三十八. 1862年、萩~坂本 龍馬と風邪~
「1862年、萩」
桂が公武合体の拡大を防ぐ目的で久坂を長州に帰した事は理解した。併し其で久坂の罪状が白紙になる訳もなく。
「・・・・・・・・・あー・・・・・・・・・」
黒い天井が高く見える。
久坂は結構寝穢いタイプである。というより夜更しを通り越して朝方まで起きている人間なので、当然寝起きが良い筈が無い。
謹慎中で昼間外に出られないなら猶更である。
「久坂さん!起きてください!時間です!」
失神状態からの目覚めの様な苦悶の表情で久坂は起き上がる。一体何に気絶させられたというのだあなたは。
(・・・・・・桂さんも俺を帰すなら帰すで、もっと他にいい方法があっただろうに・・・・・・)
起床早々仕事熱心とも単なる憾み言ともいえる思考から始る。気忙しい久坂からすれば蟄居など動き難い事この上無いが、桂としては久坂本人に動かれては困るので、彼から見た最善の方法で久坂を萩に帰している。
「久坂さんってば!」
重い頭を押えて坐る。・・・・・・頭が痛い。うーーーん・・・と呻って顔を上げた。
「・・・・・・大丈夫ですか?」
朝から元気な山口の目覚しが、久坂の顔色を見て突然控えめになった。
「なんだよ」
久坂が背筋を伸ばして大欠伸をする。
「ぜってーコレ二刻も寝てねぇだろ・・・なんでそんなに元気なんだよお前・・・・・・若いっていいよな、おい」
「自分が散々言われたからって少し年下の相手にここぞとばかりに若いって言うのやめて貰えませんかね。俺はしっかり寝てましたもん、あなたと違って」
山口は萩に到着して以降、食客という形で杉家に置いている。自身に代って使いに行って貰ったり、客人の迎えを頼んだり、特に来客等の用が無い日は松下村塾の後輩に言って藩校明倫館や藩の推奨流派である柳生新陰流剣術の道場の見学に連れて行かせたりしている。
昨日は何事も無かったので山口は規則正しい生活を送ったが、この久坂が大人しく自宅に引き籠っている訳がなく、謹慎の解除される夜には自身が志士の元を訪ねる。山口は同行する時も留守番をする時もあり、要するに生活形態はめちゃくちゃで杉家はほぼ交替制の24時間営業になっている。
本日は曇り。昨日は晴れで比較的暖かい気候であったがその前日は雪であり、萩の天候はここのところ不安定である。
―――文久2(1862)年1月14日の事を述べている。
「時間って絶対時刻が違うだろ。客人との約束は八つの刻のハズだぜ」
「其が、時間を勘違いして早く着きすぎて仕舞ったみたいで。もう来ていますよ、お客さん」
今日の久坂は頗る寝起きの機嫌が悪い。というか気分が悪い。・・・・・・今何刻だ、と眠気を散す様に頭を左右に振りつつ訊くと
「今は五つ半(午前9時頃)です。なので二刻半(5時間)ほど時間が早いですね・・・」
「出直して貰え」
机に突っ伏してそっぽを向いた。頭がガンガンする。
「えっ、でも土佐の坂本 龍馬さんですよ!?」
―――この頃の坂本 龍馬はまだ志士も駆け出しで、龍馬そのものの価値よりも、土佐の志士であるとか、武市の遣いであるとかいう周囲のネーム‐バリューが引き上げている状態である。純粋に同志、という点では中岡 慎太郎が何度も萩を出入しているので、そちらの方が親しい。
久坂はひょっこり振り返って山口を見るも
