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六. 1858年、江戸~向島の料亭にて~

久坂は築地と麹町にて、高杉は向島 (墨田区)と湯島にて各々の道を大いに学び、江戸での生活を満喫していた。特に高杉は派手好きな性格でもあり向島には花街が多く存在したから、向島の思誠塾から湯島の昌平黌へ学ぶ場処が変っても、塾の帰りに(おんな)遊びを興じるなど実に華やかな私生活であった。硬派というか潔癖な桂は若い彼が遊廓に浸かるのにいい感情を持たなかったが、藩の金を使っている訳ではなく自腹(さすが実家がお金持ちのお坊ちゃん)である為、「余り」口出ししなかった(金額がはみ出して桂が立て替えた事が数度ある)。若いといっても大人だし。

久坂も高杉に誘われて、行った事がある。そして、ハマった。久坂は元々剣士ではないし、剣に対する拘りも別に無い。寧ろ、智略だ。高杉とて、剣は好きだが暴れ馬と言われるだけあって剣の形など我流に等しい。形など破る為に在る。詰るところ、久坂はものの見方が柔軟であり、高杉は真直ぐな男ではあるが一般的に認識される純真さの真直ぐとは意味が違う。

「花街の妓は色々喋ってくれる」

と、高杉が獣の様に鋭い眼で久坂に語った時、久坂はすぐに行く事を決めた。

久坂にはこの時点で既に妻が萩に居り、高杉も帰郷次第祝言(しゅうげん)を挙げる恋人を待たせての江戸生活であった。各々心は郷里の女にある。特に珍しい事は無い。女を利用する事は。・・・・・・女も半分、その心構えでいる。

「・・・・・・」

・・・・・・高杉が優しい手つきで女の重たげな頭を支える。女を相手にした時だけは、この男の奇人ぶりは影を潜めた。とろんと目尻の下がり気味の瞳は、果て無く甘く、優しく、そして何故か済まなそうであった。高杉本人にそんな意識は無い。女が受けた印象である。久坂も優しい。が、久坂には良心の呵責が無い。女を利用する気など久坂には元より無い。

「・・・ほーう。隣の部屋の物音は存外漏れ難いものなんだな」

帰る時刻になって、久坂は隣の部屋から女と共に出て来る高杉に声を掛けた。・・・高杉に、翳がある。男の眼から見ると別人の様だ。だが、久坂は気にするそぶり無く、こんこんと己の居た部屋の壁を叩く。隣の部屋の壁には響かない。

「この待合は議論の場としてもよく使われますからね。熱中すると、つい皆さん声が大きゅうなられるものですから」

久坂と共に過した妓がくすくす笑いながら言う。久坂は、其はいい事を聞いた!とからりと言った。

妓達は、高杉の如何にも女に弱い翳のある優しさと久坂の人間的に真っ当な優しさに夢中になり、長州から来た二人の男は忽ち話題になった。

「いらっしゃいまし。高杉さま、久坂さま」

女中達が歓迎する。もうすっかり馴染みの客である。

「今日は議論をしに来た。人が増える予定だから少し大きめの部屋と、(きみ)達は席を外して貰えないか」

「解りました」

久坂がさくさくと進めていく。高杉は何だ彼だで妓を囲っておきたいタイプである。顔の気合いが半減しているが、

「・・・まぁ、長州藩(こっち)の話だかんな」

と、神妙な面持ちで言った。

「―――にしても、何で長州藩士(オレたち)以外の人間を呼ぶんだ?」

・・・奥に招かれ廊下を進みながら、高杉は久坂に耳打をする。長州藩の話なれば長州藩邸でしたが安心なのだが、長州藩の者以外は当然ながら長州藩邸には入れない。

「―――長州藩士(オレたち)だけでは、あの人は止められないかも知れないからだ」

久坂はそう返す。ぶっ飛んではいるが頭の回路と別の次元で生きている人間である高杉には、常に先を先を読む久坂の頭の回転にはついていけない。・・・併し、久坂の表情も今回は硬い侭だった。


「久坂さま、高杉さま、お客さまがいらっしゃいました」

すっ。と扉が開いて、女中が久坂等に四つ指を床に着けて礼をする。続いて、女中と前後を換わり二人の男が顔を出した。

「―――やぁ。京以来だな、久坂君」

「来て戴けて嬉しいです!宮部先生!」

久坂は安堵と興奮入り混じらせて立ち上がる。二人の男の内一方は宮部。もう一方は、宮部より5つ程度年下の九州男児らしからぬ柔かさと儚さを纏う如何にも人当りの良さそうな男であった。

