六十一. 1862年、京へ~始動~
―――舞台は肥後へと変移する。
「宮部と河上は此の侭京に留まるそうだ」
天井裏よりひょっこり顔を出す永鳥に、轟が振り向きもせず言う。宮部の京都出張、佐々の新人教育、永鳥の隠密活動があって、肥後では現在轟 武兵衛に情報が集まる様になっていた。
「へぇ・・・」
轟が届いた書簡を頭上に向かって投げ跳ねる。永鳥は其を受け取り、部屋に届く日光を透してその中身を読んだ。
「なるほど、細川から許しが出たのか。所定の日に現地集合でよいと」
京都御親兵の話である。彦斎および宮部は御親兵の召集に伴い、第11代藩主韶邦(慶順)に合わせて肥後を発つ予定でいたが、堤の遺体を引き取る為に入京が早まったので、在京の許可を請願していた様だ。
細川の動きとしては、文久3年正月、藩主直々に上京せよとの勅命を受けている。
この書簡の差出人は宮部である。文面には他に、1月下旬に開かれる事となる翠紅館会議についても書かれていた。
「『複数の藩との連合会議になるから、淳二郎の頭脳を貸して欲しい』・・・か―――」
永鳥が炙った油揚げをぽりぽり齧りつつ呟く。金色の鱗粉が轟の頭上に舞い降りて、消えぬ殺気がやけに神々しくなった。
轟は火箸の先を押える。火鉢の上で油揚げを炙っている。
「どう致す」
「まぁ、細川も京に行くから、肥後よりは京に居たがいいでしょうね。勤皇党・実学党・時習館党と揉めても、結局は細川の決定で総てが覆る。淳二郎には細川や他藩相手に頑張っち貰いましょう。緒方は俺が預る」
永鳥が宮部からの書簡を落す。轟の懐に旨い事納まった。
「佐々(あのでし)が動く事になれば俺も動く事になるが」
肥後が手薄になるがよいか・・・と轟は訊いた。彦斎に堤がついた様に、悩みも危険も必ず二人以上で共有する。佐々は特に決して失う訳にいかぬ人材だ。究極の頭脳には究極の武人をつけておく。
「細川が京に居る限りは其も大丈夫でしょう。家臣団は結局、細川が居ないと何も出来はしない。勤皇党も手薄で、抗争の規模が小さくなる位の違いじゃないかな」
本作で度々肥後の藩論が3つに分裂している事について触れてきたが、彼等の争いを更に渾沌に落し込む『第4の勢力』が存在する。細川家家臣団である。
勤皇党(攘夷)・実学党(開国)・時習館党(佐幕)に思想はあるが、彼等には無い。肥後移封前より大藩細川の下に居た彼等は、只管に事大主義で、そのくせ他者が出世すると異常な程に嫉妬する。そしてあらゆる手を使って引き摺り降ろそうとするのである。その矛先は主に勤皇党と実学党に向き、名だけ何度も出てくるが横井 小楠は越前藩の松平 春嶽に気に入られた、只其だけの理由で難癖をつけられて切腹させられそうになった位だ。嫉妬だけで人を殺そうとする。藩祖忠興のそういうところだけ立派に引き継いでいる。
取るに足らない思考の集団なのに、ある意味どの派閥よりも脅威である。“第4の思想”と謂うよりは、3つの思想にピリリと効いた感情のスパイスと謂えよう。
「緒方(あの新人)については何か判ったか」
・・・・・・肥後勤皇党には、他にこの男が在る。
「概ね。奴の“知り合い”が意外と近い処におってですね。之なら俺の手にも負えよう」
ん、と言って永鳥が手を伸ばす。轟が金網から引き揚げた油揚げを包み、上空に投げ渡す。永鳥は捕えて、屋根裏に戻った。
「之からその“知り合い”と会っち来ます。暫く大成の処へ泊まるので、ご飯はいりまっせん」
ご飯・・・?轟は火鉢の火を消し、火箸を十文字にして刺して置いた。火伏せのまじないである。轟も他の勤皇党員に違わず、信心深いのかも知れない。
「間違い無い。あれは俺ん同僚たい。―――古閑 富次。肥後藩探索方だ」
桜田 惣四郎が書類を携え、玉名の松村家へ遣って来る。また人が増えるの!?と思われるかも知れないが、この人は本作に於いては使い捨てるので大した事は無い。
永鳥は白衣といった簡易の神主衣装を着、紙垂を編んでいた。実家の仕事に駆り出されている様だ。年末だものなぁ。
永鳥は明らかに信用していない表情で桜田を見る。桜田はえぇっじゃあ何で俺に頼んだとね!?とショックを受けた。
