三十九. 1862年、 萩~浪士一件~
「旦那さま。坂本さまと山口さまが」
「お、帰って来たか」
併し、久坂は人前では其を見せない。夜は松下の後輩と坂本の歓迎を兼ねた酒宴であったが、巧みに酒から遠ざかっている。
「「「「「「弥栄ーーーー!!」」」」」」
一杯目は流石に付き合った。だが、酒宴の度に飲む酒を今回は美味く感じない。愈々(いよいよ)拗らせた様だ―――と久坂は内心で思った。
「済まんの久坂さん。土産らしい土産を持って来られんで。土佐はそこんとこちっくと厳しいき」
「気にするな。其に、土産が若し土佐の酒だったら長州のヤツらは皆倒れてる」
「そんなに弱いがか!?」
坂本は明るく笑っているが、土佐藩というのは存外非情な国なのかも知れないと久坂は武市の手紙の内容を踏まえて思った。
其は後に己の肌で感じる事になるも。
「ああ。だから、お前はお前の配分で飲めよ。伊藤、そろそろ杯が空きそうだから注いでやれ。今の内にガンガン媚売っときな」
「ははは。さすが長州人。現金きねぇ」
ははは。伊藤 俊輔は流石、先輩達の会話にすぐに溶け込む。坂本も叉、自分用の萩焼の碗を贈られて其に酒を注がれている。
顔が紅くなっている。
が、矢張り彼も土佐人で、体内の血の廻りが良くなっているだけの様で弁舌は一切恙無い。
剣術の話や桂が土佐に逃げ延びて来た時の事等、話題が豊富で饒舌であったが、併し、坂本は論を立てない。場を盛り上げるのが非常に巧く、塾生達は坂本の気さくさに惹き寄せられてゆくも、彼は己の思想や攘夷活動については全く触れていないのだ。
「あーあ。こりゃあ、後で何を学んだか問われても答えられねぇな、コイツら」
「ああ」
「そうじゃーね」
村塾の高弟である久坂・寺島 忠三郎・入江は一歩引いた処で後輩と土佐の志士の交流を見守っている。その時
「久坂さん、酒はどうですか。今日はあんまり飲んでいないみたいですけぇど」
伊藤と代りばんこに席を抜け出して酌をしていた野村 和作が久坂に訊いた。
「俺は今日はいい。その分を坂本先生にお注ぎして差し上げろ。あの人、結構飲むぞ」
・・・・・・?塾生達には交らず少し遠い処で坂本の話だけ聴いていた山口は、昼間から未だ続く久坂の違和感に首を傾げる。同じく他の塾生達とは距離を置いて話を聴いていた山縣 狂介が、少し離れてはいるが塾生との距離よりは近い山口の隣に何故か居た。
坂本の宿泊は藩校明倫館の寮に手配している。夜も更けてから御開きにし、松下村塾の後輩に坂本を送り届けさせた。
「ごちそうさまぜよー♪楽しかったき!また一緒に飲もうなー♪」
「・・・人柄ですかね。塾生総出でわいわい送って行ってる・・・」
やれやれと一息を吐き、玄関口から賑やかな集団を見送りつつ呟く。一人二人が送ればいいのに、と思うのは山口が個人主義だからだ。
「文さん、片付け手伝いますよ」
山口が中に戻り、宴会の後片付けを始める文に声を掛ける。
「いえいえ、そんな」
「久坂さんはお風呂に入ったら如何ですか?今から沸しますよ」
もはや山口を中心に杉家が回っているのではないだろうか。こういったのを見ると確かに小姓役と間違われても仕方が無いやも知れぬ。
「んーそうだな」
久坂が気の無い返事をした。というより、殆ど相槌である。
「・・・久坂さん?」
久坂に感じた違和の正体に山口が気づく。一方で、久坂も己の不調を山口に其ほど隠そうとはしなかった。山口ならば孰れ気づくし、一つ屋根の下に住んでいる相手に誤魔化し徹せる程の体力があれば其は元気という事になる。
「・・・・・・顔色悪いですよ。疲れが溜っているんじゃないですか?」