高杉は誰だか判らぬ者の来客にぽかんとしている。

「―――君が高杉 晋作君だね?」

宮部が思わず頬を綻ばせて言った。―――なるほど、松陰が久坂より先に見つけた奇士である。久坂の何倍も尋常でないものを持ち、而も松陰や久坂がお仕着せ繕っても所々で包み切れていない部分がある。乱世にこそ活きる獅子であると、宮部は一瞬で看抜(みぬ)いた。

「・・・はぁ。その通りですが」

高杉は坐した侭、特に飾る事も無く自然体で返す。久坂は呆れて、立てと合図を送るも、高杉が理解する前に宮部が気にしなくていいと手を振った。

「私は肥後の宮部 鼎蔵。君等の師である吉田 寅次郎松陰とは長く友人をさせて貰っている。久坂君とは、彼が3年前に九州遊学に来た時に知り合ったのだ」

そして。ちょい、と宮部が一緒に来た男を手招きする。面白い事に、皆が高杉の目線に位置を合わせている。久坂も仕方無しに坐った。

「彼は、私の弟弟子で同志の永鳥 三平君。寅次郎とも友人で、以前密航騒ぎがあった時には私と一緒に立ち会った」

・・・・・・久坂と高杉は思わず項垂れる。松陰先生はそんな事まで遣らかしていたのか。

而も、永鳥 三平に至っては密航前には資金援助し、密航に失敗して投獄された後もフォローを入れている。

・・・確かに、松陰の暴走を止めるには彼等熊本人の力を借りるべきかも知れない。

「・・・其で、寅次郎は今度は何を言ってきた?」

熊本人は早くも本題に入る。流石に火鉢を背にして話を進めていくのは余りに滑稽だ。久坂が促し、宮部と永鳥は高杉の正面に(すわ)った。

「松陰先生の事に関しては一寸待ってください。之は私達松下村塾生だけの問題ではなく、長州全体に影響する問題で、私や高杉がべらべらとお話しする訳にはいきません。藩の要人がもうすぐ来る筈なので、少し待って頂けたらと」

宮部はじ、と黒眼の部分を大きくして久坂を見る。? 久坂が不可思議な眼をして見返すと、宮部は不敵な笑みを浮べた。

「君もだいぶ、志士の貌になってきたな」

・・・・・・きゅん。久坂は柄にもなく照れる。このカッコイイ師の下で学べる熊本人達が至極羨ましい。いや、松陰先生の下で学べるだけでも幸せの骨頂なのだが。そいや、初めて会った熊本人である彦斎(げんさい)息災(げんき)にしているだろうか。

