五十九. 1862年、江戸~御楯武士~
其では、外国公使襲撃の失敗の経過について之から述べよう。
何とか聞多を宥めて長州藩邸に連れ帰り、先に戻っていた稔麿、そして一日大人しくして貰っていた山口、佐倉と合流する。
夜は疾うに更け、肥後人達は誰も影も形も無く消えていた。いつの間にか消え、いつの間にか藩邸に帰って来ていた大楽と、村塾生とずっと一緒に行動していた赤根 武人が廊下で会い、共に部屋へと入ってゆく。
「・・・・・・」
・・・・・・久坂は彼等の姿を視認はしたが、桂に報告する以外に出来る事は無かった。後は桂の裁量に任せるしか無かった。
「―――山口。江戸へ行くぞ」
久坂は唐突に言った。之迄あった経緯や前後の説明無しに。
「・・・え?」
山口は勿論、この様な反応をする。
「そなたと私は肥後へ行く」
「えっ・・・」
稔麿は佐倉に向かって言った。肥後という聞き慣れぬ地名、山口と行先が同じでない事に、この娘は少し心細さを感じた様であった。
江戸には坂本 龍馬や武市 瑞山等の土佐勢が居た。
久坂は既に頭が痛い。高杉の破壊力の強さを知っている心算であったが、之は止められない。というか、聞多の破壊力が最強だった。救いなのは、高杉が他藩嫌いの人見知りである事だ。意外に秘密主義でもあり、自己顕示欲が強い割には成果や計画を他に言い触らす事は少ない。
高杉は、この時だけ土佐勢の前に姿を見せた。其処には坂本と武市が居て、例の如く余所余所しさを見せつけたが、坂本とは龍馬だけに馬が合ったらしい。
二人とも、よく酒が入る。
「のぉのぉ高杉さん」
坂本は杯を片手に高杉の肩を組んだ。酔っていて顔が紅い。が、武市は・・・振りだ、振り。と、いつも見るより穏かな表情で呟いた。矢張り坂本は、武市にとって岡田等とは違う存在である様だ。
「・・・・・・」
・・・土佐人がザルのせいか、彼等と飲むといつも自分は酔っている気がする。
「ちょっと二人でこの席を抜けんがか。おまんに会わせてみたいヤツがおるんき」
高杉もザルの部類に入る。坂本が囁くのを正確に聴き取って
「・・・ん?」
と、他国人に対しては珍しく素直な音調で聞き返した。
「海外に行ったおまんなら、絶対に興味を持つ相手ぜよ」
「ほー」
高杉の反応がいい。高杉は西洋人を「斬る」と言っているが、西洋人の創った学問は認めている。認めざるを得ないといったが正しいかも知れない。坂本にしろ、彼の師の勝 海舟にしろ、その叉師の佐久間 象山にしろ、西洋文明に触れた者は殆どが畏怖戦慄と同程度に強烈な惹起をあてられ、興味を持った。詰り、研究した。日本人に斯うした好奇心や流行への敏感さがあったから欧米列強に取り込まれずに済んだとも云われている。
高杉も、外の“人間”は嫌いだが、“流行”、“最新”、そういうのは大好物だ。
「よし、行こう」
高杉は早速立ち上がった。坂本もにこにこしながら立ち上がり
「ちょっと連れションして来るぜよ!」
と、全然カッコいくない台詞をイケてる感じで宣言して連れ立って出て行った。武市は四角四面の顔を珍しく呆れ返らせる。
嘘と判るのは当然として、龍馬が高杉を連れて何処に行く心算かも武市は大体判っている。龍馬が海外に興味を持ち始めている事も、武市は大体判っていた。
「お互い大変だな」
・・・・・・久坂は酒を飲んでいるのに薬を飲んだ後の様な苦い顔で言う。武市は肯いてから
「・・・疲れている様だ、久坂さん」
と、言った。武市は久坂に対して親身だ。久坂は坂本寄りの人間らしい。高杉に対しても概ね好感、というより好意を持っている。
長州人だからであろう。
併し、高杉は武市を嫌っていた。
「・・・・・・」
高杉も大概人の好き嫌いが激しい。が、山口も武市に余りよい印象を懐けずにいた・・・岡田等に対する処遇を見ればそうか。
―――其ほど信用できる人とは思えないけどな
という辛口の感想を、山口は心の底に隠しているが、久坂は特に気にはならない様だ。
・・・当然か。厚遇されている人間というのは、己の待遇に不満を持つ機会が無い為に、疑問を持たない。
併し其が贔屓の引き倒しとなって、今回の事件を引き起す。
「ん~今度、金澤(金沢八景、現・神奈川県横浜市金沢区)で外国公使を斬る事になってな~」
久坂は頭を痛めながら言った。久坂は、この言葉を失言だとは思わなかった。武市を信頼していたし、ほんの愚痴の心算であった。
“ほんの愚痴”と判断した辺りが、久坂が酔っていた証かも知れない。攘夷に目覚めた高杉という馬車馬の手綱を引くのは久坂でも難しく、疲れ果て、酔い易い状態にはなっていた。
「外国行使を!?」
併し、話した相手は土佐藩他藩応接方・武市 瑞山である。武市は親身になって聴いた。だから久坂もぽろぽろと零した。
而も愚痴なのがいけなかった。久坂は高杉の暴走ぶりを愚痴っていた心算だったのだが、久坂の反対を押し切って計画が推し進められていると取られて仕舞ったのだ。まぁ実際そうなのだが、聞多の件を境に久坂も襲撃には納得していた。故に
「一燈銭申合の関係で、土佐からも参加者を募る予定だが」
と、久坂が悪意無く言った時に―――・・・外国公使襲撃計画は外部に洩れた。
―――武市が山内 容堂に密告した。
武市は土佐藩の役人であった。藩とは少なからず幕府に従うもの。藩役人となって以降、彼は律義に天誅の指揮を執る事をやめた。
其では、彼から仕事を受けていた岡田や田中は、今は何をしているのであろうか?
