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伍. 1858年、江戸~赤坂長州屋敷~

「おぉー、江戸だー」

私の作品にしては展開が早い。だって彼が京で何をしてきたかというと、見聞を深めてきた、位しか判然としないから書きようが無いのである。筆者が適当に流して書いているのを知ってか、久坂の放つ声もまた超絶テキトーである。


とはいえ、此の侭何も記述せずに進めると矢張り話が解り難いのでさらりと説明させて頂く。

先ず、久坂と高杉の遊学が決定して直後、大老に彦根藩主・井伊 直弼が就任した。井伊は決断力ある名君として知られており、現にその決断力を駆使して藩政改革を行ない、彦根の教育を立て直した実績を持つ。断行とも謂える手腕を買われて大老となった井伊は、長らく問題となっていた江戸幕府14代将軍の座に徳川 家茂を据える事で、将軍継嗣問題に終止符を打つ。ここ迄はよかったのだが、在ろう事かその日米修好通商条約を締結した。久坂が京に到着したのは、偶然か必然かこの日米修好通商条約が締結される前の日で、久坂の過した京の日々はまさに井伊に拠る独裁政治下のものであった。

宮部と京で出逢ったのも、日米修好通商条約の情報を宮部が入手していたからであろう。


「流石に大きい街だなー。京とは違った角張った武士の都か」

ちゃんとした感想を言ってくれる様になった久坂。江戸での久坂の足取は、京ほど判り難くはない。

「おー久坂ー」

久坂が江戸に入って間も無く、見知った貌がゆらーりと建物の門から出て来て声を掛ける。地図が不要となる位、迷うべくも無い。

「おっ高杉」

京といい、見慣れぬ土地に着いた途端に知り合いに余りに会うので久坂は其で驚いた。世の中はこう見えて狭い。

「相変らずユルイな」

「お前の顔ほど緩くはねぇよ」

高杉と再会するなり、失礼な感想を述べる久坂。高杉も重そうな二重の目を半開きにして冷静に返すが、筆者にしてみればどっちもどっちだ。

「折角迎えに来て遣ったってのによ」

高杉がおどけた調子で言う。久坂もにやにやしながら

「嘘言え。迎えも何も、お前が今出て来た門は長州藩邸の門じゃねぇか。江戸に入ってこんなにすぐに藩邸があるなら、迎えなんて必要ねぇよ」

と、反論する。高杉は肩をすくめた。

長州藩邸は東京都赤坂、現在は六本木ヒルズが聳え立つまさにその場処に当時存在した。屋敷の面積は3万3300坪に及び、之は東京ドーム凡そ2個分に相当する。とはいっても、東京に住む者以外にとってはそういう風に言われても全くぴんとこないのだが。面積の基準として多用される割に、東京ドームの歴史は実は未だ25年そこそこである。

高杉が出て来た長州藩邸は檜の大木が建ち並び、通称『檜屋敷』と呼ばれる藩主の別邸や藩士たちの寄宿に使用される建物であった。政治的には別の屋敷が担う。そちらの跡地は日比谷公園の一部となっている。

檜屋敷(あそこ)には桂さんも居られるんだよな」

久坂が彼にしては少し抑えた声で言う。謙虚というか、珍しく高揚しそうな気持ちを努めて落ち着けようとしている様に。

「ああ。あの人が藩邸の番手(守衛)なんだ。江戸(ここ)に来てからの工面は全部あの人が遣ってくれていた」

桂とは『逃げの小五郎』で有名となる、あの桂 小五郎である。この時、25。松陰の兄弟子で既に長州の藩政に携わる桂は、200年以上続く毛利家家臣の血筋としても先輩で、久坂や高杉の密かな憧れである。

「・・・で、如何なんだよ、江戸は」

久坂が顔を近づけて、こそこそと高杉に訊く。その意味深長な態度に高杉は首を傾げながらも

「役に立たん座学ばかりで詰らん」

と、答えた。すると、久坂は鼻で(わら)

「違ぇよ」

と、言った。

「・・・は?」

「俺達は松下村塾生だぜ?教えられる事だけ受身で聞いていても駄目だ。役に立つ情報(こと)は、街の至る処に転がっている」

久坂は宮部の受け売りを言った。この御祭騒ぎの好きな男に遊学中の愉しみ方を教えて遣る奴がいなかった事が残念なところだ。

「俺達は松陰先生が送り出した特派員だ。京・江戸の情報を持ち帰って志士に伝えるのが俺達の仕事なんだよ」

高杉が余り理解できていない様な顔をする。この時点で久坂は矢張り早熟(ませ)ているというか、利発で意識も高かった。現に、高杉が本格的な活動を始めるのは久坂の死後、彼の遺志を継ぐ様に攘夷活動の中心となってからで、其迄は久坂が先立って活動を展開している。

