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六十. 1862年、江戸~くせのある諸侯たち~

土佐藩の問題が浮上したのは、英国公使館焼き討ち事件をした後の事だ。この焼き討ちは成功し、犯人が特定される前に高杉等は逃げる様に京へと戻って往った。当時、焼き討ちの犯人は判明しなかったが、明治30年代に世に出た伊藤 博文と井上 馨の回顧録で暴露されている。ケネディ大統領暗殺の真犯人が事件後50年経ってから暴露されるのと同じ様な感じか。


「―――は?」


久坂に召喚が掛ったのはこの頃である。(しか)も話は(こじ)れに拗れていた。何でも、前藩主・山内 容堂が周布 政之助を斬れと騒ぐ程にまでなっているらしい。


土佐藩第15代藩主・山内 容堂。安政の大獄に連座してからは藩主の座を退き、養子である豊範を藩主に据えるも後見役として実権を握り続ける。凡そ長州藩主家とは、性格を異にする存在―――




『な――――・・・・・・』

―――久坂は絶句した。毛利 定広、周布 政之助もである。こんな博徒の様な男が、土佐藩を支配しているのかと想うと恐ろしくなる。




『頼む。玄瑞のその頭脳を貸してくれ』

藩主世子・毛利 定広が自ら玄瑞の居る赤坂の長州藩邸に訪ねて来た。玄瑞は愕きながらも引き受けるも、容堂の暴君ぶりは玄瑞の“頭脳(りくつ)”を遙かに超えていた。



「周布の失言を聞いた藩士を処分為さると―――?」



之には長州側が参った。自藩の藩士を人質にするとは如何いった料簡なのか。山内家はつくづく藩士に対する愛が無い。

「如何か其だけはやめて戴けませんか。長州藩(わたし)が周布を処分致しますので―――・・・」

定広が憔悴した顔で容堂に懇願する。周布も顔面を蒼白にして頭を垂れた。自分ではなく、自分の暴言を聞いていただけの土佐藩士に矛先が向かうとは、この男も思わなかったであろう。


経緯は()うである。

久坂等の外国公使襲撃計画が武市を通じて容堂の耳に入った時、定広に其を伝えると共に、呼応した土佐浪士の引き渡しを要求してきた。ここ迄身も蓋も無く要求が出来るのは、容堂の養子・豊範の妻が定広の義姉妹だからだ。由って、容堂は長州藩士の尊皇攘夷運動の中身を割と深くまで知っている。

―――そして、其を軽蔑している。

「いかんいかん」

容堂は却下する。非常に無礼な態度で。

長州藩(おまん)が隠しておる土佐郷士を引き渡すなら考えて遣らんでもない」

「ですから―――」

その様な者はいない、と定広は訴えた。浪士を渡して仕舞えば死ぬ人間が入れ替るだけの話である。其だけではない。この土佐藩主は長州藩が尊攘志士の巣窟であると幕府に密告し、幕府に拠って長州藩は潰されるだろう。

久坂が列座する前から彼等は何度もその遣り取りをしており、周布 政之助がその交渉をしてきた。併しこの周布、欠点がある。


酒乱である事と



『―――本当に容堂公は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」ですな』



―――周布、この容堂の事が嫌いなのである。ただ藩主・敬親も嫌っていた様で、その点では長州藩と土佐藩の関係は冷え切っていたと謂えよう。

『容堂公も余計な事を為されたものよ。攘夷攘夷と言いおきながら、退治するは関ヶ原での長宗我部侍ばかり。よほど復讐が恐いと見ゆる』

この主人に対する侮辱を聞きながら、土佐藩士達は周布を斬ろうとしなかった。武市の息が掛って勤皇に傾いた役人達は、長州藩との関係を壊さぬべく、穏便に済ませる方法を模索したのだ。

『おまんらの主人は誰じゃ』

容堂の怒りの矛先は自藩の部下に向かった。容堂は彼等に切腹を言い渡した。




此処には、他藩応接方・武市 瑞山も同席し、容堂の側に控えている。

久坂と武市は視線を合わせ、如何しようと互いに顔を強張らせた。ここまで事が大きくなるとは思わなかった。


「別に儂は、周布(おまん)暴言(ことば)に怒っておるのではない。我が藩士達の至らなさが情けないだけじゃ。土佐には武士の作法があるきのう」


容堂は、長州人達が何故この鍛冶橋土佐藩邸に居るのか解らないという顔をしてみせた。

―――容堂は本気で自分の藩士達を、切腹させる心算でいる。さすれば、武市への見せしめとなる。周布はいい材料を用意してくれた。


「御老公」

・・・久坂が口を開いた。この老公は武市を憎みすぎている。凡てを武市と結びつける程にだ。



「・・・では、私がその長宗我部侍(武士)達の為に詩を吟じまする」



久坂はそう言うと、“御癸丑以来”月性の勤皇の詩を吟じ始めた。本作では余り触れていないが、詩吟は久坂の最も得意とするもので史実の通りに美声である。であるが故に、容堂は久坂に対する不快感を露わにした。