「女中に頼んでしのだ巻きを作って貰ったので、其でも食べながら藩の者が来るのを待ちましょう」

久坂がそう勧めたのと粗同じ刻に、女中が襖を静かに開けて料理を運んで来た。油揚げに具の包まれたしのだ巻きを目にした宮部は

「いいのかね!?」

目をきらきらさせて狐というよりおあずけ食らった犬の様に久坂と高杉を窺う。宮部だけでなく永鳥も

「ばっ!南関あげなんち久々たいね宮部しゃん!」

と、肥後訛りを丸出しに興奮する。物静かな見かけに反してどうもノリはいいらしい。

油揚げに魅せられる熊本勢を横眼に、高杉は

「・・・なぁ、南のヤツらって油揚げが好きなの?」

と、冷静というか半分呆れた声で久坂に耳打する。久坂はにやにやしながら熊本勢の油揚げへの食いつきを飼主の如く視線で眺め

「熊本で会った別のヤツも好きだったからそうなんじゃね」

と、返した。違います。

「久坂さま、高杉さま、お客さまで御座います」

女中が再び遣って来て、新たに別の客を部屋に入れた。女中が引っ込むなり、敷居を跨ぐより前に

「高杉君。花街(ここ)に私を呼ぶとは一体何を考えているんだ?」

と、客の神経質な声が部屋に入って来る。笠を外したその貌は、凛として秀麗な長州の巨魁。桂 小五郎であった。

「桂さん」

久坂が声を掛ける。しのだ巻きを食していた宮部と永鳥がちらりと桂を見る。桂も宮部と永鳥を見た。

「・・・・・・」

彼等を長い沈黙が包む。先に沈黙を破ったのはしのだ巻きをもふもふしていた熊本勢で、頬をもふもふさせながら宮部が言った。

「彼が長州の要人だろうか」

「ああ、この方ですか。確か・・・『桂 小五郎』さん。長州藩邸檜屋敷の番手をしておられる方、でしたね。確か」

永鳥ももふもふさせながら言う。先程と違って流暢な標準語で話している。併し宮部にも言える事だが、熊本人に標準語を喋らせるとイントネーションが少なく、アクセントも無いので一本調子で無愛想な響きになり易い。

「・・・如何にもです。が、之は如何いう事だ、高杉君」

桂が警戒を解かず高杉に尋ねる。熊本勢を呼び出したのは高杉ではなく久坂なのであるが、桂は完全に高杉の方を疑っている。

「え、何で俺なんすか桂さん。俺だってこの人達と先刻顔合わせしたんですけど」

「日頃の行ないだろー」

久坂がにやにやして茶化す。桂は呆れた顔をして、久坂君まで・・・と額を手で押えた。

「桂さんに会わせたかった人とはこの人達の事です。肥後国熊本藩の宮部 鼎蔵先生と永鳥 三平さん。宮部先生には、私が九州遊学した時にお世話になりました」

「―――肥後国熊本?」

桂は警戒を露にした。藩の中核に携る桂は、諸藩の内情にも精しい。立場のはっきりしない藩の者だと判ると、熊本人に対する態度を硬化させた。

「まあまあ」

宮部が桂の内心を覚って割って入ってきた。

「国を想う志の前には、藩など些細な問題でしょう。少なくとも長州藩(あなたがた)の様な一つの大きな藩として出来上がっていない熊本藩(わたくしども)にとってはそうです」

出来上がっていない、というのは宮部の主観である。宮部には肥後国熊本藩に対する壮大な野望が実はあるのだが、ここで触れるのは時期尚早と謂うべきであろう。

「如何にも、私は肥後国熊本の宮部 鼎蔵ですが、その前にあなたがたの師・吉田 寅次郎松陰の友人なのです。寅次郎が如何やらまた妙な事を言い出した予感がして、久坂君に訊く為に此度此処へ」

・・・桂はじとっと流し眼で久坂と高杉を見る。本当は逆なのだろうが、宮部が巧妙に庇うので桂も追及し難い。内心溜息を吐く。

「・・・宮部さん・・・ではあなたが、吉田先生が脱藩した際共に東北に行く約束をしていた?」

「如何にも。まさか、高が旅行に行く為に脱藩していたとはあの頃俄かには信じ難かったが、あの件以降の数々の密航、暗殺計画・・・・私も其方の永鳥君も寅次郎には散々振り回されて慣れているので、何か力になれる事はないかと思い」

うわぁ・・・桂含め、長州勢に津波の如く申し訳無さが押し寄せる。宮部としても、只一緒に旅行に行くだけで脱藩までされて仕舞ったら、約束した相手として妙な罪悪感の残る思いだ。

脱藩も暗殺計画も密航も松陰からしてみれば通常運営。この場に居る粗全員が頭を抱えるが、高杉 晋作に限っては

(・・・・・・)

こののち、脱藩も暗殺計画も密航も企て海外も捲き込んで大暴れする。特に脱藩は常習犯とまで云われる様になるのであった。

「・・・・・・今回も、宮部さんの仰る通りいつもの暗殺計画です。考え直して戴きたいとの返書は檜屋敷(こちら)からしましたが、其に対し我々への絶交の旨を書かれた手紙が送られて来ました」

・・・桂は観念し、松陰より届いた封書を懐から取り出す。宮部と永鳥は互いを見合わせた。しのだ巻きが一つだけ皿に残っている。

「絶交を言い渡されるのも寅次郎に限っては珍しくもない。我々も何度絶交されたか判りません。詰り、寅次郎のする事は昔から何一つ変ってはいない。ばとて、今は世が世。井伊は行動が早く、且つ些細な反乱分子も赦さぬ姿勢でいる。―――長州藩としては、寅次郎の処遇を如何為さっている?」