「じゃあ、俺は桂さんに挨拶しに行くわ」

おう。と高杉が手を振った。二人は別れ、高杉が武家屋敷の木で出来た柵の角を曲る。

高杉の背後で幕吏が「松田 重助ぇーーー!!」と(こぞ)って男を追い駆けている。


久坂の宿泊の手配も抜かり無く済ませてあり、其が桂の御蔭である事を知る。自身に宛がわれた部屋に案内される際に、

「桂さん」

と、この時期から既に多忙そうに動き回る男に声を掛けた。桂はくるりと振り返り

「あ」

と、言った。

「吉田 松陰先生の下で現在勉強させて戴いている、久坂 玄瑞です」

桂はどの作品でも言及されるいい男である。凛とした涼しげな眼元を一瞬大きくすると

「―――あぁ、君が」

と、微笑んだ。

「高杉君と並んで『村塾の双璧』の」

桂はからかうでもなく極々真面目に久坂を見ながら言う。かといって品定めをしている感じでもなく淡々としていて、謙遜するのに困った。

桂は松下村塾生ではないが、今の久坂と同じ位の齢に、藩校明倫館で教鞭を執っていた松陰の下で学んでいる。以来松陰とは師弟関係であると同時に友人同士でもあるが、桂と松陰が3歳しか齢が離れていない辺り、如何に松陰が鬼才であるかがわかる。

「吉田先生より予々(かねがね)お話は聞いている。君達の事を頼むという便りも来た。之から先も関る事が出てこようが、ぜひとも宜しく」

この時代、まだ世界は狭い。長州という枠の中では一度知り合うと関り合いにならない事の方が少ない。若しかしたら、以前に松本村の道中で互いにそうと知らず擦れ違っているかも知れないのだ。

「こちらこそ宜しくお願いします」

久坂は興奮気味に言った。高杉の奴め、自分が京に居た間も江戸で桂と話をしていたとは羨ましい。だが、京では宮部と逢えたので(あなが)ちそうとも言い切れない。

「高杉君には剣術遊学で、思誠塾と昌平坂学問所に行って貰ったが、君は医学遊学だったな。医学には江戸で活躍する長州人が在る。その者に君の事を恃む心算(つもり)だ」

桂本人が案内してくれ、カラリと襖の戸を開ける。村田さん。桂が声を掛け、先に入った。その後、久坂を中に招き入れた。

「彼が萩より来た私の弟弟子の久坂 玄瑞君です。久坂君、この方は麹町で塾を開いている村田 蔵六さんだ。大坂の適塾(緒方 洪庵塾)で医学を学び、現在は蘭学と兵学、医学を教えている」

村田 蔵六と紹介された男は、窪んだ眼窩から零れる様な眼球を久坂の方に動かし、ぎょろりと睨んだ。5本の指を盛大に広げた手を当てても猶肌が余る程広大な面積の額に、村山 富市元首相に似たぼうぼうにとっ散かった眉毛。否、生れの順でいえばこちらの眉の方が元祖であって村山元首相なんて二番煎じに過ぎない。

桂は本来、謙虚な性格であるので上下についてうるさく言わないのだが、そんな彼が久坂を弟弟子と言うという事は、村田 蔵六は見た目同様に気難しい男という事か。

村田 蔵六―――のち、大村 益次郎。

「久坂 玄瑞です。宜しくお願いします」

久坂が挨拶をする。も、大村は、うむ。としか返さない。其以上は目すらも呉れない。久坂は松陰と初めて文を交した頃を想い出す。

(・・・叉かよ)

久坂はそういう心境だったに違い無い。が、哀しきかな、高杉、松陰ときて奇人変人の対応には慣れて仕舞っている。

このある意味で人の好い受容的な性格が最終的に久坂を死に急がせる事になるが、この性格でなければ大村、否、彼だけでなく高杉や松陰とも一丸となって一介の医者が天下取りになど携れる筈が無い。

「では、私は仕事に戻る」

桂が退室する。久坂はげっ、と思ったが、桂が居ても確かに仕様が無い。大村という男に慣れるのは之が手っ取り早いのもそうだ。

桂は自分と近いタイプだなと久坂は思った。只、桂の方が少々不器用らしい。大村の性格を苦手としている様だ。

(其こそマトモな奴の感覚というものだ)

