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六十三. 1863年、翠紅館~肥後の牛若さま~

「内容は各自目を通しているとは思うが」


久坂が文を掲げて示す。()ういった会議で久坂が座長を務める事は最早自然な成り行きとなっている。

併し、今回この各藩連合である翠紅館会議を開くよう仕向けたのは、長州藩士の久坂ではない。


住谷 寅之介が久坂と同じ様に文を掲げる。宮部と武市も懐より文を取り出した。武市の持つ文は宛先が坂本 龍馬になっている。

同じ様に、対馬藩の二人は福岡藩士・平野 国臣と久留米藩士・真木和泉の、津和野藩の福羽は岡山藩士・藤本 鉄石の代理で来ていた。平野と真木、藤本の三人は寺田屋事件に連座して、現在は幽囚の身である。

各藩の志士の構成は各々で決めているが、(いず)れの藩も、然る人物に拠る報せの文を受け取っていた。



「清河さんが江戸で浪士集団をつくる事に成功したそうだ」



そう、清河 八郎である。清河の『浪士組』構想が遂に実現せんとの通達だ。

何故、彼等にかというと、以前『浪士一件』資料について、薩・西郷、長・久坂、土・坂本、南肥・宮部、筑前・平野、筑後・真木、備前・藤本を浪士組幹部に推選するとの記述があったと述べた。その関係である。



「来る2月24日、将軍の上洛に合わせて彼等も上って来るらしい」



久坂、坂本、宮部が参加する事は結局無かったが、浪士組の取締役として有名どころは、山岡 鉄太郎(鉄舟)。

清河と山岡等が京まで浪士組を連れてゆく。京に着いてからはお前等も手伝え、と。そういった旨の事だ。


水戸浪士がこの翠紅館のゲストに選ばれたのは、この浪士組に『水戸派』と呼ばれる一大派閥が出来る程に水戸浪士が多く関っている事に由る。その中でも面白い人物といえば



「芹沢 鴨」



であろう。


「あれは我々の知り合いだ。天狗党にも参加している。尽忠報国の志篤い男だ」

後の壬生浪士組および新選組の筆頭局長。彼等と新選組の因縁は、この時に決定的なものとなったと謂っていいだろう。

「その保障があると心強いな」

久坂が緊張を解いて言った。水戸勢も表情を柔かくして肯く。

「・・・・・・」

宮部はくすりとも反応を示す事は無く、黙っている。・・・視線を伏せて、何か別の事を考えている様であった。


浪士組(かれら)も同志に組み込むとなると」


という話になる。清河の言葉でいえば「使う」であるが。少なくとも、この時の彼等は浪士組を同志と見、歓迎して迎え入れる予定でいる。浪士組はまだ、清河の盤上の駒の状態だ。

「長州藩と土佐藩はいつでも彼等の後ろ盾になれる」

勤皇二藩は問題無い。水戸も同志が来るだけの話で、支援も出来ようし仲間も増えて水戸勤皇派の規模も大きくなる。清河の書面にある浪士組の人員は234名。(いず)れは幕府から切り離して、倒幕の為に各藩が擁する事になるだろう。



「肥後さんは―――」



ここで問題になるのが肥後だった。寺田屋事件の余波は、九州全土に亘って吹き返し、西国は日々目紛(めまぐ)るしく情勢が動いていた。事件の零地点である薩摩は、斯ういった場に志士が出られなくなる程にまで藩からの統制が厳しくなり、福岡藩・久留米藩は平野や真木の逮捕もあって薩摩藩より強い干渉を受けている。佐賀藩は相変らずぶれないが、福岡と薩摩の中間の地に在る肥後が如何なっているのか、誰にも読めなかった。

そして、肥後の出方次第で、尊皇攘夷の運命は大きく変る―――・・・ここにきて、(ようや)く肥後藩が話題の中心となる。


「・・・肥後(きみたちの)藩主の細川 慶順(よしゆき)さまが上京されましたね」


毛利 定広公が肥後藩士達に言った。肥後藩第11代藩主・細川 韶邦(よしくに)(慶順)。桜田門外の変が発生した際、犯人である水戸浪士を保護した藩主・斉護(なりもり)の子。