「大丈夫だ。出直して来そうな名前をしている。なんかキラキラ○○○っぽいし」
「あなた自分がどれだけ理不尽な言い掛りつけているか解っていますか?攘夷やってる人間が安易に横文字を使うんじゃありません!」
頬杖をついて得意顔で言う久坂に山口はツッコむ。確かに能々(よくよく)考えてみると付けられた大半の人間は名前負けしそうな凄い名ではあるが。
「・・・もう中に上がって仕舞って、今は文さんを口説いています。之は叉、土佐人らしい軟派な方が来ましたね・・・」
久坂が立ち上がる。完全に目が覚めた様だ。因みに龍馬はこの時期まだ最愛の妻となるお龍とは出逢っていない。
(淡白に見えて意外とベタ惚れなんだよなぁ・・・文さん関連だけは扱い易い)
「どの部屋に通してある?」
あー、はいはい。久坂は飽く迄無表情であるが行動が慌しい。案内しますと言いながら山口は久坂の後を追った。
「萩焼、言うんか、之は?派手じゃーないが、汚れのうて素朴な色合いが綺麗なところが、文さんそっくりぜよ」
にこにこと相槌を打って文は客人の話し相手をしている。背後の戸が襖にしては大きな音を立てて開いた。久坂である。
「あ。旦那さま。おはようございます」
「おはよう」
久坂は澄まし込んでいる。先程迄の行動との落差に山口は後ろで苦笑し、一対一の時の態度との落差に文は可笑った。
「済まん坂本さん、今起きた。之から身支度する」
何せ起き抜けの状態で此処まで来たのだ。髪もまだ結いきれていない。併し坂本はそんな久坂の畏まらなさに逆に好感を持ったらしく
「ええきええき!朝餉もまだ食っちょらんのやろう?話なんて食いながらでいいぜよ!武市の手紙も別に逃げんき!」
と、一人賑やかに捲し立てた。明らかに変ったヤツである。
「併しまっこと背が高いなぁ、おんし」
「は?」
全く脈絡の無い処から話が飛び出す。何より、胡坐を掻いて坐ってはいるもののどう見たって坂本も大男である。
「いやぁー済まんぜよ文さん!俺の分まで朝餉をご馳走して貰ってからきに!実は俺も朝から何も食っちょらんで腹がペコペコやったんき!」
・・・・・・; 山口はぽろっと箸で挟んでいた飯粒を茶碗の中にだが落した。白々しいというか、天然であるのなら非常にふてぶてしい。そして、可也の押しが強い人間である。
「いいえ。有り合わせの材料で作りましたので、質素な献立で済みません。今日の買い出しは間に合いませんで」
「んーん、美味いぜよ!さすが文さんの手料理がじゃあ!」
坂本が焼き魚を食いながら一人元気である。日本海で獲れる萩の魚は確かに名物だが。久坂はその間に武市からの手紙をせかせかと読んで
「・・・・・・ああ、土佐藩も駄目か」
と、抛り出した。
「早!」
坂本も人並みにツッコむ。久坂は朝餉に箸をつける事無くその場を立つと、
「ゆっくり食べていてくれ」
襖をぴしゃん。部屋を出て行って仕舞った。坂本もぽろり。口をあんぐり開け、解した魚の身を箱膳に食べさせた。
「・・・見かけに依らず、せっかちな人きのぉ。第一印象と全く違うじゃき」
坂本が山口にずんずん接近し、耳打する姿勢で言った。自分が厚かましくされてみると嫌悪感は意外と無く、友達の様に打ち解ける。
「大体は見た目通りなんですけど、仕事の非常に速い人で。御国の事になると特に一直線な方なので、寝食摂らずに没頭されている事も侭あります」
