五十六. 1862年、粟田山~松陰に成り代る男~
・・・浅沓の音を立てて向うから近づいて来る。佐倉は待った。仰々しい語り口だったが、其以上に不思議な親近感が湧く。
「彦斎!!」
長州藩邸に人が雪崩れ込んで来る。やば・・・っ!!佐倉は顔を蒼くするも、もう如何しようも無い。思い切り一気に見られて仕舞った。久坂が桂と共に先頭に居る。
「・・・っ、佐倉・・・・・・」
久坂は思わず舌打したくなった。彦斎を捜して、肥後人達を予定外に藩邸の敷地に入れている。肥後人に佐倉を見られるのは不都合だった。余裕の無さが顔に出ているのか、佐倉は久坂を見て申し訳無さそうな表情をした。
「佐倉君・・・・・・君、まさか大楽さんに会ってはいないよな?」
「え―――?」
桂の問いに、久坂は更に顔色を変えた。騒ぎに呼ばれて山口が外へ出て来た。いつの間にか佐倉が人に囲まれているのに、山口も叉、げっという顔をする。
「!?」
久坂は愕いて山口の来た方向を見た。今こそ離れていつの間にか白装束の集団の中に溶け込んでいるも、久坂の見間違いでなければ―――・・・・・・山口とともに堤 松右衛門が、出て来た。
「・・・いや、多分大丈夫だ、桂さん」
大楽が佐倉を見ていれば、必ず目をつけるだろう。そして、彼女を、否、稔麿ごと丸め込んで利用するに違い無い。
「―――そうだろ、彦斎?」
久坂は些か安心した表情で彦斎に確めた。彦斎は車窓の景色を流し見るかの様に冷めた瞳で久坂を見返したが
「くすっ。知らん」
白い袖を紅い口許に添えて、勝ち誇った笑みを浮べて言った。久坂は珍しく彦斎に怒りを覚える。彦斎は初めて久坂を遣り込めた事にとても機嫌が良さそうだ。声まで上げて笑いながら
「ぬしがそこまで心配するとはのう」
と、いびる様に言った。
「お前・・・」
「おろ」
肥後一行が久坂の後ろからChoo Choo TRAINの如く、ん?時代が違う?んなら千手観音の手や仏像の後光の如くあらゆる角度から覗き込んで来た。空気を読む様で読まない人達か、読まない様で読んでいる人達である。
「おぉ、彦斎」
側には勿論、佐倉が居る。肥後人は絶妙のタイミングで佐倉に会った。この人達はふらりと遣って来ては、核心にいつも迫ってくる。―――宮部はきょとんとした顔で佐倉を見下ろす。
「―――おお!」
宮部が大仰な声を上げた。最も厄介な人間に見られた。この人には何を見透かされているのか判らない。併し。
「彦斎、君の仲間がいるぞ」
「えっ」
「お、本当だ。良かったな彦斎!悩みを共有できそうな奴がいて」
彦斎が死んだ眼をする。肥後人は悉く佐倉を見て彦斎と同類の人間だという判断を下す。女である可能性を微塵も疑わない。彦斎が女顔が故に逆に目眩ましになっているらしい。
一方、こちらも。
(えっ仲間!?)
強くなろうと、男になろうとする女は他にもいるんだ・・・!佐倉は胸が弾んだ。仲間と言われれば佐倉の側から受け取ればそうなる。
(・・・あ、何かヘンな勘違いしてる・・・)
山口は嫌な予感がした。
「・・・あーー、コイツは長州藩が雇った小姓で、佐倉」
・・・もう如何しようも無いので仕方無く紹介する。佐倉は挨拶と自己紹介をするといそいそと彦斎の側に寄った。本当に体格が変らぬ。
「以後お見知りおきを。―――其にしても、かわいいですね・・・・・・。とても人を斬っている様には見えないです」
「!!!」
佐倉が己を顧ず素直すぎる感想を言った。彦斎は大ショックを受ける。あなたこそと返す余裕すら無かった。宮部と松田が吹き出す。
「さすが長州藩が雇った少年!」
ショックの余りに項垂れる彦斎。・・・その姿を、満悦の表情で見る者がいた。久坂である。
彦斎がはっと顔を上げて久坂を睨んだ。久坂は何も言わない。敢て何も。只、当てつける様な笑顔は眼が合ってもやめない。
仕返しされた。
「―――河上さん、少しいいか?」
桂が空気を打ち破って来た。この男はどんな時でも深刻さを崩さない。徹頭徹尾真摯な表情で彦斎に告げると
「肥後の方達は少しいいだろうか。・・・宴に食い込んで申し訳無いのだが」
と、宮部等に言った。
「―――いいですよ。今回我々は宴に参加せずすぐ肥後に帰りますし」
宮部は意外にも気軽に了解した。彦斎もだが、心得ておきたいのは宮部の視点だ。宮部が彦斎の保護者的存在であり、肥後の勤皇志士の元締めであるからである。
「桂さん」
久坂も名乗りを上げた。併し桂は
「久坂は宴の方を仕切ってくれ」