長宗我部侍は泣く想いだった。こんな佳き(うた)を以て(おく)られる。―――武士として、日本男児として極上の死。


・・・・・・久坂が吟じ終え、空気が汐を引く様に、徐々に現実へと引き流されてゆく。定広公が

「・・・矢張り、周布を我が手で手討に致します」

と、余韻を未だ噛みしめる様に、涙ぐんだ様相で言った。

「尊藩の家臣は士分を全うされました。周布が生きていては、余りにも割に合いません」

周布の死は常に長州藩の切札としてきた。この男は1864年、禁門の変と第一次長州征伐の業を背負って本当に死ぬが、この男が死ねば方々(ほうぼう)に大きな影響を与える。他藩にも知れ亘り、この男が捧げた命の相手の命も叉、大きくなる。英雄になる。尊皇攘夷の先鋒である長州藩士の命と詩を贈られた誉れ高き志士の鑑として、長宗我部侍達の心の中で永遠に輝き続けるのだ。

攘夷の炎は急激に青く燃え上がるであろう。

「・・・・・・長宗我部侍(武士)達の為に、長州藩より酒も用意しましょう」

久坂は冷静に言った。定広公の方が余程の演技派だ。久坂は敢て計算通りであるという心裡(しんり)を隠さなかった。



「もう、よいわ」



容堂が湯呑を投げつけた。斯ういう人間なのである。発狂した時の聞多より遙かにましだと想えたのは聞多に感謝すべきか。


「おまん、久坂 玄瑞といったな」


きた、と久坂は思った。

この老公からは、武市に対する怨みつらみが常時滲み出ている。老公にとっての敵は、異人よりも藩士(長宗我部侍)である様だ。

長宗我部侍が英雄として刻まれる事は、山内家の自尊心(プライド)が許さぬに違い無い。

自分と武市が同志である事も、この老公の事だから知っていよう。

容堂は玄瑞を言葉の限りに罵倒した。武市いじめの為の材料が、自藩の藩士から玄瑞に移ったのである。玄瑞も其を注意して汲んだ。結局のところ、この老公は武市の苦しむ様を見られればよい。武市を失脚させたいのだ。その代償が土佐人達の命とは、重い。


「穀潰し」


と、容堂は言い放った。玄瑞は身体をぴくりと震わせる。先程と変って感情を露わにした。武市の顔が曇る。

「紙を持ってきい」

容堂は家臣に言い、紙にくるくると瓢箪を描いた。下が上、上が下の逆さ瓢箪であった。其を玄瑞に向かって投げると

「長州は之だ」

と、嘲った。


「藩に食わせて貰っておる身で、家老・藩主を顎で使って、忠誠心の欠片も無い。下剋上も甚だしいの。其処な藩主家も、乳臭児達の疳の虫を抑える事も出来ずただただおろおろ宥めるばかり。下級の者が藩政を牛耳っておる。じゃきぃ逆さ瓢箪よ」


「・・・・・・!」


之には流石に玄瑞も内心本気で腹が立った。今回の問題に油を注いだ周布も更に油を注がん怒りぶりである。

周布。最も侮辱を受けた次代藩主・定広が止めに入る。・・・・・・この構図を見れば、確かに老公の言う通りかも知れない。

だが、老公が侮辱されても土佐藩士達は怒らなかった。長州藩との関係維持の方を優先したではないか。

―――この老公は、人望の無さに怯えながらも、人望を軽視し、今や其が取り返しのつかぬところまで人心が離れている事に気づいていない。


「よいか、下士よ」


容堂は更に言った。



「天下の事は、上に立つ者に任せておればよい。尊皇攘夷を説いていいのは、限られた人間だけじゃ。三百諸侯ある中でも、水戸徳川の一橋 慶喜と越前福井藩主・松平 春嶽、そしてこの土佐24万石の儂くらいか。その者以外に尊皇攘夷は語らせぬ。おまんら下士どもは時勢が頭上を過ぎるのを黙って眺めておればいいき」



容堂は事ある毎に「土佐24万石」を強調したらしい。之を、鷹揚であった事で有名な長州藩主・毛利 敬親は珍しく嘲笑したと云う。37万石の長州藩主としては確かに笑える話であったろう。その実、毛利は徳川に備えて97万石に肥しており、その数字は薩摩藩をも超えている。