「へぇ・・・」
坂本は感心した声を上げた。この男も飄々としていながら其と無しに久坂等を観察している。
(・・・・・・)
文は久坂の背中を見送った後に自らも奥へ引っ込んだが、傾げた頬に掌を滑らせ、後ろ髪を引かれる様に小股で廊下を歩いて行った。
「あ。そういえば、おまん、名は?挨拶がまだだったきね」
「あ!申し遅れました、俺は久坂先生の処に居候させて戴いています、山口 圭一です」
「坂本 龍馬ぜよ」
坂本は改めて山口に自己紹介する。スッと後ろの襖が開き
「そして俺は久坂 玄瑞」
久坂が戻って来た。
「ははは。知っちゅう」
坂本が楽しそうにニカッと笑う。久坂はお前達が自己紹介していたから合わせてやったんだよ、と殆ど表情を動かさずに言うと
「ほら」
と、坂本に一通の書簡をぽいと渡した。
「えっ、武市への返事、もう書いたがか!?」
坂本は懸紙の宛名を見て愕いた。武市からの書簡は一回読まれただけで、温もりきらない侭主人の不在となった座布団の傍に抛られている。
「?ああ、大体解ったからな。書く事も大まかに考えてたし」
坂本は愈々(いよいよ)瞳を輝かせ、久坂と山口を交互に見た。濡れた様に真黒で艶のある瞳の持主だ。
久坂は思わず口をへの字にして山口に訊く。
「山口。お前、何か遣ってみせたのか?」
「いいえ。今の流れからして遣ってみせたのは久坂さんでしょう」
山口も訊かれても困る。坂本は書簡の内容などより目の前に居る志士の正体の方が余程気になるらしく、さっさと書簡を懐に仕舞った。
「併し、俺はてっきりそっちの山口さんの事を久坂さんの弟子かお小姓さんかと思ったき。しっかりしちょるけどまだ相当若いきね?」
「コイツは江戸から来た同志さ」
と、久坂は紹介した。
「江戸?江戸から遙々下って来たって事がか?珍しいにゃあ」
坂本は益々興味を持って不思議がり、ぐいぐい質問を展開していく。
「江戸の方が何かと勝手が良かろうに」
「武市さんから聞いているかも知れないが、江戸には志士がもう居ねぇんだよ。京へ上るか、国許へ帰るなりしてな」
久坂が補足する。後の言葉を山口が継いだ。
「俺には志士の知り合いと言っても久坂先生くらいしかいませんし・・・江戸は天領ですから同志も募れそうにないので、いっそ西国の方へ行って、知り合いを増やそうと思ったんです」
「へえ!おまん、賢いのう!」
坂本はいちいち誉め上手である。久坂も便乗してわざと山口を持ち上げる事を言い
「肥後の宮部さんの御墨付だからな」
「そりゃ、すごいき!」
「ちょっと!!;ヨイショしすぎ!!;」
山口がむずがゆさに身の置き処を無くしていくのを見て愉しむ。
「いやいや。本当の事だと思うぜ。意外にあの人、他人を認める事は其程ないからな。誉めもしないし。がなり立てて怒る事も無いみたいだが」
ちゃんとアフター‐フォローはするが、宮部に認められた覚えの無い山口は更なる混乱を与えられるばかりである。加えて
「まぁ、褒めすぎも良くないきね♪」
と、坂本が何処の道場主かという様な斜め上のフォローをし、其に対して久坂が
「お前が言うのかよ」
と、至極尤もなツッコミをするのに、山口は自ら其に更にツッコんで話の軌道修正を図るのをやめた。宛も双方昔っから知り合っているかの様に息の合う迅速且つ堅牢な馴染み具合の前には取りつく島も無い。
(・・・・・・?)