「ふふ、嘘だよ。お前は信用できる」
ん、と桜田の手許にある書類を催促する。桜田は永鳥に書類を渡した。「ん」で全部通じる様だ。
「―――なるほどね。『緒方 小太郎』はやっぱり変名だったか」
実に仔細な資料である。桜田 惣四郎―――何を言う事は無い、佐々 淳二郎の従兄弟である。後に西南戦争で西郷側につき、刑死。
佐々、桜田の一族は名門で、肥後に大きな影響を与えている。豊臣 秀吉治世の時代、肥後一国を与えられた佐々 成政の血を引く彼等は、肥後国人一揆に因って成政が切腹させられて以後も、後に入国した加藤(清正)家、細川家を支え、藩校時習館の講師、肥後藩探索方、細川家教育係等肥後国の広範囲に亘って布陣していた。時に細川さえも頭が上がらず、土着の民である宮部や永鳥も彼等の力を当てにしている。
「緒方『小太郎』は正確には“しょうたろう”と読む。“こたろう”と読み間違う者が多いが。―――緒方 小太郎は時習館党の人間で4年前『天誅』の名の下に一族ごと消されとる。小太郎には養子に出した子がおった。生きとったら古閑と同じ位の齢だ」
「じゃあ、その古閑が父の名を騙って―――?・・・ではなかな。古閑 富次は古閑 義八郎の実子となっとう」
「其に、富次は当時から消息は判っとった。一方で、緒方 小太郎の実子は未だに何処に居るのか判らん。緒方の実家に戻っとって、偶々『天誅』に捲き込まれその時に死んどる可能性もある」
・・・・・・。永鳥は書類を注意深く見た。古閑の本籍は飽田郡(現・熊本市北西部一帯)。
「ん?」
古閑家も叉、養子を取っている。
『膽次』―――・・・
「藩の探索方という事は、肥後藩の命令かな?」
「其は判らん。探索方は藩主から個別に任務を与えられるけんな。独自の判断で動く事が許される、かなり融通の利く役職だ」
「へぇ」
孰れにしろ、古閑 富次は緒方 小太郎殺害の犯人を捜している。そして、その犯人が肥後勤皇党内部にいるところまで突き止めた様だ。
・・・・・・彦斎に会わせなくて正解だった。
「ありがとう、桜田。之は矢張り、俺が相手をした方が良さそうだ」
「何ばする気か?」
桜田が問う。永鳥がん、と桜田に書類を突き返す。見事に自分から動かない。
「淳二郎と交代だよ。古閑に付きっ切りで淳二郎には伝達できていない事が多い。ボロが出る前にね」
藩主が肥後を離れる。轟、淳二郎等も叉、居なくなる。藩全体の勢いが小さくなるが、其が吉となるか、凶と出るか。
「―――只、俺も古閑も其程気の長い方ではなさそうだ。慶順が帰藩って来る前に決着をつけるよ」
久坂が武市の死を予感したその瞬間から土佐藩のカウントダウンが始ったのと同じ様に、肥後藩もこの刻よりカウントダウンが開始される。
凡ては藩主・細川 韶邦不在時の事、その間の骨肉相食む争いは、4年前―――彦斎が最も人を斬った時期を、超えた。
「・・・・・・“刻”が、来たり」
「永鳥 三平しゃんばい」
佐々が永鳥を緒方に紹介する。緒方は眼を大きくして永鳥を見た。誰!?という疑問が表情に出ている。
永鳥は微かに眼を細めた。
「永鳥しゃんも勤皇党の党員で、之迄藩の外で活動しとらした方よ。俺が居らん間、永鳥しゃんがあたの面倒ば見てくれなはる」
「宜しく。緒方」
永鳥はにっこり微笑んで言った。緒方も物怖じする事無く
「宜しくお願いします!」
と、人懐こい笑顔をすぐに浮べた。
「俺だけじゃなくて轟先生も肥後ば離れなはる。だけん、剣は暫く休みたいね。家は開けておくけん、今迄と同じ様に泊ってはいよ」
「はい」
之からは城下の佐々の家に永鳥が代りに住む事になる。佐々の家は最早合宿処と化していた。
―――確証は得ている。後は、緒方こと古閑 富次が尻尾を出すのを待つだけ。
すべては文久3年の京に向かって進んでゆく。江戸にて土佐人と大揉めに揉めた玄瑞にも京へ戻る日が訪れる。
「久坂さん」
山口が笠を取ってひょっこり顔を覗かせる。
「すみません、待たせちゃいました?」
久坂は顔を上げた。左手には湯呑を持っている。彼等は大津の茶屋にて待ち合わせをしていた。髭茶屋という面白い名の店である。
