六十七. 1863年、長州藩邸~思惑と想い~
「我々は帰国命令が出た」
―――全員が武市と平井 収二郎に注目した。この内平井 収二郎は帰国直後に入牢させられ、苛酷な拷問を受ける事となる。
「―――帰国して大丈夫なのか?」
宮部が疑わしげに訊いた。佐々も肯く。彦斎と稔麿、寺島は土佐藩の内情を知らず、黙って空気の変化を読み取る。
「危険だ」
久坂は即座に言った。その必死さに宮部も只ならなさを確信する。厳しい声をして
「従わない方がいいのではないか」
と、訊いた。
「老公が帰んなはったのは同じ公武合体派の松平 春嶽公が帰んなはったから―――そん老公が帰国して何を遣んなはるかといったら―――・・・」
「―――勤皇化した藩を元に戻す!?」
寺島がはっと気づいて叫んだ。佐々は眼鏡に手を遣りつつ肯く。硝子の奥にある瞳はいつに無く険しかった。
「既に大監察二名と国老は免職、国許では暗殺された参政の下手人捜索の命が出されている」
―――!!一同は騒然とする。逮捕する為に帰国させる様なものではないか。
クーデター内閣の終焉であり失敗であった。・・・・・・・・・。宮部は額に手を当て、顔を伏せる。遣り切れなさが滲んでいた。
「脱藩した方がいい」
久坂も声を励ました。
「坂本に伝えたのを聞いただろう。長州藩はいつでも受け入れる用意が出来ている。脱藩して長州藩に亡命するべきだ」
その為に彼等を長州藩邸に呼んだのだ。若し今土佐や肥後の役人が彼等を捕えようと思い立っても、長州藩が守れる様に。
そして武市を説得する為に。
「挙藩勤皇はもういい。孰れ長州も土佐も無くなって、皆同じ一つの人種になる刻が来る。孰れ無くなる国境の所為に、俺はあんたに散って欲しくはない」
「―――藩は消えない」
・・・武市は首を横に振った。そこだけは、藩の存亡の如何についてだけは、久坂等長州人と武市等で考え方が違っていた。
武市は決して土佐を、容堂(主)を見限ってはいない。
「勤皇の志をお持ちであられるのは老公とて変りない。我々は、山内家と長宗我部家遺臣が互いに恨み合った侭、国を一つにする事が出来るとは考えられぬのだ」
―――武市の言う事は至極尤もである。藩さえ纏められないのに、果して国を一括りにする事が出来ようか。武市の言う事は常に正論だ。故に一点の曇りも無く、清廉でそして美しい。若さ故、また徳川への怨みの為に時に衝動に奔った長州志士の過激行為をこの男は止めた。・・・・・・容堂に付け込まれる材料を与える事となっても。
「・・・・・・藩に認められたい想いも、ある」
と、之迄明かさなかった己の弱い部分も、武市は零した。
「・・・藩に拘る理由は、その所為やも知れぬ。我々郷士はこの260年、藩主より土佐藩士と認めては戴けなかった。なれど容堂さまは短期間であれ我々を見守ってくださった。その様な藩主の為に尽したいとは想え、背くなどという事が出来ようか」
「・・・・・・」
久坂等長州藩士には理解の出来ない話であった。寧ろ肥後の方が呑み込める事情であろう。・・・藩主と藩士の血が繋がらぬ藩として。
「・・・・・・」
佐々が眼鏡を押える。
当然だが、彼等は自身の思想・行為に信念を持っている。同時に其は正義であり、其を貫く覚悟でいる。負けようなどとは思わない。負ける方へ、間違った方向へ進もうとしている相手を正そうとするのは、何もおかしな事ではなかろう。
元々が血の繋がらぬ相手である。遣らねば遣られていた事情がある。冷遇される事已む無しであった為に、一つ一つの厚意が深く沁み入るのだ。
