佐で起った男色絡みの刃傷事件について久坂が坂本から興味津々で聞き書きしたという記録とその日記が現在でも遺されているらしい。
好奇心てな際限が無い。特に久坂は。
「くだらぬ」
武市がばっさりと斬る。流石は長土肥の中で一番の肉食系男子。尤も、武市は酒色を好まないが。併し
「別に騒ぐ事でもあるまい」
えっ!? そこからして既に感覚が違う。矢張り武市も土佐の人間であった。
「―――其とも、肥後人は武士の嗜みを受け容れられぬと?」
武市が宮部に突っ掛る。相変らずの能面の様な顔つきだが、ふんと鼻で息を吐いたので判る。宮部はむ、とするも受け容れ難い顔で
「・・・そういう訳ではありませんが」
と、どう見ても嘘をついた。そして、皆が気になっているが絶対に訊いたらあかん事を訊く。
「この中に、その対象が居たりとかは」
・・・・・・! 彦斎と佐々が口をあんぐりと開ける。宮部は時々、斯ういう或る種の“失言”を犯す。本人に自覚が無いのが致命的だ。
「・・・・・・」
武市は宮部の愚問に答えなかったが、ぷいと視線を宮部から逸らして
(・・・えっ今久坂さんを見た!?)
(・・・・・・いや之は屹度俺の見間違いだ)
(現実から眼を逸らしてはいかんばい・・・・・・)
(そんな現実俺は信じんよ!)
久坂の反応も武市の返答も得られないので真相は藪の中だ。追及する勇気も無いし。
まぁ、彼に対してはすごい贔屓具合だったから納得は出来るけど。
・・・・・・?其以前の質問に答えて貰えない佐倉は一人別の事で困惑している。
「何やってんだお前ら」
久坂が容赦無く佐倉のほっぺをみゅーみゅー引っ張る。いひゃい!いひゃいれふ!佐倉がみゃーみゃー鳴いた。
「・・・・・・山口。誤解があるなら聴こう」
・・・ーーーっ!そう、斯ういうフォローを俟っていた。稔麿が救世主に見える。神様・・・!と山口は稔麿を崇め奉りたくなった。
「スミマセン・・・・・・!」
ところが。
「薩摩と土佐では好みが違うんさ。薩摩は女が嫌いだからな、漢らしいがっちりしたのが好みなんだが、土佐が好きなのは美少年系だ。その点では土佐人の眼から見れば山口君はなかなか良い趣味をしちょる。きらーん★」
「そぎゃん講義は要らん!!ぬしらは二六時中相手をそぎゃん眼で見とっとか!汚らわしか!」
「おい、この場には青少年が居るのだぞ。もう少し慎んで・・・」
「何ゆえ気を遣う。斯様な話は幼い内より聞かされ、日常にて習得してゆく事。其だから尊藩の志士はいつまでも」
「「なん・・・・・・だと・・・・・・!?習・・・得・・・・・・!?」」
いつの間にか山口も佐倉もそっちのけで議論に発展している。佐倉はみゅーみゅーされながら聞かされる内に衆道の意味が朧げに理解できてきた様で、はっ!と目と口を大きく開けると急激に顔が真紅に染まっていった。
(わ・・・私、今男だった!という事は、今迄の話は全部・・・!?)
(忘れんな!!)