と、久坂に最後まで言わせない。安心させる様に涼やかな目尻にほんのりと柔かな感情をのせて
「高杉が居たら吉田や入江では制御できないだろう?」
と、言った。・・・久坂は素直に肯いて
「・・・わかった。では、肥後さん、また」
入口付近で駄弁る後輩達を引き連れて長州藩邸を出る。高杉や稔麿、青山宮司等数名は直接料亭に向かっている。
「はい、俺達はこっち。全く、油断も隙も無いよなお前は」
山口が佐倉を回収する。結局、休憩と言っておきながらこの日の稽古は再開されなかった。
“御癸丑以来”時習館派の一人・来原 良蔵の死は所謂自爆テロに近かったらしい。
『「此度の戦いで、来原 良蔵が死んだ」』
―――高杉は非常に胸糞が悪いといった顔で、大楽は狂喜に耽溺した表情で全く同じこの台詞を放っていた。長井瓦解後の正義派を二分したのはまさしくこの感覚の違いで、心的外傷を植えつけられたこのゆるい顔に、久坂は複雑な表情をし、玉砕を評価するその貌を彦斎はほんの僅か眉を曇らせて見た。
『其で』
彦斎は湯気の立つ茶の傍で行儀良く両膝に拳を乗せていた。感情を含まない白い面は本当に人形の様だ。
『―――次は我が番か?』
来原が死した後の長井の命の綱は彦斎が握る事となっている。大楽はその報告をする為に彦斎を呼び出したのだと思われた。
『・・・ばってん、長井さんが凡てを失のた事は自明・・・斬る意味あるか?』
元々はそういった事態を避ける為に試行錯誤をした結果の筈。併し、聞いていた話の通り、時習館派は何処かの段階で目的が掏り替っている。
『流石は松陰先生の親友の弟子。よく考える様に出来ている』
―――この男はやけに松陰に対抗しようとする。と、彦斎は思った。松陰の事を彦斎はよく知らない。が、世代の重なり具合をみると大楽 源太郎という男は充分に吉田 松陰に成り代れた。松陰が現れなければ、長州藩尊皇攘夷の先鋒として最も尊敬される機会のあった男である。
実は、松陰に成り代ろうとした者は複数、いた。この大楽 源太郎に、富永 有隣―――・・・彼等は逆に松下村塾生の敵役を演じさせられ、明治後には逆賊の烙印を捺された。積極的に彼等を松陰の敵に貶めたのは、高杉 晋作である。
『あんたがそう言うであろう事は予測の範疇よ。別に長井なぞに今更興味も無い。其に、あんたなら斬ろうと思えばいつでも斬れるんだろう?』
『・・・時期が合えば』
彦斎は謂わばその側杖であった。彦斎も其を自覚していないでもない。大楽が突如として肥後の彦斎の元へ来た時、宮部が松陰の友である事を気にし、彦斎がその宮部の弟子である事を頻りと気にした。更には、久坂が松陰の門下生となった事、その経由が宮部であった事を確認したのち、久坂と自身の関係を強調した。詰るところ、自身と彦斎の間にも義理があると言いたかったのである。
おまけに、松陰に代って村塾の総大将となったのは久坂でなく高杉であり、大楽は彼を激しく嫌って、高杉も大楽を嫌い、敵対関係となった。高杉が言う事を聴く相手は藩主毛利 敬親公・定広公親子と肥後人程度と聞いているので、繋いでおけば高杉よりも優位に立てる。とまぁ、久坂が長州を離れている間に、人間関係の拗れが他藩に累を及ぼしていた。
『・・・其で』
長井の件でなければ何用で来た、と彦斎は訊いた。大楽は何より、彦斎の手腕に目をつけている。操って仕舞えば、高杉を殺す事だって出来るのだから。
―――只、操るのは容易ではない。
『冷泉 為恭を殺さないか』
『れいぜい―――ためちか―――・・・?』
彦斎は目を細めて聞き返した。・・・知らぬ名である。
『何者ね、其は』
『絵師だ』
『何ゆえ絵師を斬らなんと?』
冷泉 為恭は只の絵師ではない。宮廷絵師で、京都御所の小御所の襖絵や金刀比羅宮の天井龍図等を手掛けている。即ち勤皇寄りの人間と認識されているが、其が京都所司代に出入している。詰り、佐幕派に尊攘派の情報を売っている可能性がある。ざっくり説明するとそんな感じの事情だ。
『・・・・・・』
彦斎は幾度か委しく尋ねたが、殺すに値する絵師とは想えない。幕府の出先機関に出入するだけで佐幕の間者となるなら、彦斎は佐幕の間者以外の何者でもなかった。
『勿論、あんた一人に押しつける気はねぇさ。ともに遣ろう。助っ人も用意している』
入れ。・・・彦斎は開かれた襖を見た。自身や大楽より若い―――外見では彦斎と同年齢程度の人物が入って来た。
“御癸丑以来”にしては―――余りに若すぎる
