四十八. 1862年、土肥~殺人の先輩~
「1862年、土肥」
薩摩に続き、土佐にも一大転機が訪れた。
武市 瑞山率いる土佐勤皇党が遂に吉田 東洋を暗殺した。志士が粛清された事で佐幕一色に塗り潰された薩摩とは対照的に、土佐は東洋暗殺に由って逸早く勤皇藩への変貌を遂げた。無論、久坂は武市から真先にこの情報を報されている。武市自身興奮の醒めぬ情態で筆を執った事が覗える筆跡と文面であった。
「・・・・・・」
いつも文をせかせかと読む久坂が、この刻ばかりは暫く文を手放さなかった。といえど、何度も文章を読み返している訳ではなく、淡い笑みを浮べながらも、脳内は何処かに置き去りにしている様だ。
「・・・手放しではどうも喜べないみたいですね?」
山口が茶を持って入って来た。久坂はこのところ大人しく謹慎を受けている。というか、寺田屋事件を受けて在京する志士達の往来は停滞傾向にあった。情勢だけでなく感情も寺田屋事件に引き摺られている。
「・・・返事をどうしようかと思ってなー」
土佐勢以外は皆葬式モードである。ともあれ、久坂が長州藩勤皇化に拘る理由は消滅した事になる。だが不思議と土佐藩に逃げて勤皇を強化する、という気にはなれなかった。坂本 龍馬が言い置いた
『東洋を斃してもその数倍厄介な老公がおる』
という台詞も、気にはなる。其に
「・・・で、何で絵を描いているんです?」
「ん?」
久坂はぼーーっと絵を描いていた。描き上げると、まるで他人の描いた絵を初見するかの様に其を読み上げ
「・・・よし、彦斎に送ろう」
と、継紙を切った。久坂、無表情だがめちゃめちゃ動揺している。
話し合いで人は救えないと証明されて仕舞ったのである。結局、武力で制した者の世になる。同志を守るも尊皇攘夷の実現に攻めるも結局のところ“腕力”しか無い。武市の土佐藩掌握は、久坂が殺人を推し進めるに積極的な理由を作って仕舞った。
最早斬るしか無い。併し、久坂は立場上武市と同じ“黒幕”にしかなれない。武市や宮部、西郷の様に、自身は飽く迄潔く、戦う刻も堂々としていなければいけないのだ。
「俺はいつでも斬る準備が出来ていますよ」
―――山口の抑揚の無い声が降ってくる。久坂がふと山口の顔を見る。・・・・・・山口は極めて真面目な表情をしていた。
コト,リ、と湯呑が机に触れ、固い音がする。
「・・・・・・」
―――・・・久坂は、初めて長井に殺意を抱いた2年前の雪の日を想い出す。・・・偶然なのだろうが、あの刻も雪、という想いがある。
2年の遠回りをして、欲するものは結局、当初と何一つ変らなかった。
「――――ああ」
・・・2年の間で、少年の背は広く、高くなっている。そこが変った部分であった。腕も上げ、教養も深め、少年は成長している。
・・・俺は成長しているのだろうか―――?久坂は山口の背を見つめつつ、想った。
武市が突如、上京する事になった。安政の大獄で処分された山内 容堂の謹慎が解け、土佐藩の拝謁が赦された事に由る。
勿論、武市は真先に久坂に其を報せてきた。当然、逢おうという話になる。約束を取り付ける手紙の遣り取りの中、折しも天誅の話題となった。「折しも」とはいっても半分意図的ではある。最近、誰の手に拠る者か判らないが、獣に喰い千切られた様な損壊死体が京の地に増え始めた。一部例外もあるが、殆どが佐幕人だ。
時期が多少重なる事から、初めは彦斎の仕業かと思ったが、彦斎とは斬り口が違う気がする。
―――そう、この時期は、人斬り以蔵や人斬り新兵衛の暗躍時期でもあったのだ。
武市は人斬り新兵衛こと田中 新兵衛を久坂に紹介すると申し出た。
武市との約束が決定して、久坂は先ず稔麿を京へ呼び出した。実行者になるのだから当然だ。
桂にも天誅の意を伝える。桂は勿論反対した。併し、伝えるだけ伝えておいた。武市や田中との約束には、桂が保護者として立ち会う事で何とか合意した。実質的に桂と武市の話し合いとなるが其はもう仕方が無い。