たとえ仮初と解っていても、たった一つの恩の為に尽さずにはいられない。武市は真の武士なのだろう。
「攘夷の風が全国に広まっても、土佐が攘夷でなければ意味が無い。・・・拙は小さき人間だ。日本全体、博愛視できる様な広い視野は恥かし乍ら持ち合わせておらぬ。只己が主を、生れ育った故郷を、危機より御救い申したい。拙は結局、国を論ずる器に非ず、目の前のものしか視えておらぬのやも知れぬ」
武市は自嘲した。蛙の子は蛙と。井の中の蛙にとってその井戸が世界の全てであるのと同じく、土佐という淡水の中で生れ育ってきた自分は塩分を含む水の世界など考える事が出来ぬのだと。
「・・・・・・拙は龍馬の様にはなれぬ」
龍馬は鰻だ、と武市は言った。掴み所が無く、淡水の中でも海水の中でも生きる事が出来、飄々と世界を楽しげに回遊する。
調理しても美味しく、国民から深く愛される。
「坂本君・・・坂本 龍馬君の事ですか」
肥後勤皇党と坂本 龍馬はこの時まだ面識が無い。接点は無くは無いが、随分と進む方向は違っている。
坂本はこの時、横井 小楠に逢いに向かっていた。
「龍馬はゆく末大事を成す男です。日本の民より必ず慕われる男となる―――手出しは無用」
武市は宮部と彦斎、彦斎の師匠轟 武兵衛に念を押す。彦斎は醒めた瞳孔で武市を見た。狩るが如き瞳であった。
「龍馬の事は彼の以蔵めも慕っておる」
「・・・・・・」
・・・・・・彦斎はその鋭い眼を瞼で蓋い隠してコクンと肯いた。口の端は控えめに弧を描いていた。
「―――肥後勤皇党は他藩の事には首を突っ込まぬ主義ですので」
・・・・・・宮部も落ち着いた声で言った。肥後人が土佐人に攻撃した例は之以降も無い。其故、幕末時の後腐れが無く、明治の世が明けて秩序を失くした熊本を安定させたのは土佐人であった。戦国以来の草刈場となる熊本を守り、その為に土佐の血も多く流れた。まさに土佐の血は、幕末時は長州の蜜柑畑と薩摩の藷畑、そして明治初期は肥後の西瓜畑の肥しとなったと謂えた。
―――武市は宮部と彦斎を見、ほんの僅かに口角を上げる。実質的な遺言とも取れた。
「・・・・・・・・・」
・・・・・・久坂は最早止められないと悟り、言葉を失い、項垂れる。
「龍馬等脱藩志士の今後についてだが」
「―――!」
併し、感傷に浸る暇は無かった。何より、武市が未来を視ている。武市が捕まって最も危惧すべき事は、土佐の志士達が拠り処を失いより一層藩に拠る粛清が過激さを益す事であった。
「長州藩が受け入れよう」
久坂がすぐに言った。武市は感銘を受けるも躊躇う。肥後の者達が既に世話になっているからだ。長州側の負担を懸念した。
「肥後も助力する」
宮部が口を挿んだ。肥後とて藩は全く一つでない。併し、長肥の藩主同士が攘夷戦争の提携を結んでいる。少なくとも長州に仇しない。
「肥後一国の纏まった力は無いが、長州に居る限りは我々勤皇党と藩主は間接的な協力関係にある。第一、他所者に優しいのが肥後の藩風だと言った筈です」
―――・・・。似ているのである。土佐と肥後は。藩主(養父)の事が判らない。故に、常に真直ぐであろうとするその気持ちが解るのである。
「―――忝い」
・・・武市は長州藩に土佐人を預けた。土佐人の未来を委ねた。武市が牢に入るはこの年9月21日、その後1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て慶応元(1865)年閏5月11日に切腹するも、佐々は武市の入牢以前に投獄、彦斎と佐々、轟を除いたこの場に居る全員が武市の切腹までに死ぬという凄絶な時代の流れがある。