意外なかわいげを持つ桂に親近感を懐いていると、(くに)が既に亡んでいるかの如き仏頂面で再び豆腐に箸を着けていた大村が

「面倒な者が師になったと思うたろう」

と、慇懃ながら無愛想に言った。ぱくぱくと速いペースで豆腐を口に運ぶ。

久坂は驚いた。変人は己を変人と自覚しないものだと思っていたからである。この男は己が変人だと自覚がある。だが、吉田 松陰がどれ程変人かという事は知らない様である。

「いえ」

久坂は笑いを堪えて言った。

藩の中(じもと)に居る連中の方が余程面倒です」

大村は自身が長州人でありながら長州を好かない。大村は藩士ではない。百姓が故に長州では認められず、宇和島藩がその才能を発掘した。故に愛郷心薄く長州を母藩とは思っていない節がある。其でもこう遣って藩邸に控えているのは桂個人の尽力に依るものなのだが、大村の為に之以上の頁を割く気は無い。

「ほう」

と、大村は箸を口に含んだ侭呟き、口を閉じて考え込んだ。大村から見れば、彼等の方が不思議な人種だ。

殊に桂は、明らかに自分を敬遠しているのに自分の才については一歩たりとも譲らない。長州が自分を買わなくとも、宇和島に既に買われていても、手を尽して長州のものとした。其でも、自分の事は苦手なのである。その矛盾が大村には興味深い。

頭の良さと性格がちぐはぐで、欲しいのに苦手、嫌いなのに認める、好きなのに手放し、無駄だと解っていながら殉ずる。良いものが好きで悪いものが嫌いな大村にはそういう乖離した現象は芽生えない。

・・・長い(ねぶ)り箸から口を離し、大村は真直ぐに久坂を見る。

「面倒な連中には関りとうない。私は長州に何の恩義も無く、長州の人間は好かない。だが日本(ひのもと)の未来は憂いとる。久坂さん、貴方はどう思う」

と、言った。互いに医者である事を忘れる様な話題であった。そういえば、大村は兵法にも精通している。

「藩の為じゃあなく、国の為に戦う気になれるか」

大村は箸を()いた。皿の一つ一つがきれいに平らげてあった。

大村は久坂が尊皇攘夷に目覚めている事を看抜いていた。余計な愛郷心が無いだけ自藩に対する見方も冷静であった。

「だったら兵法も貴方に教える。面倒な連中には関りとうないが、国の軍制改革に貢献できるなら、言う事は無い。藩許(くにもと)に戻って貴方が伝えるがいい」

―――久坂が長州きっての名軍師となる由縁はここにある。

大村 益次郎はこの後長州藩士(武士)となり、大日本帝国陸軍の創始者、兵部省(現・防衛省)の初代次官として日本史の名に刻む。その様な者の手解きを受けた久坂は大村以上に明治の世に尽したに違い無いが、大村より先に逝った為に師を超える事は無かった。

才能の順番に人は死ぬ。

「・・・!有り難う御座います!」

大村 益次郎は久坂のゆく末を決定づけた二番目の人物であると謂えよう。最初の人物は宮部に拠って、思想の門を叩いた。

久坂の道はこの刻、叉一つ、範囲が狭まったと謂っていい。併し、久坂は満足だった。




久坂や高杉が江戸にて羽を伸ばしている間、萩の松下村塾は大変な事になっていた。

「・・・・・・」

入江(いりえ) 九一(くいち)と吉田 稔麿は息を呑み、膝の上に乗せている拳を固くした。彼等は久坂・高杉と共に松門四天王と云われる村塾きっての秀才達だ。その彼等が、言葉も無く樹の根の如く尻を座布団から離さずして、動かない。

「・・・・・・吉田先生」

・・・長い沈黙の末、漸く稔麿が口を開いた。彼等の目前には松陰が居る。稔麿は松陰が塾長となる前にも松下村塾に通っており、塾の事をよく知り、松陰の親族含めある程度心得ている。稔麿は慎重に言葉を選びながら、幼少から切っても切り離せぬ塾の師に言った。

「・・・・・・間部(まなべ)は井伊と違い、話せば解り合えると聞きます。もう少し様子をみた方がよい」

「―――その時期はもう過ぎましたよ、吉田君。今は一刻も早く幕府を倒さねばなりません。話したところで如何となる問題ではないのです」

「・・・・・・っ」

「話せば解る」という言葉は松陰の好きな言葉である。併し、口調こそ丁寧だがその言葉が歯止めにならぬ程松陰は内心激昂しており稔麿は二の句を継げるのに苦慮する。

間部とは、老中・間部 詮勝(あきかつ)。即ち大老・井伊 直弼の部下であり、将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結にも関っている。松陰の怒りの矛先が大老ではなく老中に向けられているのは、老中・間部が入京した事で安政の大獄が激化し、松陰の友人である梅田 雲浜が逮捕されたという経緯があるからだ。雲浜は宮部とも友人であり、且つ池田屋事変にて新選組に捕縛される古高 俊太郎の師でもあった。

