五十七. 1862年、粟田山~誘爆~
堤 松右衛門が死した時、久坂は京に居らず、藩主世子毛利 定広、周布 政之助とともに土佐藩との問題に苦心していた。その事についてはのちの章で記す。
詰り、大楽 源太郎を弁護する者はこの時誰もいなかった。この時京に戻っていたのは、高杉や伊藤、品川 弥二郎等彼を敵視する者ばかりで、桂が京都留守居役で京に居たものの最早手に負えぬ状態にまでなっていた。
―――堤は腹を切って死んでいた。即ち、自殺である。併し、堤が何故自殺しなければならなかったのかが肥後人にもわからない。
河原町長州藩邸はとんでもない騒ぎとなっていた。騒いでいるのは長州人、その粗全員が松下村塾系の人間である。
「跪け、大楽」
村塾生が大楽の両側を囲み、両腕をがっちりと抱え込んで坐らせる。まるで罪人の如き扱いであった。大楽は遁走した身にしては余りに潔く片膝を着き、久坂と似た平然とした眼で高杉を見上げていた。
高杉も眼はそうであるが、感情の動揺は甚だしく、犬歯を剥いて激怒する。なるほど、確かに肥後人は高杉の弱点であった。ここまで彼が動ずる姿は、二月前に久坂と口論して以来だ。
「きさま・・・」
高杉は眼を眇め、刀を抜いて刃を大楽に宛てた。刃を相手に向けたのも二月前、久坂に対して以来であった。
「何故、のうのうと生きている」
「やめろ、高杉!!早まるな!!」
桂が止めに入る。高杉は鞘を抛り捨て、空いた腕で桂の腕を払い大楽に接近する。大楽に向かうのが切先から刃紋に挿げ替り、大楽の鋭利な瞳が高杉の刀に映り込んだ。
「長州の面汚しめ、自決しろ。堤さんと同じ様に」
肥後人を死なせて仕舞った。而も在ろう事か行動をともにしていた長州人の方は生きている。肥後人に合わせる顔が無い、という空気が村塾生の一人一人から広がっていた。
「死ね、大楽。腹を切らねば俺が斬って遣る」
「何をしている」
―――その長州の若者達の暴走を止めたのは、肥後人であった。
誰の声か一瞬惑う様な、低く冷たい声が彼等の背筋を奔った。熊本に出張していた稔麿とともに、宮部 鼎蔵と河上 彦斎が室内に入って来た。
声は宮部のものだった。
「刀を下ろし給え高杉君。君に大楽さんを斬る資格など無い」
・・・・・・高杉は刀を下ろさなかった。宮部の指示を無視したのではなく、宮部の火傷しそうな程に凍った瞳に僅かながら怯んだのである。だが今回は、肥後人は其を汲んで俟っていてはくれなかった。
ガッ!!
―――高杉の刀が彼の手から離れ、刃紋が畳の床に沈む。拳に衝撃を感じたのは、之より後の事であった。
「――――・・・・・・」
・・・・・・彦斎が剣を己の鯉口に吸い込ませる。目にも留らぬ疾さで、桂も、高杉も、大楽も彦斎の抜き身の刀を視認し後れた。
驚嘆と謂うよりも戦慄を感じ、命を支配されている様な緊張感が空間に充満する。彦斎は歩を進め、宮部と並び大楽の前に立つと
「・・・・・・冷泉 為恭の件か」
と、訊いた。今し方実力行使に出た人間とは思えない程に静かで、“女の様にやさしい”声であった。
「―――違う」
・・・大楽が答えない為、桂が答えた。冷泉の件は高杉達の耳に入れていなかった為、塾生達は騒然となる。
「『一燈銭申合』の事は松右衛門から聞いていた」
宮部は寒気のする虹彩で長州人一人一人を視、寒気のする声で言葉を放つ。『一燈銭申合』とは松下村塾生の他、桂等の藩役人や大楽等の時習館派も参加した正義派の派閥で、他藩の尊攘志士の保護も約定に入れる、というものであった。現在は資金繰りの域を越えて、他藩士もこの派閥に出入できる様になっている。
「久坂君が京に居ない理由を述べ給え」