「よくぞ報せてくれたな武市よ。その心中は察するぞ」
容堂もまた作品を跨り二度目の登場である。でももう約6年ぶりになるので彼のキャラクターを忘れた。かくれんぼ好きでワガママなオッサンだった記憶しか無い。
「・・・は」
武市はこんなオッサン相手でも殊勝に頭を下げる。
「―――して」
ただまぁ皆さん鵜呑みにはされないと思うが、容堂は単なる遊び好きで酒好きなオッサンではない。宮部が聞いて引く程の冷酷な制度を土佐藩に敷き、其を260年間維持してきた山内家の当主。武市等地侍の命など虫けら同然にしか思っていない―――
「おまんがその長州藩士から聞いたという事は、土佐を脱藩した大罪人を長州藩は匿っておるという事きのう」
―――容堂は凡て看抜いていた。武市が東洋暗殺の指示をした事もわかっている。只、証拠が無い為に黙しているだけだ。
「・・・よいな?―――武市―――・・・」
―――よって徹底的に苛め抜く。尻尾を出す迄―――・・・・・・密かに土佐の同志を計画から抜けさせる手筈でいた武市は息を呑んだ。
伏せた顔は紙の様に白くなっている。
「―――武市さんの反応―――・・・見ました?」
赤坂の長州藩邸に戻って来て、山口は久坂に其と無く訊いてみた。久坂は畳の床に腰を下ろし、早くも継紙と筆を取り出している。
「ん?」
と、久坂は気の抜けた声で訊き返した。
・・・山口は溜息を吐いた。
「・・・武市さん。―――驚いてましたよね」
「ああ。そりゃ驚くだろうな」
久坂は笑いながら言った。酔いはもう醒めている様である。
「何書いてるんですか?絵、ではないですよね」
山口は話題を切り替える。久坂、酔いは醒めているが何だか御機嫌で、高揚している様だ。
「ん~、唄」
仕上がった唄を久坂の背後から拾い上げ、読んだ。くすっ、と笑いが零れて仕舞う。
「何ですかコレ」
「景気づけだよ」
久坂は少し照れ笑いして答えた。結構純真な男である。そういえば、天誅の指揮は執っているが、彼自身が攘夷を行うのは初めてだ。
『一つとや、卑しき身なれど武士は、皇御軍の楯じゃな、これ御楯じゃな』
「『御楯武士』ですか」
「ああ」
「面白い名前だ。こんな唄も作るんですねえ」
『二つとや、富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ砕けやせぬ』
「和むだろ」
「ええ。肩の力が抜けます」
『三つとや、御馬の口を取り直し、錦の御旗ひらめかせ、これひらめかせ』
『四つとや、世の善し悪しは兎も角も、誠の道を踏むがよい、踏むがよい』
併し玄瑞の本心が最も滲み出ている様な気がする。どこまでも真直ぐに国の事を考えて、そこに私心や好悪など入る余地が無い。
久坂に一言物申したい事のあった山口だが、もう其は如何でもよくなっていた。
『五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随はん、なにそむくべき』
・・・今更言ってももう遅いというのもある。其に、久坂は、何度裏切られても個人に対する態度を変える事はしないだろう。
『六つとや、無理な事ではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ嫌ふとは』
「・・・久坂さん」
―――山口は言った。
「何だ?」
『七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ打倒せ』
「俺、今回の計画には参加しません」
―――・・・ 久坂は眼を大きくして山口を見た。言葉の内容よりも・・・・・・山口の瞳が、哀しみに揺れている様に見えたからだ。
「・・・・・・山口?」
・・・・・・対照的に、瞳の根底には揺るぎない、決意めいたものが横たわっているのを視た。
「・・・・・・其で、何処へ行く」
久坂は山口が自分から離れていく予感がした。何故なのかは久坂自身にも判らない。天誅に嫌気が差した訳でもない様に見えるが。