「萩には野山獄という牢屋敷が在ります。頭を冷して戴く意味で、吉田先生には数度野山獄に居て頂いている。併し、藩としては吉田先生に寛容です。・・・何せ、同室の凶悪犯を更生させる程の腕前をお持ちの方ゆえ。吉田先生を野山獄へお入れするのも、実際に事を起されると藩の酌量が出来なくなる、という理由が大きい」

・・・永鳥が立ち上がり、入口の襖に身を寄せて廊下に聞き耳を立てている。内裏(うちうら)の話になってきたので、外で盗み聞きされていないか確めているのだろう。

「―――今回はその野山獄に寅次郎を収容するのは、逆効果かも知れませんぞ」

野山獄まで過去を遡ると、久坂と高杉はついてさえいけない。桂もその頃はまだもっと若く、事実を知っているのみである。

「牢屋敷は藩庁の管轄、詰りは幕府と繋がりのある施設でしょう。井伊ならば全国の囚人達を皆江戸へ檻送せよと命令を出してもおかしくはない。・・・そうなると、収容している方が寅次郎にとって危険という事になる」

・・・確かに、と久坂は思った。松陰が杉家に幽閉されている今しか彼等は知らなかったが、投獄の理由を考えると容易に結びつく。

併し桂は腑に落ちぬ顔をしている。桂も恐らく疾うに理解はしているのであろう。その先に心配する様な事があるのだ。

「併し・・・吉田先生の動きを止めるには其位しか方法が無いのが実情です。長州には先生を説得できるほど議論に優れた者は在ないし杉家の人達も最早先生を抑え切れない。・・・何より、皆先生にずっと張りついている訳にいかない」

「貴公等の言いたい事はよく解ります。寅次郎を止めるのは並大抵の事ではない。以前に7人掛りで説き伏せようとした時も、結局彼奴の密航計画を止める事は出来なかった」

「如何すれば・・・」

桂が項垂れる。宮部も黙って胡坐に足を組み直し、静寂の刻が流れた。しのだ巻きの表面が乾き始めている。

「・・・・・・」

「おい」

久坂が高杉の横腹を肘で突く。ぽつんと残るしのだ巻きを見つめていた高杉は、・・・何?と久坂の方に顔を向けた。

「・・・お前、ヘンな事考えてないよな?」

久坂がこしょこしょ声で高杉に言う。之で高杉が考えているのなら寧ろ遣り易いのだが。この男に思考のレベルで問い掛けるのは間違いだと解ってはいる。

「・・・あの人達、すごい勢いでしのだ巻き食ってたのに、最後の一つにはどっちも手を出さないよな。不味くなるってのに」

さすが高杉、期待を裏切らない。宮部と永鳥も実はさっきからちらちらしのだ巻きの方に視線を向けており、この深刻な場面に於いて真剣な桂が逆に浮いているという(ねじ)れ現象が発生している。

(・・・そいや、九州遊学で長州みやげを渡した時もそんな感じだったな・・・)

御船の宮部の家に訪問した初日にういろうを贈呈したが、宮部も彦斎も大層喜んでおいしいおいしい言いながらごんごん数を減らしていったのに最後の一つになると途端に二人とも手を止めるのだった。其だけであれば大して気に留めないのだが、一つのういろうを前にして今度はにらめっこを始める。互いの顔色を窺いながら、ういろうとの間を視線をいったりきたりさせていた。結局久坂が宮部に最後の一つを勧めた事でその奇妙な駆け引きは終了したが、熊本には最後の一個には簡単には手を出さない変った慣習がある様だ。

・・・というか。

「お前はどこまでもお前だな」

ここまで思考を巡らせた久坂も久坂だが、高杉のゆがみなさには呆れがっしかない。

ぱくっ

「っ!!」

高杉がしのだ巻きの最後の一つを食べる。宮部と永鳥は跳び上がらんばかりに肩を震わせた。矢張り叉も妙な肥後文化を体現していた様である。真剣に考えている桂は目の前で渦巻く心理戦には全く気づかなかった。