宮部と彦斎にも夫々(それぞれ)手紙を書いた。久坂がここ迄殺人について四方八方に相談して回るのは、事が事だけに各々の天誅の意見を聞いておきたいのと、志士同士で足並を揃えておく必要を感じたからだ。実行者で最も大変なのは天誅後の逃亡だと聞く。場合に依っては自藩の管轄では間に合わず、武市や宮部等に山口・稔麿の保護を頼み、逆に長州藩が彦斎や田中等を匿う必要が出てくるだろう。志士間の横の繋がりは出来る限りクリーンにしておくべきだと久坂は認識した。そうでなければ、京のこの治安状態では生き残れない。
この様に久坂は書面に広がる人物との世界に想いを馳せ、藩邸に鬱ぎがちとなっていたが、その間の山口の行動に特に制限は無かった。この間の山口の行動も特に把握はしていなかったが、ある刻
「・・・山口。お前、之から数日、余り予定を入れるなよ」
と、進ませる筆に視線を宛てた侭言った。この男は流るる急流の如く全く止る事が無い。
「そろそろ仕事だ」
と、言った。山口も桂同様、現場に立ち会わせる。
―――武市が京へ来る本当の目的の一つは、本間 精一郎の首を確認する事である。
本間は首を切り取られて、青竹に括られて四条河原に晒され、残りは高瀬川に投げ込まれたが、武市が到着した頃には実行者達の手に拠って首は回収され、酒樽の中に漬けられている。
本間は芯から酒で出来上がっている。この男の最期は、たらふく酒を飲まされて酔わされた挙句の奇襲であった。死んでも酒を飲まされている。
「・・・・・・」
・・・・・・武市は樽の蓋を取り、解剖医の様に冷静な視線で本間の首を視る。この刻長州藩士達は、初めて天誅の“形式”というものを目にし、学び取る事になる。
「・・・・・・本間で間違いはない」
長州藩士達も叉、本間の首を覗き見た。
保存状態は悪くない、併し、酒に漬けているにも拘らず腐臭が酒のにおいと混ざり、途轍もない不快さと、顔である。この男の顔は、屹度この酒樽の中でしか活けられないのだろう。液体から揚げると恐らく崩れる。
・・・天誅の生々しさを知った。
「―――よく遣った」
武市は実行者達に淡々と言った。この検分には実行者の田中 新兵衛、岡田 以蔵が立ち会っている。
長州藩士達は謂わば、土佐勤皇党の天誅の検分に参加させて貰っている。立ち会う長州派志士達は、久坂 玄瑞、吉田 稔麿、山口 圭一、桂 小五郎。誰にも眼を逸らさせない。実行する者は知っておくべきだと長州の彼等は考えるからだ。
が、土佐の彼等は知らない。
武市は暗殺者達を完全に意の侭に動かす代りに、必ず自身が斯う遣って遺体の検分に来る。難しい場合はこの様に保存させ時期を多少ずらしてでも自身が検分した。成功した実行者には、惜しみ無く報酬を与え、彼等の生活を保障する手厚い遣り方が土佐の天誅の様式であった。罪悪感など必要無く、其等は凡て、武市が請け負う。
只、彼等は、土佐勤皇党の名簿に記載されない。
「―――久坂さん、桂さん」
本間の首が入った酒樽を片づけると、武市は本間殺しの実行犯達の紹介に入った。彼等が謂わば、山口の同業者という事になる。
「この者等が、肥後でいう河上さん―――」
・・・武市は、「天誅」や「暗殺」といった直接的な表現は好きではない。
「田中 新兵衛と―――・・・」
―――少し間が開いた。溜息と呼ぶには暗くない感情の薄い息を一つ吐くと
「・・・・・・岡田 以蔵にござる」
と、さらりと言った。その特殊なテンポに、長州藩士達は呆気に取られる。
(・・・・・・)
・・・・・・人斬りと一口に謂っても、種々あるものだな。久坂は田中と岡田を見て、密かに想った。
田中も岡田も、武市を非常によく慕い、武市への義の為に人を斬っている様に視えた。叉、武市がそういう人斬りを求めてもいる。
「・・・岡田さんは、“土佐の闘犬”と渾名される程の腕だそうですな」
・・・桂が執り成す様に言った。そう、まさに闘犬―――忠犬という言葉がしっくりくる。田中 新兵衛に関しては“薩摩の狸囃子”の異名に違わず賑やかな男であったが、武市は田中を気に入っている様であった。何でも、兄弟の義盟を結んでいるらしい。