――――・・・・・・。玄瑞は一大名が放った台詞を半ば唖然として聞いていた。四賢侯と呼ばれる程の人物だが、其にしては余りに愚かすぎる。到底、殿さまの器ではない。


後日、御詫びとして酒一樽を長州藩邸から土佐藩邸に贈ったが、其に対して返って来た礼状が叉、愕くべきものであった。

「な――――・・・・・・」

『大べら棒』。・・・・・・殴り書きで、其だけが記されていた。物凄い罵倒語だ。

(大名とは思えん。・・・・・・まるでやくざじゃねぇか)




四賢侯―――・・・幕末当時よりこの言葉は使われていた様で、薩摩藩主・土佐藩主・宇和島藩主(愛媛県宇和島市)・越前藩主の開いた会議は四侯会議(四賢侯会議)と呼ばれた。容堂はこの「四賢侯」と呼ばれる事に対して可也の自負心を持っていた様だが、彼が認める越前藩主の松平 春嶽は、「容堂に賢侯の器があったと自分は思わない」と辛く述べている。

正確には「本当の意味で賢侯なのは島津 斉彬公お一人で、他は誰も及ばない」である。久光ではない。久光の兄である斉彬だ。




「島津 忠徳・・・・・・所詮は久光の傀儡・・・・・・久光も叉、斉彬の傀儡か・・・・・・」


斉彬の存在は確かに大きかった。斉彬の後釜は齢22の忠徳では務められぬ。では、久光は務められるか?

薩摩島津家も土佐山内家同様、藩主はお飾りで後見人が藩政を牛耳っている。

久光は自然、兄・斉彬の背を追わぬ訳にはいかない。そうせねば誰もついて来ず、情報でどれだけ誤魔化しても決壊する日が(いず)れ来る。久光自身も其を解っている様で、斉彬の行動と照し合わせれば、自然と久光の動きは浮き上がってくる。


後は・・・欲。



「そして―――・・・日本(ひのもと)を傀儡とするか」



関ヶ原より―――否、関ヶ原以前より続く島津の野望。豊臣 秀吉が平定する前、九州全土が島津の支配下だった事がある。

薩摩藩、長州藩、土佐藩、仙台藩、加賀藩の藩主も次代の将軍の候補となれるよう久光は幕府に迫った。文久の改革が物語っている。

「薩摩藩にも別の使者が、同時上京をお願いする文を運んでおります」

「フン」

呼気で断じる。越前福井藩主松平 春嶽が家臣―――・・・如何様な用で参ったかと思えば。

我が受ける深き信用に便乗せんとするか。

「いつもの“牽制”しか我はせぬ」

くだらぬ権力争いよ―――・・・冷めた瞳で大名の動きを視る。さればとて、左様な争いとは別に、我は我が子達を取り戻さねばならぬ。




「済まなかった、久坂さん」

大べら棒事件と一連の詫びを籠めて、武市が長州藩邸に菓子折を持って来た。種を蒔いたのは廻り廻って自分なので、久坂は貰っていいものなのか困りながらも

「まぁ、上がってくれ」

苦笑しつつ迎える。実はその前に「御詫びの酒でも」と誘われたのだが、酒の席での失敗も同然なので流石にばつが悪くなり断わった。

・・・・・・本の少しだけ、気まずい空気が流れる。

「・・・・・・其にしても、土佐の藩主(とのさま)も凄いな」

久坂は彦斎の時とは異なる響きを持たせて言った。別の意味での感心である。・・・・・・武市は眼元を黒く縁どるまつげをやや伏せ

「・・・・・・あの方は頭が良すぎるのだ」

と、呟いた。なるほど藩士としてはそう言うしか無い。とんでもない奴である事は武市自身が一番よく解っている。

「・・・・・・怖いな」

久坂の口から無意識に零れる。島津 久光の時と同じ戦慄だ。何をするかわからない。久坂は武市の死を予感した。


「なぁ、やっぱり脱藩しないか」


久坂は武市に提案する。寧ろ懇願に近かった。長州藩が勤皇となった今、土佐藩の勤皇を無理して保つ必要は無い。あの藩主家を目の当りにして、土佐藩に尽す謂れも無いと思った。

「今回死人が出なかったのは運が良かっただけだ。御老公はまだ参政の死を引き摺っている・・・感情的になっているからあんたを苦しめるに留まっているが、之からは失脚させる為に様々な策を講じてくるぞ。あの感じだと、どんな手に出るかわからん」

恐らく究極的な目標は、武市を地上から消す事であろう。その為には・・・濡れ衣を着せ難癖をつける事も、厭わない。

「・・・・・・大名(あのかた)も人間だという事だ」

・・・・・・武市は哀しげに微笑んだ。吉田 東洋を暗殺した事を後悔しているのか?こんな主君でも、この男は藩に背いた事を咎めているのだろうか。

「・・・・・・」

久坂には解らない。その悲痛な心が。武市が死ぬ迄にはまだ時間がある。だが武市の人生が転落する迄―――・・・あと半年も無い。

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