久坂が佐倉にチョップする。す、済みません・・・・・・!佐倉はこぉぉお・・・!と湯気の出る頭を押える。
山口に女と見られていないと思ったところが叉、折角ここ迄進んだ二人の恋愛を遠ざける。
「―――・・・山口さんとは、そんなんじゃありませんよ」
佐倉は少し伏し眼がちになって、控えめな声で言った。併し長州勢以外誰も其を聞いちゃいない。
てか。
平井が彦斎の容姿をからかって遊ぶ。彦斎がムキになって平井に清めの塩を投げつける。坂本の軽薄な口説きといい、土佐人って実はこんなんばっかりかと佐倉は思った。武市は本当に土佐藩が生んだ奇蹟である。
「あーあーもう塩水になってんじゃねぇかー」
そういえば、桶を引っくり返して濡れた床を拭くどころか桶の回収すらしていない。水溜りが空の色を映して大海の色になっていた。
「「長州藩の教育は如何なのだ?」」
漸く土肥の領袖は此処が長州藩の敷地であって自分達だけで教育方針について言い争っても平行線に終る事に気づいたらしい。随分と仲良くなりましたよね、あなたたち。
「・・・さぁー長州藩は偏見無いからな」
偏見。宮部が若干ばつの悪い顔をする。肥後人は偏見の塊と言っている様なものである。武市はふ・・・と鼻で哂った。
「そういう教育を受けた覚えもねぇもんなぁ。なぁ吉田?」
「・・・何故私に振る」
山口と佐倉が興味津々で稔麿の方を見てくる。稔麿自身は禁欲的な性格なのでこの手の話を振られると内心非常に焦る。
「他藩人にも大きく門戸を開放している様に、好みだったら何でもイケちゃうんじゃないか。男でも女でも。子豚でも狸でも狐でも猫でも。ってアレそんなに説得力ありました?すっげー引いた眼ぇしてる」
・・・・・・・・・。一同すっかり静まり返り、久坂に釘づけになっている。
長州藩は節操が無い。彼等の共通理解はそうである。
誤解された侭では堪らぬと稔麿と山口はフォローしようとするも
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
序でに佐倉も
「・・・・・・」
・・・・・・改めて想い返してみると、長州藩って本当に節操が無いなと彼等こそ実感するのであった。
「・・・・・・互いの藩の風俗について詮索するのはやめましょう!」
宮部がひどく爽やかに言った!知らない方がよい事もあるのだ!と台詞が続きそうな勢いだ。
「左様」
と、武市が肯いた。いやあなたたちの御蔭で色々おかしくなったんですよという気がしなくもないが。
禁欲的であれば初心と蔑まれ、硬派であれば同性愛と罵られ、軟派であれば節操無しと眉を顰められる。嗚呼、斯くも男はつらいものかな。
「今日で最後ですから一杯飲みに行きますかな」
「拙は酒は余り」
そうなると引際が実に鮮やかだ。後から来た三人から速やかに部屋に戻ってゆく。佐々と彦斎はその場に居残って、彦斎が散々にぶち撒けた水やら塩やらを片づけようとしていたが、稔麿が
「後はこちらで遣るので河上さん達もどうぞ部屋に戻ってください」
と、言って彼等を帰す。久坂、お前も行け。はいはい。久坂が佐々と彦斎を連れて行く。
「何か色々済まぬね」
彦斎は恐らく彼自身もよく解らない侭眉を八の字にして謝った後、ひらひらと手を振って去って往く。取り敢えず事態は収束するも
「・・・・・・あ」
・・・・・・山口に対する誤解は全く解けていないどころか疑惑を更に深くした(粗確定的な)形で収束して仕舞った事に気づいた。
(次に会う時はあの人達の中で男色家って事になってんのかな、俺・・・?其はヤダな・・・)
山口 圭一、一生の不覚。・・・併し、何故彦斎等が来た気配が判らなかったのだろう。肥後人達は忍ぶ方は上手くないのに。
「・・・・・・」
稔麿が長い髪を腰で靡かせ部屋に入る。佐倉が廊下の掃除をしている様だ。稔麿が腰を下ろす。二人きりになった部屋で稔麿は言った。
「・・・・・・誤解がある様なら伝えておくが?」
矢張り稔麿は救世主であった。最後の最後で山口は救われる。まさか本当の事は言えないが、支障の無い言葉で誤解を解く事は出来る。
ぱぁぁぁ・・・!
「・・・え?」
稔麿の働きによって(初めの内は「ウン大丈夫肥後とて武士道の藩だから受け容れられる」と台詞を棒読みしつつ話題を避けていたそうだが)、肥後人達に蔓延した男色疑惑は氷解した。尤もその頃には情勢は大きく変り、彼等と顔を合わせる機会が有ったのは山口が冷たくなった時、報せを聞いた久坂の護衛で上京した河上 彦斎だけであったが。
「ありがとうございます!!」
山口が感激してがっと稔麿の手を掴む。稔麿は山口を信じていた心算だったが、山口の力がつい入った事もあり思わず身構えて仕舞ったという。
「・・・・・・!・・・・・・えぐえぐ、えぐえぐ」
「・・・・・・済まん。気にするな。泣き止め」
―――一方、会合の部屋から出ずにずっと待機していた寺島 忠三郎と轟 武兵衛は。
ぴし。
・・・・・・轟が襖を開け放った時に入って来た蝿を、黒文字(和菓子に添える楊枝)を使って一発で射殺す。
正坐していた寺島の膝が浮く。
(・・・・・・何かあったからこそ誰も帰って来ないんだろうが早く帰って来てくれないとこの部屋でも何かが始りそう・・・・・・!)
寺島が只管轟の殺気に脅えていた。