「・・・岡田さんは、彦斎とも話をした事があるらしいな。俺も、彦斎とは友達なんだよ」
久坂はひょっこり覗き込む様な姿勢で以蔵に言った。・・・この男は其と無く、土佐側の人間関係も視ている。
(・・・・・・)
・・・学が無いんだな、と久坂はすぐに看抜いた。田中もその様である。其は土佐側の事情であるから別に介入はしないが、両者に対する武市の態度の違いは冷静にチェックしている。
武市は結構、人の好き嫌いが激しい。
―――・・・実行者の精神衛生上の環境調整も必要か
・・・久坂は以蔵のすくんだ眼を見つつ想う。ふさふさの髪を撫でて遣りたくなった。
「・・・・・・」
・・・・・・稔麿は無表情で之等一連の流れを見ていた。
(・・・・・・“人形”か――――・・・)
・・・山口は虚ろな眼で田中と岡田を見ながら想う。彼等のどちらにもなりたくはないな、と不意に想ったのであった。
御褒美を人からぶら下げられて、御褒美を手に入れる手段の為に人を狩る様な事はしたくない。傍から見れば同じだろうけど。
何の為に江戸を離れたのか、わからなくなる
・・・・・・。久坂は無論、数ある種類の人斬り達を見た山口の反応も確認している。
当然だ。長州と土佐では事情が違う。長州には長州の、柄に合った機構を創り上げるべきである。山口を立ち会わせたのはその傾向を掴む為であった。
尤も、稔麿は何を感じているか、判らない。
「・・・・・・」
武市のこの殺人機構に最も嫌悪感を示したのは、矢張り桂である。
桂には武市が以蔵等を人間扱いしているとさえ映らなかった様だ。山口と以蔵等には席を外して貰い、所謂“黒幕”だけとなった場で想像していたよりも烈しい論争が交された。
「彼等は“天誅”の意味を解っているのか!?」
桂が抑々(そもそも)問いたいのはそこであった。併し、其は内政干渉に当る。武市は今や勤皇土佐藩の代表でもあるのだ。
「桂さん、議題がずれている」
武市は理路整然と返した。武市とて突っ込まれて良心痛まぬ訳は無い。武市がこの様に組織したのも、全て理由が存在する。
桂は何かと経緯を無視し、綺麗な手法を提案し、理想も常に揺るがないが、其が果して何かを救えたか、という事である。誰もが桂を最も清廉潔白な志士と認めるだろう。でも、只其だけだ。只綺麗な人間にならば誰だってなれる。
何も為さねばよいのだから。
武市に桂を責める気は無い。只、土佐藩の成功体験を懇切丁寧に説明すれば、如何してもそちらに偏って仕舞う。武市は気を遣いつつ語るも、桂は唇を噛みしめて聞かざるを得なかった。恥かしくすらなる。
之が、成した者と為さなかった者の差である。
だが、武市には土佐藩の視点を述べる事は出来ても、長州藩に如何しろと口挿む訳にはいかない。言わせて貰うのだとすれば、久坂や桂が拘る程のものでもないというのが武市の意見だ。そういう事は、下層の者にさせておけばよい。
長州藩の人間には、清らかな侭でいて欲しい―――と、武市は心の底では願っている。
「・・・桂さん」
武市は当然、困って仕舞う。長州人の分裂の中に組み入れられても、他藩人である武市は誰にもつけない。
桂は長州正義派最後の良心という立場もある。己の行為を措いてでも、簡単に首を縦に振る訳にはいかない。説得は難しそうだった。
併し、ここで意外な男が猛攻撃に出た。
「いい加減にしてくれないか」
黒幕達は皆目をぱちくりさせて声の主を見た―――吉田 稔麿である。
「あなたがそうして首を横に振っている数だけ、仲間は佐幕の人間に斬られているのだぞ!」
「吉田―――・・・・?」
桂は衝撃を受けた顔で稔麿を見る。久坂も之ほどに感情を露わにした稔麿は初めて見た。
「現に久坂が襲われた事をあなたが知らぬ筈はあるまい!」
「!!」
「おい!」
久坂が声を荒げて止める。此の場にはその件とは無関係な武市が居る。武市は案の定眼の色を変え
「その話は真か、久坂さん」
と、訊問する様な口調で訊ねる。志士を心配させて如何する・・・・・・久坂は頭を抱えたくなるも
「ああ―――あの刻は山口と、偶々(たまたま)萩に来ていた彦斎に救われたが」