「・・・孰れにしても、之は長州藩の問題です。長州が出来る最大限の事は・・・・・・」

「否、藩で動く事は全体的に不味いでしょう。下手すれば長州の(くに)自体が謀反扱いで潰されてしまう」

気を取り直した様に宮部は言った。―――だから、と言葉を続ける。宮部の鋭くも落ち着いた眼は直後高杉を捉えた。

「寅次郎の許へ駆けつける事はしない方がいい、高杉君」

―――高杉が眼を見開く。桂が驚いた顔をして高杉を見た。久坂が高杉の自分も初めて知った様な反応に呆れ切った顔をする。

(ほらなーでも考えちゃあいねぇ)

高杉は極めて衝動的な男である。久坂が言った“ヘンな事”とはまさにその事を指していたのだが、高杉も別に考えたり企んだりしていた訳ではないのではぐらかされたとも言い難い。

(・・・実は誰よりも心配しているクセによ)

明日にでも多分この男は長州藩邸を出て行くだろう。其ぐらい松陰が心配なのに、自分の感情にはとんと自覚も興味も無い。

そのくせ、恐らく宮部のこの忠告は聞かない心算だ。

だが、流石に宮部も高杉より気性の烈しい暴れ馬と長年友人を遣っているだけあって(こな)れている。

「久坂君も然りだ。寅次郎の弟子という事で彼等を萩に帰らせる事を貴公もお考えかも知れないが、其は得策ではない。逆に幕府を刺激するでしょうし、いざ江戸へ身柄を移された場合は、此方に味方が多くいる方が事が旨く運ぶ」

久坂と桂もどきりとする。二人とも少なからず宮部が言った事を考えていたからである。松陰の計画が露見する前に手を打つにはこうするより他に手が浮ばない。

「し、併し・・・」

桂が困惑する。藩の者を動かすなというのは無茶な話である。長州には稔麿・入江の松下村塾双璧も残して来ているが、彼等をしても抑えられなかったからこそこの様な文が届いたというのに。

「―――私が寅次郎と話をしてみましょう」

宮部が一杯目に口をつけながら言った。―――長州勢は皆、反応に一拍遅れる。三人とも、彼等に対して御節介な程に親切な他所の藩の人間に疑念さえ生じさせる。だが宮部が正真正銘松陰の友人だという事は久坂が知っている。

「宮部先生、其は―――・・・」

「何、近々肥後に戻る予定なのです。長州は帰路の通り道でもあるし―――少し早めに発つだけで大した手間でもない。永鳥君、明日に私は発つ。宜しかろうか」

「はい、宮部さん」

永鳥が入口の襖から離れ、宮部の隣に腰を下ろした。宮部同様、長州勢と向かい合う形となる。

肥後(うち)からはこの永鳥君と松田 重助君が江戸に残っている。何か困った事があれば彼等の事もぜひ頼って戴きたい」

「松田 重助!?」

桂が頓狂な声を上げた。高杉も

「その名前・・・・・・」

と、珍しく精悍な顔つきで宮部を見る。松田 重助の人相書は江戸では相当出回っており、桂や高杉の耳にもその名は入ってきている。

「・・・その者は、貴方の差し金だったのですか・・・・・・」

桂が、呆れた様な感心した様な声で呟く。

「彼には牽制役を担って貰っているのです。永鳥君の動きから目を逸らさせる為と―――・・・肥後勤皇党(われわれ)の範囲を拡大する為に」

・・・・・・ いつもは何一つ含むところの無い宮部の笑みが、何処と無く深長であるのに久坂は違和感を覚える。

桂はその手の貼りつけた笑みを何度か経験しているらしく、慎重な上目遣いで宮部を見つめると

「・・・貴方がたは、何故他所の藩である長州藩(われわれ)に対してそこまで親身に為さる・・・・・・?」

と、尋ねた。・・・永鳥は表情を変えずにじっとその場に坐っている。―――宮部はくすりと声を漏らすと、表情を久坂の見慣れた澄んだ笑顔に戻した。

「―――困っている友の力になりたいと願うのは当然の事。藩などそこには関係ありません。ばとて、大半の肥後者はそうではない。そこには気をつけてください」

・・・・・・。桂がこの時浮べた表情は、久坂にもよく読めないものであった。桂が知って久坂・高杉の知らない藩の事情絡みのものなのであろう。

・・・宮部は目を伏せ、口許を軽く引き結んだ。その後、杯の中の液体を含む為に再び開かれた口から放たれた声は、低く穏かながらも何処か虚しさが感じられた。

「―――・・・一致団結できる貴公等の藩が、若しかしたら羨ましいのかも知れませんな」

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