―――間部 詮勝の殺害を、松陰は目論んでいる。

「・・・併し、吉田先生。御自分が入塾前の久坂に送った手紙を、今一度顧みてください。今の貴方では間部を斬れない」

「僕は久坂君に斬れる斬れぬの意図で以てあの手紙を送ったのではありません。―――斬るか否か。そこに成功不成功など論ずるところなどないのです」

特攻隊の様な考え方である。幕末という不安定な時勢を前に流行の思想ではあったが、松陰の場合、心の髄までそういう性格(こころ)で出来ている。

―――併し斬れねば、只の無駄死にではないか

と、稔麿は言えない。松陰の性質をよく知るからこそ言えなかった。この優男は、やる気さえあれば凡てを赦して仕舞う甘さがある。頑張っていれば、誰かが見ていてくれる筈―――と、松陰は無意識にそう信じて疑わないところがある。自身が聖人君子だからだろう。だが、稔麿は世の大半の人間がそうではない事を知っている。寺子屋の色がより強かった松下村塾を出てから松陰に出会う迄、長州を離れ、大人を相手に生きてきた稔麿は、松陰の様に純粋な眼で人を視る事が出来ない。殆どの人間は学問を実践に転化しないし、学問通りに動かないのが人間だ。人など信ずるに値しない。稔麿は寧ろ、人を憎む側の人間であった。今度ばかりは松陰の事を愚かだと思った。

入江 九一も稔麿と似た境遇の人間だ。入江の方がまだ厳しく、弟を塾に通わせる為に手習いの一つもせず働いた。識字は弟のテキストを借り、偶に弟に教授して貰う事で断片的な知識を得た。この教授の経験あってか、入江 九一の弟は明治に入って内務大臣となり入江はこの刻弟の誼で松下村塾に入塾する事となった。1858年、齢22の事である。

こういう経緯あり、入江も稔麿と同様に松陰の計画が無謀であるとは思っていたが、入江には並々ならぬ恩義が松陰にある。

塾歴の面で松陰と対等と謂える稔麿と違い、入江は松陰に拾われたという色が強い。だが才は弟に引けを取らず、加え、社会に()れた経験も年嵩の分あって稔麿より長かった。稔麿より素朴な性格であった。だが、稔麿より穢れている。

―――綺麗だ。 ・・・

稔麿が愚かと評した部分を、入江はそう捉えた。

人に期待を出来るところが、稔麿や入江の様な人間にはひどく羨ましく想える。

併し、松陰のしようとする事を肯定して見守ってくれるのは神くらいだ。其も神には関係の無い事だから。

「・・・―――僕が、御伴しましょう」

「―――!?」

稔麿は思わず入江を見た。年長者の意見として入江には是非とも反対して欲しいのが稔麿の本音だった。

「入江さ・・・」

「まぁ稔麿。僕は、天が先生を見放しても先生がゆく先に居ると決めたんちゃ。先生の命をも捨てるその精神こそ、後の世に遺さなければならないと、僕は思っているのです」

―――入江は、純潔さに飢えている。

「―――死んで仕舞えば元も子も無い」

稔麿が入江の矛盾を衝く。歴史的記述は如何に歪曲させられた産物であるか。歴史(それ)が勝者の武勇伝である事を稔麿は想像できている。清き水ほど染まり易い。入江は自身を「穢れている」と恥じているが、その実松門四天王で最も純粋な人間だと稔麿は思った。その純粋さは結果的に稔麿より早く死ぬ方向に向かわなかったが、其も2ヶ月足らずの事で二人とも若くして殉死している。

「―――僕は後世に名を遺そうなどと考えてはおりませんよ。僕は僕の為に命を賭すのです。言ってみれば、之は国の為ではなく友人が囚われた私怨です。ですが、国とは人の集合体で、共につくってゆくものですから、人の為に立ち上がらずして如何しましょう」

松陰は世に棲む全員が善人の様な言い方をする。稔麿は狂わされる思いであった。その性善説を唱える口が、何故幕府の役人を殺そう外国人を殺そうと物騒な事が言えるのか、作者にも甚だ不思議でならない。

「―――久坂と高杉に、手紙を書いてみたら如何です」

・・・入江は稔麿と松陰に提案する。久坂と高杉の頭脳に問おうというのだ。久坂と高杉に賛成して貰えるものと思っている松陰は

「―――其はいい。最後に、久坂君と高杉君の意見を聞いておくのも。江戸(あちら)には桂君も居るし」

と、素直に喜んだ。

狂わされる稔麿に示される助け舟。入江は恐らく世の全員が善ではない事を稔麿以上に知っている。だが、其にそっと蓋をした。




―――数ヶ月の刻を経て、長州江戸藩邸の桂・久坂等の手許に更なる文が届いた頃には、松下村塾には誰も居られなくなっていた。

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