「肥後の牛若さんといって京の人達にすごい人気で」

「「「「「・・・・・・;;」」」」」

肥後勢は苦笑して聞いていた。定広公の言う通り、京の民衆の間での細川人気がすごいのだ。その人気っぷりといったら



『文久二年まぢや 薩州土佐 意地居れど、今は長岡(細川の本姓)で留め刺す

肥後の牛若さん 早く乱世を治めたいね、庶政は小御所で関白と相談すりゃ 此世が静かになるわいな』



という唄が謳われる程である。細川人気は肥後藩士の株も上げ、肥後の志士の人気も意図せずして高まっている。

動乱の京に於いて肥後藩は、藩主の意向は抜きにして完全に尊皇攘夷魁の藩となった。


「まさか、あんなに若い藩主だったとは」

恐らく齢は定広と3,4程度しか違わないであろう。佐賀鍋島、福岡黒田、薩摩島津、土佐山内と老獪な者達が暗黒に蠢く西国雄藩の渦の中にあって、自らの意思で藩の方向性を定めていった若き藩主だ。その所為か、他の藩主と比べると短命に死す。

「桜田の変の直後に先代藩主であられた斉護公が急死されましたからな。政治家としてもまだお若い」

だが決定権は絶大である。藩主の人物評も之位にして、藩の方向性について話をする。


「・・・・・・薩摩の島津どのと一緒に京へ来られたみたいですね」

「よく御存知で」


と言ったのは、勤皇党代表・住江 甚兵衛である。宮部、彦斎、十郎は驚いた顔をした。通常、肥後と薩摩が足並を揃える事は無い。

「其も叉久光公と」

藩主・忠徳の存在なんてあったのだろうかという位、この第12代藩主は名が出てこない。

住江と佐々は細川の上京に合わせて京へ上ったが、確かに細川は島津を待っていた。久光率いる700の兵が肥後に到着してから、共に出発している。

「肥後は薩摩と何らかの同盟ば結んだ可能性が(たっ)か、という事ばいな」

「―――薩摩と?」

(かつ)て薩摩と挙藩同盟を結ぼうとした二藩が驚く。併し最も驚き、当惑していたのは当の肥後人達だった。

「其は在り得ん事じゃなかか」

「幕府が肥後(うち)藩主(とのさま)に命じて、薩摩の見張りに就かせたのではないかね」

・・・・・・。肥後人間で既に混乱が起きている。他藩人が口を挿むどころではなく、久坂等は黙って肥後人の狼狽ぶりを見る他無かった。

「併し、今回の件について幕府は一切の口出しが出来ない筈」

定広公が(なだ)める様に口を開く。斯ういう時、藩主に近い存在がいると助かる。


定広は更に、肥後と薩摩は仮想敵同士として宿命づけられた歴史を持つのだ、と肥後人達の混乱の元について補足した。久坂は、あぁ、毛利と黒田の様な関係かと納得する。毛利が長く眠りすぎていた為に、黒田の警戒はかなり昔に解けているものの。

「・・・では、肥後と薩摩が手を組む事は、本来は在り得ない、と」

久坂が纏める。其では、肥後も薩摩に相当な干渉を受けつつあるという事か。

「うんにゃ。其は無か筈・・・」

佐々は即座に否定した。抑々(そもそも)の肥後藩主の存在意義が対薩摩と謂って過言ではない。干渉を許す筈が無いし、その為に兵力増強している。

「薩摩とは()(まで)対等で()り合う筈・・・ばってん、間に立つ藩がおれば別かも知れん。細川の弱点となり得る藩が一枚噛んどれば、今回の同時上京も無い事は無か」

前に述べた様に、佐々一族は肥後藩の各役職に就いている。佐々は一族の情報から、越前藩が細川の弱点である事を知っていた。

「今の慶順(とのさま)の姉君は、越前藩主に嫁いどんなはる。越前藩主に迫られたら断わりきらっさん」

「越前藩の兵も(ほぼ)同時に入京されましたね」

定広は流石に他藩の事もよく視ている。

「なら、粗間違いありまっせんばい。只、越前藩と薩摩藩の繋がりが佐々(オレ)にはわからん」

「薩摩藩の前藩主・斉彬公と越前藩主の松平 春嶽さまは大層仲が宜しかったと。恐らくは、春嶽さまの繋がりが久光どのと慶順さまに引き継がれているのでしょう」

之も定広公が知っていた。併し、難儀なものである。春嶽と前藩主の仲だというのに、(ほだし)も使えばこんなに違うか。


松平 春嶽は開国派で有名な政治家である。薩摩もその在り方からして攘夷も開国も拘りが無く、恐らく覇権なのだろうと思う。一方で、肥後は慶順が上京してこそこの人気だが、松田が歯噛みする程の強硬佐幕派の一面があった記憶はそう古くない。