其は土佐藩と揉めているからである。この件については矢張りのちに引っ張るが、この派閥化した団体は土佐浪士、肥後浪士、水戸浪士や薩摩浪士の生き残りが深く関与する事になった。仕方の無い部分もあるが、彼等は優先的に危所に立ち長州人の盾となって死んだ。
彼等のこの頃の暴走は凄まじいものがあった。外国人襲撃計画、将軍暗殺計画、焼き討ち。天誅の流行した時期であるから、発想としては異常ではないのかも知れない。併し、問題なのは他藩人が前線に立った事であった。大楽が今此処で裁かれようとしているのは、未だ欠陥のあった計画を急ぎ実行に移させ、失敗し、堤を自害に追い遣った廉に由る。高杉に対抗せしめようとし、その為に肥後人の性格を利用したのだ。だが大楽も肥後人がそこまで儚く死ぬとは想像しなかったに違い無い。堤が腹を割いた時、大楽は愕き、介錯も検視もする事無くその場から逃げ出したのだと伝えられている。更にその後、同志の眼を逃れる為に京都市中の宿を転々としており、追手である松下村塾生が捜し当てて長州藩邸に連れ込んだのだと云う。
大楽は、御癸丑以来にしては珍しく己の命を惜しむ人間だった。その割に、他の御癸丑以来と同じ程に激徒でありたがった。
高杉は其がよほど憤懣遣る方無かった様で、大楽に向かって何度も
「死ね」
と、言った。だが、其に腹を立てたのは大楽ではない。
「死ねとは何事だ!!」
びりびりとした振動が襖を、部屋の空気を、激徒達の頭の芯を貫く。
一同は―――否、彦斎と大楽を除いては、頭痛がし、視界がぐらつき、内臓を握り潰された感覚となり、身の毛が弥立った。涙腺の弛んだ者も在る。
「同志に向かってその様な口を利く事は許さぬ!!」
宮部が大喝した。―――・・・ 彦斎は僅かに顎を引いて、呆然とする若者達を静かな眼で見ていた。
・・・・・・この若者達を叱ってくれる者は、もうこの世にいない
堤の死について、肥後人は何も言わなかった。誰も口には出さないものの、彼等の暴走の犠牲が肥後人であった事がまだ救いである。其に、堤は孰れにしても近く死ぬ運命にあった。兄の行なった横井 小楠暗殺未遂の捜査の矛先が彼に向き、熊本藩が実力行使に出たのだ。京での活動に支障が出始め、志を断つ位なら死を、と言っていたのも確かである。
併し其とは別に、死の直接的な原因が長州人同士、而も志を同じくした者同士の首領を巡る争いであったのは大問題である。その上、長州人は一人として死んでいない。
桂、そして宮部等肥後人は、あの日に慰霊祭を抜けて長州藩邸で大楽と何を話していたのか、彦斎に委しく問い詰めていた。宮部の判断で黙して動向を見守る事にしたが、人一人死ぬ結果となっては其の侭にしておく事は出来ない。
「・・・・・・如何する」
・・・・・・桂は宮部に問うた。
「―――如何とは何を」
―――宮部は横を向いた侭返す。鼻筋通り、其が横顔を冷酷に映した。
「・・・・・・大楽さんの処遇を如何して欲しい。亡くなったのは貴方の藩の人だ」
「大楽さんは君達の藩の人だ。肥後人には関係が無い」
・・・・・・。桂は正面を向いた。・・・・・・済まない。桂は小さな声で謝った。高杉は崩れた。大楽の処分など何になったであろう。大楽にすべてを押しつけて、死なせて何になるというのか。其で堤は、還ってくるのか。
大楽は解放された。
「・・・どうも。あんたは相も変らず聖人君子の如き生き方を貫いているな」
大楽は宮部に礼を言う。宮部は大楽と眼が合っても、ぴくりとも表情を変えなかった。
「・・・こんにちは大楽さん。あなたがまさか久坂君の兄貴分だったとは」
宮部はこの時初めて、久坂と松陰を結びつけた事を後悔したかも知れない。御癸丑以来の内一人が久坂と近しい者である事が之ほど厄介であるとも想像しなかったであろう。