「御明察。頭が痛い」
「・・・・・・・・・なんでそんなに偉そうなんです?」
・・・・・・はぁ、と山口が頭を抱えて溜息を吐いた。
「だから、今日は薬を飲んで早く寝るわ。湯を沸してくれ」
山口が何かを言う前に自重の声を上げる。早くってもう夜半ですけどね・・・と山口は乾いた哂いをするも、久坂が大人しくすると言い出すのが余程意外だったらしく
「・・・・・・本当ですか?俺達を欺こうとしてるんじゃありませんよね?」
と、念を押す。之には久坂も、なんでだよ。である。敵同士じゃあるまいし。
「・・・・・・お前、俺の本職は何か知っているか」
・・・久坂はフゥと息を吐いて言った。呆れているのだろうが、その感情を表情に表す程の筋肉は今日は動いていない。
「え、・・・・し、志士・・・・・・?って事ですよね・・・・・・?」
「まぁ其もそうだが。いや、俺の家業のコト」
えっと山口は言葉を詰らせる。高杉や稔麿の職業はすぐに出てくるが久坂に関しては咄嗟には出てこない。抑々(そもそも)稼いでいるのかこの人。
「医者だよ医者。なんだよその遊び人を見る様な眼は」
考えてみれば、日常を志士一本で活動している者はそう在ない。抑々志士は職業ではないので、他に仕事を持たねば生活できない。
「えっ、医者!?久坂さんが!?」
山口は初耳だった様だ。
「まぁ今は無期限休業中だがな。だから身体の事は割とわかる。悪化させないよう努めるさ」
だから余り言ってくれるなという事なのだろう。志士一本でもこの男は多分に忙しい。そう簡単に取り消せる用事ばかりでもない。
「明日の昼は任せたぞ」
坂本の相手の事である。久坂としては無理な事は山口を恃っているし、ひとりで総ての仕事をする気は無い。山口の志士活動の事も考えて振り分けているし、何より動けなくなって困るのは久坂自身である。
「其はいいですけど、夜も書簡くらいは届けに行けますので、外出はやめてくださいね。御客人には来て貰う様にしましょうよ」
「いや」
久坂はきっぱりと首を振った。
「家ではあんまり出来ない話をするんだよ。其に山口、お前に聞かれるのもちょっとな」
「あぁ――」
斯う言われると、山口は之以上踏み込む事が出来ない。出来ないが、恐らく藩に関る事柄であると想像できる位には、情報や知識を入れられていた。
「・・・了解りました。でも、無理はいけませんよ。其と、話は聞きませんが家への送り迎えはさせて貰います。急に体調が悪化して、道端で倒れられても困りますからね」
「えー」
えーじゃない、と山口は呆れた声で言った。
「何刻に帰るか判らねぇぞ」
「其はやめてください。病人かも知れないんですよ。途中で抜けるなり話を枠内に収めるなりして時刻の方を守ってください。まぁ、陽が昇るとどうせ叉謹慎になるので、孰れにしろ時間は限られてきますけど」
「おい」
何だこの抜目無い感じ・・・久坂的にはうげぇといつもの顔芸になっているが、表情筋は其も控えめである。
・・・脈を打つ少し強めの頭痛が久坂を襲い
「・・・取り敢えず、もう今日は寝るわ。風呂は午前に入る事にする」
と、言った。僅かに目を細めるが、微細な変化であった。
「客人が来るのは午後からですか?」
「ああ。だから、午前に入っても問題は無いだろう。陽が昇ってからの方が湯との温度差も小さいしな」
長州の理屈屋が顔を覗かせる。何であれ、休んでくれるのであれば其でよい。山口はそう思いながら、杉家へ戻る久坂の背を見送った。
「助かりますわ」
文が膳の前に膝を着いた姿勢で礼を言った。文はずっと、二人の遣り取りを奥で見守っていたのである。
