五十四. 1862年、長州屋敷~自身の潰した恋~
ぺら・・・
後は眠るだけである。こんなに落ち着いた夜は久し振りだった。大抵は山口に布団に追い立てられ、その後彼等の天誅が始る。
併し最近は検分役の確認が遅れており、標的をまだ狙えないでいる。その分久坂の仕事のペースも落ち、時間的に余裕が生れていた。
玄瑞はこの時、『留魂録』を読んでいた。この本は玄瑞が松陰直筆の正本を書き写し纏めた物で、正本は高杉が持っている。
・・・・・・松陰が死のひと月前に記した、松下村塾生に宛てた遺言である。
「・・・・・・」
・・・・・・玄瑞はゆっくりと眼を細め、視線を伏せる。周辺視野で、部屋の襖が細く開いているのを捉えた。
(・・・・・・?)
閉め忘れたとも思えない。細く開いている割には、ひんやりとした隙間風が入ってくるでもなかった。
不思議に思って、振り返る。
「久坂先生・・・」
佐倉が開いた襖にしがみついてこちらを窺っている。久坂はだらしなく口を開けた。
―――見事に気配が感じられなかった。
「・・・何だ?」
と、久坂は訊ねた。
佐倉は神妙な顔をしている。その頬が仄かに紅を差し、唇を微かに震えさせると
「山口さんって、お母さんみたいですよね」
と、少し困惑した様に言った。・・・・・・久坂こそ困惑したかった。
何を言いたいのか全く分らなかったが、取り敢えず佐倉を部屋に上げた。一体何の相談だろうか。そして何と言って欲しいのか。
「・・・・・母親のつもりで甘えればいんじゃね?」
適当に相槌を打った。山口は天性のお小姓体質というか世話焼きで、佐倉と組んでからは彼女にもお節介を焼いている様だ。この男は自分の時間というものを持っているのだろうかと思う刻もあるが、良くも悪くも久坂はそこまで干渉しない。
が、物事は久坂の守備範囲を越えたところに向かっていた。
「お母さん相手にドキドキしますか?」
・・・こいつら、想い合っていやがる・・・と、久坂が悟ったのはこの頃である。併し、当の佐倉が自身の想いに気づいていない様だ。
「そりゃ、山口は男だし」
佐倉の中では自他の性別がごちゃごちゃになっているらしい。男であると言われて衝撃を受けていた。
ドキドキするのであれば、普通“お母さん”の方を否定すると思うのだが。
(・・・・・・)
・・・・・・如何も佐倉は、性に余り煩くない環境の中で育った様だ。
「あのな?世の中には男と女ってのがあって・・・」
如何いった経緯があって男装を始めたのかは知らぬが、其の侭真直ぐに育っていれば何の疑問も無く女として生きていたであろうに。平等が好きな久坂だが、流石に人間、天海のお導きで種類が存在するのだ、と講釈しようとしたところ
「そのくらい知ってます!!」
と、即座に返ってきた。当り前だ。其くらい理解しておいてくれないと困る。
「じゃあ何々だよ」
久坂はだんだん面倒になってきた。
「山口に恋しましたて報告か?」
はっきりと訊いた。この様子ではこちらが言語化して遣らないと話が全く進まない。更に佐倉にはもう一段階めんどくさい事がある。
「なるほど、これが“コイ”!!」
(コイツ、男の振りしてるつもりあるのか?衆道でもこんな堂々としてねぇよ)
こんな事を自分に告白して、果して自分は何と答えればよいのか。もはや男である事を前提に話をしていいのかさえ判らない。
隠しているのであれば、普通は恋と訊かれた時に否定すると思うのだが、この娘は孰れにしても気持ちを隠す事はしないらしい。
「お前・・・もうちょっと男の振りしてる自覚持とうな?」
もぅいいや、と久坂は思った。今の状態では久坂等がどんなに隠そうと頑張っても、佐倉自身から女子らしさが滲み出て仕舞う。自分達の前ではもう女でも山口に恋してても何でもいいから、其以外の他人と触れる時には気をつけて欲しいと思った。
「え!!?知ってたんですか!?」
「なるほど、お前の中では男のつもりだったんだな。ほー衆道かー。まぁ、うちの藩では偏見ないけど」
佐倉は突然慌て出す。裏役を辞めさせられるとでも思っているのだろう。バレていないと思っていた大胆不敵さにこちらが驚きである。
「いや、別に偏見ないからいいけどよ」
久坂は呆れ果てて言った。
「えっ。いいんですか」
「おーおー」
久坂は緊張感無く肯いた。佐倉は心底胸を撫で下ろした様だった。
「面白そうだからな」
久坂はしれっと言う。すると、佐倉は思いっ切り頭を床に突進していった。この反応も叉、面白い。
大方坂本にもバレ、似た様な事を言われて見逃されたのだろう。が、自分は坂本とは立ち位置が違う。厳しい事も言わねばならない。
「だがな、佐倉」
佐倉は顔を上げた。甘い面をしている。
「他の奴には絶対に露見すなよ」
“面白い”だけでは置いておけない。そこが坂本との違いである。坂本と楢崎家以外に、バレていい候補など最早無い。
男の野蛮さは滔々と語らずとも解っている様であった。併し、佐倉が知るのはその一角でしかなかろう。男社会の凄まじさは生死だけを左右するのではない。
「―――之以上の人間に露見たら、お前をクビにしなくてはならん」
・・・!凡てお見通しであった事を佐倉は悟った様であった。佐倉は緊張の面持ちになると、
「・・・・・・はい。申し訳ありません」
と、初心に戻った様に深く頭を下げた。
―――久坂はそこ迄考えが回っていなかったが、間接的に恋愛禁止令を出した事になる。
佐倉は、稔麿と山口も自身の正体を知る事を知らなかった。佐倉は山口に対する想いを明かす事無く、日々熟して明らかとなってゆく“コイ”の正体を胸に秘めた侭、終局へ向かう事となる。
・・・・・・久坂の潰した恋かも知れなかった。
(“恋”か・・・・・・)
久坂にとっても之は想定外の事であった。まさか部下同士が惹かれ合い始めるとは。
女を引き込むとは斯ういう事なのか
まだ衆道の方が始末がよい、と想った。衆道も殺傷沙汰になるとは聞くが、男装していれば同じである。
否、其だけではない。バレれば女であるが故の危険も増え、より事が複雑になる。―――その上、佐倉は裏役である。久坂と稔麿、延いては長州藩の裏側を知る位置にいる。・・・・・・“クビにする”と言っても、只辞めさせて終りという訳にはいかない。
詰り、女としての告白は運命を決定づける事となって仕舞った。
久坂も斯様な事に得手な訳ではない。・・・知らず、二人を引き離した。
「・・・・・・とんだ化け猫だったな」
佐倉が気配無く部屋から消えた後、久坂は本で口許を覆い、低く独り言を呟いた。