「・・・・・・長州人の事に口は出さぬが、肥後人については私が決めよう。申し訳無いが、あなたに肥後の志士は貸せない。肥後の志士がよく死ぬ事を否定はしない。さればとて・・・死なせる為に育てている訳ではない」
死を前提とした攘夷運動を行なっている訳ではないという意味だろう。・・・確かに肥後人は事ある毎に同胞や己の芽を摘んだ。だが、自虐的であった訳でも、況して自殺願望があった訳でもない。死さえも思い通りにゆかぬのが嫌な、究極的にわがままな人種なのだ。宮部のこの言葉が、長州人達の裁決の基準となった。
大楽は長州へ追放処分となった。其から禁門の変の直前まで彼の活動は禁止された。長州人の配慮に依り、肥後人との接触も断たれていたが、禁門の変時、即ち宮部の死後、大楽は謎の行動を取り彦斎と再会する。
『・・・・・・!』
―――久坂が死んだ現場でである。大楽は敵前逃亡の罪に問われ、軽い処分を受けたのち、奇兵隊総督となった高杉の配下に置かれ、行動を見張られる事となる。最終的に引退に追い込まれ、第二次長州征討の時には私塾・敬神堂(別称・西山書屋)を開き松陰の真似事をしていた。
彦斎と大楽は高杉と桂の配慮に依ってこの時も叉接触を断っていたが、高杉が肺結核で死に、桂が明治政府に招聘されると
―――明治政府の討伐隊を背後に連れて、大楽は九州に上陸して来た。
『・・・・・・・・・』
・・・・・・彦斎はこの時、己の死への覚悟を決めた。
彦斎も結局のところは、堤と同じ捨て駒となり果てる。
彦斎は宮部と同じ色の眼で大楽を見下ろした。だが、燃える様な烈しさは無く、只冷めている。
「・・・・・・我が駒はよう働いたろう」
・・・・・・感情の無い声で大楽に訊いた。不思議とこの男には、人を人形にする力がある様である。
神代 直人然り、のちに西山書屋が大繁盛する事も含めてよかろう、この教養ある殺人教唆者は、教育者より宗教の教祖と謂った方がしっくりくる。
宗教といえば肥後勤皇党も宗教集団に近い部分があるが、其でも教育と宗教は分離され、学問だけでなく道場にも通わせ、更に細川家の武士道も重視していた。大楽の教育とは完全なる思想教育で、教科書は日本人が書いた国粋書のみと、尊皇攘夷の為だけに存在しているものであった。我が国に於ける右翼塾の開祖と、そう呼んでもよい。
大楽 源太郎が流石“御癸丑以来”の“時習館派”と謂えるところは、口だけで信者を完成させたところだ。実理に従っていなくとも納得はしていなくとも、何か駆り立てるものがある。常に実践してみせた松陰とは逆であるも、革命を求める者にとって松下村塾並に魅力的な刺激があったと謂えよう。
彦斎は別に魅力を感じている訳ではなかった。・・・只、殺人とは唯々空虚なものである。之ほど人の心を失うものは無い。
宗教も叉然り。之ほど無心なものは無い。“心を無くせ”と教える大楽の声の響きが、神道信者でもある彦斎の心に矢鱈とよく馴染む。
・・・気分的には不快だ。考えられなくなる。
「―――ああ、惜しい事をした」
彦斎は眼を細める。
“ 次 は 我 が 番 か ”
―――彦斎は少し長い瞬きをし、踵を返して大楽から離れた。左目の下のほくろが泣いている様に揺れた。
一方、久坂 玄瑞は江戸に居た。高杉等が肥後人と揉めている頃、久坂は土佐人と揉めていた。
尤も、高杉等も最近まで江戸に居た。いわゆる外国公使襲撃未遂事件を起したのだ。その後、彼等は英国公使館焼き討ち事件を実行し京へ戻った。
併し、玄瑞は京へ戻れなかった。外国公使襲撃未遂事件に土佐藩が浪士が関与したという事で、前土佐藩主・山内 容堂が浪士の引き渡しを要求してきたのである。桂が江戸に居ない為、玄瑞が交渉役として周布 政之助とともに容堂の説得を行なう事となった。
―――何と言い訳しようと、彼等はこの頃暴走が過ぎた。その代償は大きい。