攘夷とは別の目的でこの三藩は京へ上っているのか。


「・・・だが、余りにも毛色が違いすぎる。越前は何で肥後を引っ張り出してきたか―――」



「横井さんの力だ」



と、宮部が言った。―――・・・ゾクリと寒気がした。首が上手く動かせず、目線だけで宮部を見るも、その気は宮部から発せられたものではなかった。



「・・・・・・彦斎」



・・・宮部が静かな声で制する。その殺気は隣の彦斎より発せられたもので、周囲の雑音や空気の流れを掻き消した無音の中、大刀を引き寄せてはばきを見つめていた。


―――・・・矢張り、他の志士とは何かが違う



『―――・・・矢張り、斬るべきだったでしょうか』



・・・・・・彦斎の冷たい激情である。横井 小楠は越前藩を背景に、肥後藩を開国主義の藩として担ぎ出そうとしている。


「・・・・・・」


思想という“正義”で人を斬るのか、怒りという“感情”で人を斬るのか。往年の人斬りであるこの黒稲荷でさえ、わからない。

怖かった。

志士(ひと)とは何であろうかと、此の場に居た数人は想ったであろう。

武市は嫌悪した。


(――――・・・・・・)

山口と佐倉に天誅をさせている以上、久坂は嫌悪する訳にはいかないが

「俟ってくれ彦斎」

口を挿む。彦斎は黒稲荷(けもの)の眼を此方に向けた。

「―――何ね、玄瑞?」

彦斎は国言葉からお国訛りに戻って尋ねる。同じ黒稲荷(けもの)の眼でも、この瞳は理性と好意に落ち着いている。

「横井さんのその件、肥後さんでなく長州(こっち)に預けてくれないか」

「は?」

彦斎も驚いたが、宮部や住江、肥後勢全員が驚きで声を上げた。

「別に世話になる事は」

無い、と彼等は口々に言うが、叉そう遣って同胞を傷つけるのだろう。なるほど横井は彼等や細川とは少し毛色が異なる様だ。少しばかり搦め手を狙うところもあるらしい。その遣り方を彼等が好かないであろう事も何と無く想像できる。

併し、犠牲はもう出して欲しくないと久坂は肥後人達に想い始めている。其は桂の様な実利的な理由というよりも、感情的なものだ。

死に方が余りにも悲惨すぎる。堤の様な自罰的な死が肥後人に共通するというのなら、こちらが気をつけなければならないだろう。

他者にはこんなに優しい顔が出来るのだから。

其に。


「藩内では収拾がつかなくなっているじゃないですか。仕方が無いです、肥後(あなた)は長州や土佐よりでかい藩抱えている訳ですし。薩摩という逆風も吹き荒れましたしね」

・・・・・・。深刻な顔をして黙り込む肥後勢。その顔は絶対に己の無力さを恥じている。


「肥後さんには寅次郎の頃からお世話になっています。斯ういう時位、力になりますよ。横井さんという方に越前藩がついているのなら、貴方がたには長州藩がつきます」


若さまも斯う仰ってるから、甘えちゃえよ。玄瑞が未だに刀を抱いている彦斎を見て言う。今や、横井一人を斬っても無駄だ。

―――其に。玄瑞は江戸から京へ戻る途中、信州に寄って佐久間 象山に会ってきた。2年前には喧嘩別れをしたという高杉だが、今逢えば絶対に象山を見直すに違い無い。

玄瑞はこの時、象山より“大攘夷”の精神を説かれ、自分は決して外国を好いている訳ではなく、富国強兵を目的としている、その為の開国であり、即ち敵を知る為の開国であると聞かされた。玄瑞の頭の良いところは、自身は攘夷派でも其は其として、相手の意見をきちんと心に留めておくところだろう。

―――横井 小楠も、象山と同じ“大攘夷”の開国派なのかも知れない。内に秘める想いは自分達と同じで、宮部や彦斎とも離れていないのかも知れないのだ。そう想うと、横井を死なせる事は若しかしたら百害はあっても一利も無いのではないか、という気がしてくるのである。

(・・・・・・肥後さんだし)

自分も何だ彼だで肥後と聞くと弱いらしい。

「・・・・・・」

肥後の首脳も観念した様に吐息をついた。相変らず長州人に弱い。藩主世子の定広公に言われれば猶更だ。

「・・・では、お頼み申す」

住江が言い難そうに言った後、肥後勢は一斉に深く頭を下げた。あの佐々もとは。こちらがたじろぐ程に礼儀正しい。

・・・頼み事一つするのにもこんなに大ごとになるのなら、頼むのが苦手になる筈だ。本当に藩と藩士とは、親子の様な関係である。



「小五郎と周布に越前藩まで行って貰おう。先ずは横井さんの話を聞いてみない事には」



平和主義者らしい定広公の言葉に、場の空気が少し和らぐ。玄瑞がちらりと彦斎を見た時、彦斎は己の刀を今一度見下ろしていた。

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