「そんなに。てかよく間に合ったな。遠回りして来たんだろ?大坂なんて」
「まぁ間に合う為に久坂さんよりは急いだので」
共に江戸を発つ約束をしていたものの、大坂に用が出来たとの事で、山口だけ先に西へ向かったのだ。大坂に親戚が居ると聞いた事があるが。
「江戸でもどっか行ってたよな?実家か?」
久坂が鋭い切り口でざっくりと訊く。山口は苦しげな顔をして
「まーそんなトコです」
と曖昧に答えるも、・・・この人になら、もう知られてもいいか、と思い直した。
「やっと婚約解消できました」
「は?」
久坂は驚きの混じった声を上げる。久坂からすれば山口に婚約相手がいた事をまず知らなかった。
・・・・・・山口も形こそ違えど稔麿と似た様な家族の問題を抱えていたのか、と思うと同時に
・・・・・・
「じゃあ、佐倉を娶る気か」
・・・・・・佐倉への想いは消えなかったか、と思う。この様子では、逆に強めて仕舞ったかも知れない。
“コイ”というものは恐ろしいものだ。人を冷静でいられなくする。その感情は、天誅の世界では致命的な欠陥となり得る。
天誅で人が斬れるのは、妄信とも取れる抽象的思想観念があるからで、対象を具体化して仕舞うと斬る限界を設定する事になる。具体的である故に注意が割かれる。自然と攻めから守りに転ずる。
人を想っていては、人は斬れぬ
併し久坂に出来る事はもう無い。佐倉を引き離してこそ想いが強まるというのなら、佐倉を山口の近くに置いて安心させるしか無いだろう。
「・・・・・・できると思います?」
佐倉を女に戻すという事だ。即ち、裏役を引退させる。夫婦となれば久坂の懸念事項も消え、佐倉を危険から遠ざけられる。
だが久坂にはその発想さえ無かった。だって。
「できねぇな。アイツは自立心が強い」
久坂ははっと笑って言った。
「ですよねー」
山口も困った顔をして言う。
「そもそも、何で縁談を断わったんだ?佐倉は別に妾でもいいじゃねぇか」
久坂は、訊いた。すると
「江戸に帰る気ないのに江戸に妻置いてどうすんですか」
と、返ってくる。山口も志士をやめるとか、天誅をやめるといった意思は無い様だ。
「佐倉も多分悪い気はしないでくれるとは思うんですが」
「何だ、気づいてはいたのか」
「あんなに懐かれれば気づきますよ」
山口は惚気とも呆れとも取れる声で言った。―――佐倉は山口を好いている。佐倉から直接聞いた久坂は勿論其を知っている。
「さっさと夫婦なり愛人なりなれよ。話早ぇんだろうよ」
「はーまーそうですね」
気休めにもならぬ助言だ、と久坂は我乍ら思った。想い合って結ばれる、その感覚が久坂にはわからない。愛というのは結ばれてから育まれるものではないのか。その感覚がわからぬ以上、久坂が何を言ったところで適切な方法には程遠かろう。
愛とは、理屈では導き出せない場処に在る
・・・・・・只、この時世だ
「佐倉は、いい意味でも悪い意味でもお子様だからな。さっさと動け」
―――そう、さっさと。意識したのなら早く行動に起さねば、この時代では何も為せない。未練ばかりが残る事となる。
「だからこそ、大切にしてやりたいんですけどね」
―――――
『佐倉』
・・・山口は愛おしげに言った。
「・・・・・・」
久坂は内心、少し苛立っていた。胸がざわついていた、という方が精確か。心に波風が立っている。
―――なんでお前は、あの時の武市さんと同じ眼をしてんだよ
「なら、早く戻ろうぜ。さっさと茶飲め。お前の分も払っておくからよ」
「えっ。ちょっと待ってください」
久坂は愛想の無い声で言って立ち上がり、さっさと会計を済ませて仕舞う。山口は急いで茶を飲み干し、速歩で髭茶屋を抜ける久坂に慌ててついて行った。
其は予感である。全ての歯車が噛み合い始める。土佐も、肥後も、更に例外無く長州も。寧ろ、長州の運命が最も大きく旋回する。
玄瑞はその中心に居た。玄瑞も、玄瑞の周囲つまり稔麿や山口もその歯車の螺旋の一つだ。逃れられない。
進む。嘗て、水戸と薩摩が過ぎ去った場処へ。
全ては京に根を下ろす―――