「・・・吉田先生も、久坂先生も、皆さん、何だか大変そうですね」
佐倉が、衾に顔を埋めた侭呟いた。佐倉は佐倉なりの眼で、長州藩邸という狭い世界を通じて時勢の変化を機敏に視ている様である。
「そりゃあ、京に之だけ人が集まれば陰謀もあるだろうからな。情報戦の要素も大きいだろうし、先生方は気が抜けないよな」
山口は暢気な口調でさらりと言った。欠伸までしている。
えっ陰謀!? 佐倉はスリリングな単語にびっくりして跳ね起きた。
「寝・て・ろ」
起き上がりきる前に頭を掌で覆って、佐倉を布団に寝かせる。佐倉の頭は後ろを丁度片手で包める位の大きさで、フィット感がある。
「・・・・・・!」
佐倉の心臓の鼓動が再び大きくなる。頭の感覚が山口の手の温もりを憶えている。安心できる手だと後頭部の感覚が知っている。
・・・・・・佐倉は再び横になった。山口の手がするりと佐倉の頬を過ってゆく。頭から離れるその優しい手を、佐倉は思わず追いかけて掴んだ。
「!」
山口は愕いた。
・・・・・・!佐倉も自分自身の起した行動に愕いていた。・・・・・・愕き、困惑していた。見る見る内に頬が朱くなり、円い眼は細くなり、―――其が、泣きそうに、歪んだ。
―――― ・・・・・・山口は眼を見開いた。
「・・・・・・私は、どうすればいいのでしょう・・・・・・?」
「・・・・・・佐倉・・・?」
佐倉は、山口の手を強く握った。
「・・・・・・何だか、知らない内に過ぎているものが沢山ある様な気がして。先生方には先生方の世界があって、夫々(それぞれ)の方に仲間がいて、敵がいて、その方達にも叉仲間がいて、敵がいて・・・その世界の集合が尊皇攘夷のカタチを成していて。御国の為に人を斬る事こそが尊皇攘夷活動の本質で、ずっと斬るばかりだと、そう思っていたんですが、何だか違うみたいなんです。皆、“人”の話をしていて国より人というか。・・・・・・今迄は単にお忙しそうとしか思わなかったんですけど
冷徹な仮面の奥が透けて視える様で
ああ、今日はつらい事があったんだな、とか
『あっはは!お前相変らずからかい甲斐あるな』
『余計な事を知る必要は無い』
・・・ああ、私に其を見せないよう気を遣っているな、とか
素っ気無いけど差し出された吉田先生の血の通った手を握って
・・・・・・ああ、“人の手”が国をつくるからなんだな、とか判る様になってきたんです。
後、お世話を結構焼いて貰ったり、お墓を参ったり、色々と思っている事も訊かれたりして、“何の為に私は人を斬っているんだろう”って―――・・・」
―――斬る事に抵抗がある訳ではない。只、斬れば勿論人が死ぬ。死ねば当然墓に入る。・・・・・・墓参りを終えた後に向けられた、努めて平常に戻るその表情が、久坂や稔麿と同じだった。人斬りに慣れ切って忘れて仕舞った人の心が、呼び覚まされた気がした。
・・・自分はいつも人にそういう顔をさせている。させる側だ。その応報を、久坂や稔麿が受けている。だからあんな表情をするのだ。其を彼等は、心配かけまいと自分に隠す。
「私も何か、先生方にすべき事があるのではないでしょうか―――」
「――――・・・・・・」
―――・・・健気だなぁ、と山口は想った。佐倉が人を斬るのは吉田先生がそうさせたからなのに。
佐倉は以蔵型の人斬りである。即ち稔麿が絶対的な存在で、稔麿にずっと畏怖を感じていた。
だがその印象が崩れてゆく。河上 彦斎や坂本 龍馬の存在、稔麿が宮部に助言を乞う姿。他藩の、自分とは異なるスタイルの志士やその世界を見て、この娘は別の関り方を知った様だ。