「・・・ちょっと。暫くは長州藩邸の出入もしなくなると思います。用事を終えたら叉戻って来る心算ですが・・・少し時間が掛るかも知れません」
『八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なにをとるべき』
「久坂さんが京に戻る前には合流できたらと思うんですけど、其も若しかしたら難しいかも知れないです」
「・・・そんなに大掛りな事をするのか」
久坂は構わず突っ込んで訊く。併し山口は結構頑なな性格で、言いたくない事はどんなに問い質しても言わない。自白など在り得ないというタイプだ。
・・・・・・山口は真直ぐに久坂を見つめるのみ。
「・・・・・・わかった」
久坂は不承ながらも、山口の言葉を受け入れた。
「・・・・・・戻って来るなら、いいさ」
ぷいと久坂は背中を向ける。久坂の士気を下げて仕舞ったかも知れない。だが、この唄を詠むと、ひどく焦れるのだ。
『九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功を立てよかし、これ後れるな』
―――久坂の様に、人の柵に迷う事無く一心に尊皇攘夷に捧げたい。その為に断ち切らねばならぬものが、山口にも在った。
そして―――・・・・・・
「お前の用が終ったら連絡してくれ」
久坂は背を向けた侭、山口に言った。
「今回はお前に合わせて京に戻るさ。江戸でも活動は出来る。・・・其に、今迄お前の事はほったらかしにしていたからな」
・・・・・・。山口は微笑んだ。無論、久坂にその表情は見えないが、諦観した様な雰囲気の気怠さは感じ取っていた。
―――尊皇攘夷運動が最高潮に達しつつあるこの年。・・・見え隠れする各々の思惑とその絡み合い。人々の絆と柵。
『十とや、遠つ神代の國ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士』
長州藩第13代藩主世子・毛利 定広。明治2年、「そうせい候」こと毛利 敬親の後を継ぎ、廃藩置県まで長州“藩”を見届けた最後の藩主である。
松陰の家に幕吏が踏み込んで来た時、稔麿と入江が怒りに震えるのを抑え、自らも耐えた藩士と寄り添う大名。齢も近い。高杉と同い年である。
そうせい候同様、穏かで、決して怒らず、恐ろしく寛大で、人を評価に当て嵌める事をせず、ありのままで見た。敬親と違って齢若い分、藩士に振り回されたり共に奔走したりする事もある、全国の藩主でも飛び抜けてコミカルで身近な存在だ。
これが重要人物となる。各藩の藩主と会う。だから紹介した。
高杉、久坂等松下村塾生が金澤に征こうと下田屋という宿泊所を勇み出た時、その定広公が彼等の前に立っていた。
―――容堂を通じて、定広に計画が通じたのだ。
「間に合った様だ。良かった良かった。命拾いしたな」
・・・・・・高杉は久坂を睨んだ。藩主父子は高杉の弱点である。高杉が武市を本格的に嫌い始めたのはここからになる。
「君達が無事で本当に良かった」
定広公はにこにこしながら藩士の一人一人に酒を注いで回った。藩主の若殿が藩士に酌をするとは何とも恐ろしい話だが、誰も断われない。この、計算にしては身体を張りすぎな危なっかしさを感じるところを、特に高杉が苦手としている。
・・・・・・藩士の勝手を咎められる事無く、逆に無事を祝われるとは。
高杉は気まずく思いながら黙々と酒を飲んでいる。
この様に、長州藩単体では殆ど大した問題にならない。一応の処罰は受けたものの、一同ひっくるめて毛利の別邸にて一週間程度の謹慎、といった刑である。勿論、一同ひっくるめてなので反省どころか結束を更に深め、久坂の作った『御楯武士』から名を借りて『御楯組』を組織し、血盟書に署名した。
「他藩者は絶対入れんぞ」
高杉はたれ気味の目尻をつり上げて久坂に言った。久坂は少しむっとして
「悪かったって言ってるだろ」
・・・返すも、久坂も流石に少し懲りた。如何やら自分は、本当に他人の言葉の真贋を見極める事が不得手らしい。
併し、今更懲りてももう遅い。歯車は回り始めて仕舞っている。