『神代 直人。時習館派の一人で、俺の弟子だ。能々(よくよく)育っているだろう?』
『なるほど、ぬしが御癸丑以来の最年少―――・・・』
能々染まっとらす。大楽しゃん色に・・・・・・彦斎は冷静な眼で見ながらも感心する。玄瑞と似た利口さが雰囲気に滲み出ている。併し、気性は玄瑞よりも遙かに烈しそうで、思考が大楽と非常に似通っていた。
『宮部のところの佐々みたいだろう』
『まぁ、確かに・・・・・・』
『だが、神代は佐々なんかより凄く腕が達つ。不足は無いと思うが』
『・・・・・・』
この神代 直人がどんな育ちを受けたのか、彦斎に於いては語らない。同じ穴の狢だからである。只、大楽 源太郎および神代 直人は之迄出会ったどの殺人者よりも彦斎と近かった。学があり、教養を持ち、自分の意思で人を斬る―――・・・併しながら彼等は、現代の世に至るまで、狂気、異常心理、殺人嗜好者と、ある意味で岡田 以蔵や田中 新兵衛よりも酷い評価を受けている。彦斎自身も時にその様な評価がなされるが、己の意思で人を斬る事、其は好んで人を斬る事と同義であると解釈されるのか―――
『―――僕は斬らぬ』
彦斎はばっさりと断わった。余りにはっきりとした答えに、大楽と神代は驚いた。
『何故だ?』
『斬りたければ単独で斬ればよかろう。ともに遣るのはチャンバラ遊びで充分。ぬしらを止めはせぬが、僕はその絵師を斬る気はせぬ』
『あなたは、気分で人を斬るのですか』
―――彦斎は神代から言われると何故かやきもきし、目をつり上げて、冷ややかな声で言った。
『斬る気になれば宇気比に掛けようが、斬る気がせぬものを無理に斬る気は無い。斬る気がせぬいう事は斬ってはならぬいう事ぞ』
『其も、斬ろうと思えばいつでも斬れる、か?』
大楽はくっく、と笑いながら言った。
『―――そうして先延しにして』
・・・笑い方がどことなく久坂と似ている。
『先に大事なものを奪われても、知らんぜ?』
・・・・・・。彦斎は冷徹な視線で大楽を見る。彦斎は斯ういう回りくどい遣り方は嫌いだ。なのに周囲は何かと機嫌を取り、自身を口車に乗せようとする。斬りたい相手がいるくせに、自分が斬られるのは嫌な様だ。
『あたのその口の回り方・・・玄瑞そっくりたい』
『当然だろう。俺が玄瑞に教えて遣った様なものだからな』
―――松陰がいなければ玄瑞の師は自分であったのかも知れないのだ。玄瑞が高杉の側につくというのなら、対抗手段でこの人斬りと徒党を組んでおきたかった。命の采配を握るのは誰か、明確にしておく必要がある。
『・・・・・・確かに』
彦斎は先程までと変って落ち着いた声で言った。大楽が如何な人間であれ、久坂の大切な兄貴分である事には相違無い。この律義さが肥後人の最大の弱点であった。加え、肥後人も叉長州人に甘いという長州側の切札がある。
『玄瑞の誼がある』
ス、と彦斎の後ろの襖が開き、白装束姿の男が頭を垂れる。彦斎と同じ格好をした、引き締った体格の痘痕面の男であった。
『・・・あんたも護衛を潜ませていたとはな』
大楽は少々顔を引きつらせて言った。其ほど警戒されていたかよ、と。
彦斎は僕からは何も言っとらぬ。我が判断でついて来たと。と茶を啜ると
『この男は堤 松右衛門。僕は肥後に戻らないけんけん、あたがどうなったっちゃ駆けつけられんばってん、堤は常時京の居る』
と、言った。
『言っておくが、冷泉暗殺に手の貸す訳じゃなか。あた達を止める権利が無かだけの話ぞ。あた達が一方的に殺す分には、堤は姿を現さぬ。只、あた達が失敗して追われる羽目になったとか、逆に襲われた時には駆けつけよう。長州人の危機をみすみす許すのは道義に反するゆえ』
―――奇しくも之は、8年前、密航を打ち明けた松陰に宮部が言った事と同じである。決定的に違うのは、相手が松陰でない事、肥後人の性格を計算の上で言っている大楽に対し、肥後人達は為す術が無い事だった。爆破予告が愉快犯に拠る嘘と理解していても機動隊が動かざるを得ない様に、計算であるとわかっていても協力せざるを得ないのが彼等の人情であった。
『・・・・・・恩に着るぜ』
併し、この堤が死ぬ。彦斎と宮部は御親兵の上京までを熊本で過す心算であったが、急遽すぐに再び上洛せねばならなくなった。
『―――解せない』
―――宮部はこの時初めて明瞭と、度し難さを露わにした。彦斎も全く想像し得ぬ展開に、瞠目してただ遺体を見るしか無かった。