この点が人斬り以蔵との違いと謂えよう。
「山口さんも」
と、佐倉は言った。
「―――山口さんにも、私はすごくお世話になっています。でも、私はあなたの事を全然知りません。
“陰謀”“情報戦”―――・・・あなたはその様な世界で生きてきたんですか?」
! 山口ははっとした。佐倉がここ迄先程の言葉を聞き留めておくとは思わなかった。
「先生方の事は少しずつ判ってきても、あなたの事は未だに全然見えないんです。あなたに何かがあっても、私は力になれないのではないか、若しかしたら気づく事さえ出来ないのではないかと思うと・・・・・・不安になって」
「・・・・・・」
・・・・・・山口は再び掌を佐倉の頭に滑らせ、己の身に佐倉を引き寄せた。山口にとっては、ここ迄“自分自身”に踏み込んできた人間は初めてであった。
「!や、山口、さん・・・・!?」
佐倉がどぎまぎしてこの状況を問う。衾が巻き込まれて互いの心音は聴こえない。其が互いにとって救いだ。
「大丈夫。お前はよく気づいているし、今の侭で十分役に立っているよ」
・・・・・・山口の声はひどく落ち着く。どきどきも、不安も、疑念も、すぐに消えて安心する。だから気づけないのかも知れないが、そこまで考えが及ばない程に心安らいでいた。
「―――あれがあの人達の戦い方なんだ」
・・・佐倉は衾に顔を埋める。山口と益々密着して、ころんと頭が山口の胸に当る。山口は佐倉の頭を撫でた。
「・・・お前みたいな戦いの方が誰も真似できないよ」
―――女で。暗殺者で。その上まだ子供で狭い世界にいて。誰にも己の正体を明かせず、誰にも助けを求める事が出来ない。
そんな中で、常に死の最前線に立っている。その孤独は計り知れない。
だが、だからこそ真実と理想に最も近い位置にいる。一本の道である。久坂や自分は、一本の道ではない。円の様だ。くるくる廻っている円で、複数の自転する円と繋がり輪となって連なっている。故に、輪と輪の連結した部分で摩擦が生じて悲鳴を上げる事がある。其が―――あの表情なのだ。
所詮はその違い。自分は染みついているから隠すのに慣れているだけ。一本道のゆき方をせざるを得なかった佐倉と同じ。
「其とも―――・・・輪の中に、入りたいか?」
山口はか細い声で訊いた。・・・・・・勝 海舟の護衛の件で、以蔵が完全に武市から見放された事を山口は知っている。其は坂本が原因なのに。
宮部という立派な保護者が付き添う彦斎も、怖れられながら其処に居るだけで、黙然と話を聴くばかり。・・・あの輪がいいと、山口は思わない。
「・・・いえ、先生方が私に現在のゆき方を求めるのならば、別に・・・只」
佐倉は健気な事を言った。顔を上げ、山口の眼を真直ぐに見つめる。顔が意外と近い位置に在った。でも、必死になっていて、そこ迄気は回らない。
「山口さんの輪には―――・・・」
「・・・・・・―――――・・・・・・」
―――山口は思わず口を開いた。併し声が出てこない。佐倉にその先を言わせぬ為に、咄嗟に佐倉を抱しめた。
その先は俺から言いたい。
「・・・・・・っ!!佐倉・・・・・・・!!」
早く同じ道を共に歩みたい。一方で、こちらの輪には決して立ち入らせたくはない。因縁しか無い輪など。
危険な処に彼女の身は置きたくない。
「・・・・俺は、お前には・・・・・・っ」
ガランガランガラン!!
ばしゃっ!ゴロゴロゴロ・・・・・・
「!?」
山口と佐倉は愕いて入口の襖を見た。一瞬で開かれた隙間から水が浸み込んでくる。話し合いを終えて手拭と桶の水を取り替えに来た彦斎が、唖然とした顔で立ち尽していた。