「いえ済みません・・・逆に片付けを滞らせて仕舞って」
「いえいえ。私からは言えない事ですので、代りに言ってくださる方がいますと安心しますわ。・・・あの人、何かあっても自分の力で何とか出来る、と思っている部分がありますので」
「・・・の、様ですね」
山口は溜息と共に苦笑を漏らした。周りも、だ。
今や久坂を中心に尊皇攘夷運動は展開されている。・・・肥後も、土佐も、薩摩も、長州藩の要人でさえも今や久坂を当てにしている。二十そこそこの男の背中に、西国雄藩の重みが伸し掛っている。
ざ っ ・・・
羽織を翻らせる音が大きく聞える程に、京の町は凍てつき、しんしんとする空気に音は吸い込まれていた。
地元住民でさえ寄りつかぬ千本九条の怪談の地を気に留めず闊歩する影が在る。
後ろの影が前の影に「・・・先生」と呼ぶのが聞えた。声が少し震えている。
「本当にこの通りでいいのですか?」
「ああ、いい筈だ。羅城門址の近くに店を取っていると言っていたからな。全く、誂え向きの場処だ」
在った、と危うく通り過ぎて仕舞いそうになる身体に並行する建物の前で止った。薄ぼけた看板を、目を凝らして見る。
店名を確認すると、朽ちた木の扉を臆する事無く開けた。
からり
「宮部先生」
と、奥へずんずん入って行くのを引き止め、前へ出る。色白の頬が緋く照らされた。貌は永鳥や彼の兄・松村 大成と似ていて、その神官一族の一員でもある。
「深蔵君、大丈夫だ」
そうでしょう、と宮部は目の前で既に顔を紅くしている男に話し掛けた。男は盃を口から離すなり、開口一番、詰らん、と言った。
「南から京へ来たから凍えていると思ったが、土佐の輩と違ってけろりとしていやがる。詰らん奴だ貴様は」
「肥後は京と同じで盆地ですからな。夏は暑くて冬は寒い」
宮部が卒無く返すのが叉気に入らぬらしく、男は小鼻を膨らませた。北国特有の、通った鼻筋に深蔵以上の肌の白さである。
「其で、怯懦を晒した肥後人に何か用ですかな。清河さん」
「―――其は皮肉か?あの刻は猫を被りやがって。貴様が来てから羅城門一帯は怪奇的な空気が台無しだぞ」
清河は斯ういう策士的な演出が好きらしい。俄かに上機嫌になった。宮部は其には特に取り合わず
「―――今回は、薩摩の件ではない様ですな。どれ、先ずは聞きましょう」
と、座敷に坐った。
清河発案の『浪士組』構想は、この年、本格的に始動した。
『浪士一件』という名の浪士組に纏わる最初の資料がこの年に書かれている。
『・・・・・・』
宮部はこの時巻物を解いて、浪士組の具体的構想を垣間見ている。
新選組の局中法度など影も形も無いこの時期、集めた浪士を制御する為に、浪士の上に立つ志士の選定を清河は進めていた。清河の選んだ志士達を幕府に申告し、取り立てて貰うのである。幕費での保障を受けながらにして尊皇攘夷に邁進する、そういう算段だ。
清河が目をつけた取り立ての候補は、薩摩からは西郷 隆盛、長州からは久坂 玄瑞、土佐からは坂本 龍馬および間崎 哲馬、肥後から宮部 鼎蔵、筑前から平野 国臣、筑後から真木和泉。そして備前(岡山)から藤本 鉄石である。備前も叉、規模は大きくないものの備前勤皇党があり、新選組と尊攘派のぶつかり合いが苛烈を極めた頃、備前出身の新選組隊士が備前を通じて長州に侵入して来るとの一報を宮部より受け、之を撃退している。
上の8人が浪士組に参加していたかも知れないと思うと、不思議な感じではある。
―――扨て、そんな“清河に選ばれた”若者達、久坂と坂本が語り合ったのは、坂本が久坂の手を離れる直前、1月21日であった。