・・・・・・だからといって隠していても仕方が無い。久坂は正直に打ち明けた。
―――・・・武市が唇を引き結んだのが眼に見える。直後
「―――土佐藩から久坂さんに護衛をつけようか。信用できる者が幾らか居る」
「え?いや、武市さん」
「其は」
そう言われるのは長州藩としても困る。土佐藩は藩を挙げて尽してくれようとするが、長州藩は現段階、藩全体で報いる事が出来ない。
「その必要は無い、武市さん」
稔麿がきっぱりと断わった。武市の厚意が宙に迷う。
・・・・・・お前なぁ! 久坂は人目を憚らず叱る。面目を気にする武士への侮辱だ。
「お前がその話を引き合いに出すから、武市さんはそう言ってくれたんじゃねぇか!」
「其だけ長州藩が頼りない存在だという事ではないか!」
稔麿は久坂にも反抗する。今や意見が割れに割れ、一人一党、誰が味方であるのかも判らなくなりつつある。
「いつまで他藩の志士に助けて貰う心算だ!自藩の者さえ護れぬ身で、尊皇攘夷が語れるものか!」
「併し!自衛と暗殺では話が違う!」
「同じ事だ!!」
稔麿は息巻いた。この点、意見が異なるのは桂だけであった。
「自衛も暗殺も攻撃である事には変らない。只の我が身可愛がりではこの国は乗っ取られて終りだ!孰れは攻めに転じねば、守るべきものも守れなくなる!」
・・・・・・。桂には納得のいかぬ理屈だ。
「・・・・・・其で犠牲になるのは誰だ」
・・・・・・桂は固く拳を握り締める。
「・・・・・・百歩譲って、敵側の犠牲は認めたとしよう。だが、天誅に手を染めるのは―――・・・我が藩の闇を持つ犠牲となるのは、吉田、久坂、君達ではないだろう。・・・久坂、山口君なのだろう。君達の都合で彼の手を汚し、彼は一生消える事の無い傷を負うかも知れない。天誅に成功したとして―――・・・その自責感、罪悪感、喪失感を乗り越えられず、自ら命を絶つ者が多い事を、君達は知っているのか――――・・・・・・?」
「「乗り越えさせる」」
久坂と稔麿は口を揃えた。彦斎や岡田、田中が飽く迄例外である事を二人は知っている。だが、そんな例外三人にも共通事項が在る。
「・・・元より、山口ひとりに凡てを負わせる気など無い。私も同様に人を斬る。山口の罪で終らせはしない」
「主犯は俺と吉田だ。謂わば之は長州藩の罪だ。だから斯う遣って桂さん、あなたに言っている。俺達の罪で片付くんだったら、態々(わざわざ)こんな事は言わないさ」
・・・・・・武市は複雑な顔をした。武市等吉田 東洋を暗殺する事で政権を得た者からすれば、今まさに罪があると言われている訳である。併し其は如何に彼自身が清廉潔白でも否定できない。必要悪でもあった。
“だから長州藩もその責任の一翼を担おう”
久坂の武市に対する本心はこちらに在る。山口や彦斎同様、武市にも責任の分散が必要だ。
無論、之で罪が赦される訳は無い。が、先程も述べた様に、必要悪なのである。
「・・・・・・桂さん」
困惑する桂に武市は言った。武市にその気は無かったが、武市のこの台詞が、桂が後輩達の天誅活動を認める決定打となる。
「―――無理をする事は無い。天誅には天誅向きの者が存在する。自責を持たず、罪悪を感じず、与えていれば喪失感などすぐに忘れる者が世に幾許かは在る。長州藩が手を汚さずとも、その者に追わせるだけで事足りる」
「・・・・・・」
―――・・・違う、叉は、とんでもない、と桂は想った。其では殺される側が余りに不憫ではないか。久坂と稔麿の言う事の方がまだ人として筋が徹っている。
まさか、天誅というものは之迄そんな理屈で行なわれていたというのか。
以蔵等に狩られる位なら、稔麿等の手に掛る方がまだ救いがある、と想ったのかも知れない。或いは稔麿等の活動が以蔵等の人狩りを抑止する可能性を信じてか。孰れにしても、桂は天誅を認めて仕舞った。
・・・こんな刻に想うのは、矢張り天誅大国・肥後の存在であった。
とはいえ、今回は(或いは今回も)不信であった。河上 彦斎がどの様な想いで人を斬っているのかが視えなくなったからであった。