・・・併し、山口は何処と無く違和を感じる。
「坂本」
もう“さん”付けではなくなっている。
「ん?」
「お前には之から長州藩藩校の明倫館を見学して貰いたいと思う。俺は謹慎中の身なんで付き合えないが、山口が案内してくれる。
長州藩士は教養人は割といるが剣客はそういなくてな。館生を刺戟する意味で、一手合わせて遣ってくれると助かる」
「ほぉほぉ。其処な明倫館で、おまんみたいな理屈屋が量産されるきね?」
「うるせぇ。で、その後ちょっと遊んでこいよ。その方が長州藩の事もよくわかるだろ。山口、お前萩に滞在してもう三月程経つから旨い飯屋とかある程度は知ってるよな?」
「遊び・・・・・・!」
「えっ、まさか本当に、只“遊ぶ”だけ・・・・・・!?」
坂本が食いつく。
松陰は遊びの中にも教育を取り入れ、遊びの中に才能を見出した人でもある。当然彼等はこの方法でも学び、この教育法が無ければ高杉が後世偉人として語り継がれる事は無かったであろう(とある長州藩変人上級武士の破天荒伝説として語り継がれる可能性ならばあるが)。
「おうよ。で、夜になったら叉松下村塾に来いよ。松陰先生の塾生を紹介するぜ。その頃には酒も用意できてる」
「さけ!!」
坂本は眼を煌めかせ、朝餉を掻き込み、ごちそうさん!美味しかったき!ぱちん!と手を合わせる。そして
「じゃあ夜にな久坂さん!山口さん、行くぜよ!」
「え!?もうですか!?」
まだ右手には箸を持っている山口の腕を引っ張って部屋を出て行く。途中で文とすれ違ったのか
「御蔭さんで腹いっぱいになったぜよ!姉さんの味を思い出したき。ごちそうさま!」
と、誉める事を忘れぬ軽い声が廊下から聞えてきた。久坂は暢気に山口、箸置いてけよー。とそこ!?とツッコみたくなる事を言った。軈て、文が室内に入って来る。
「山口から箸は返して貰えたか」
久坂がにやにや笑いながら文に話し掛ける。文もくすくす笑いながら
「はい。通りすがりに」
と答えた。笑い方は違えど、笑顔の多い夫婦である。・・・併し、久坂の笑顔は今日は長続きしない。気を抜いたら無表情になる。
「・・・之も、下げてくれ」
箱膳を下げる準備をする文に、久坂は言った。久坂が手を着けていた食事だ。まだ半分ほど飯が残っている。
「宜しいのですか?」
「ああ」
としか、久坂は言わない。無表情な時が多い以外には特に変化は無い様に見える。併し
「・・・・・・旦那さま」
文は身体ごと久坂に向き直り、心配そうな声で訊いた。
「先程から気になっておりましたが・・・お加減が宜しくないのでは御座いませんか?」
朝食を残した事で、久坂に感じていた些細な違和を確信したらしい。・・・久坂は静かな声で
「・・・・・・判るか」
と、少し変った尋ね方をした。
「其程は多分判りませんわ。年下の方達や・・・初めてお会いした坂本さまは屹度判りません。でも、旦那さまとよく会われていて鋭い方ならば気づくかも知れません」
山口か・・・と久坂は思った。文の言った“年下”とは、松下村塾生や太郎坊など久坂の後輩達や精神年齢が幼い者の事である。
「・・・頭が痛くてな・・・」
ここにきて、久坂は漸く己の不調を吐露した。
「風邪をお召しではありませんか?このところ、雪の日も御座いましたし」
おまけに深々(しんしん)と寒い夜に外出する生活を送っている。昼も午後からは松下村塾で詩経を講じていた。生活習慣が祟っている事は明らかである。
「寝不足からきているのかも知れん」
久坂は欠伸をしながら言った。目覚めの悪さが頭痛と関係していよう。区切の悪い短時間で起された事も関係有るかも知れない。
「無理はしないでくんさんせ。悪化して仕舞ったら、治るものも治らなくなります」
「ああ。坂本は山口に任せてあるし、ちょっと横になってみるさ。不調が表に出たら余計な迷惑を掛けるからな」
久坂の判断基準は之である。併し其が救いでもある。他人への気遣いが結果的には彼自身の節制に繋がっている。
「眠って良くならなかったら多分風邪だ。そうなったら薬を飲むよ」
久坂は坂本の来萩時、体調を崩していたらしい。久坂 玄瑞の書いた日記『江月斎日乗』に龍馬滞在時の詳細が載っているらしく、結局龍馬が萩に居る間体調が戻る事は無かった様だ(なので、別に筆者が風邪ネタを書きたかった訳ではない)。
只、其は当然だと思う部分もあり、日記には騙し騙し活動していた痕が満載で、人が訪ねて来た後は寝込み、人を訪ねた後には寝込みをくり返している。纏まった休養を殆ど摂っていないのだ。其に、晴れ、曇り、雨、雪と萩の天候はまるで安定せず、寒暖の差が激しい日が続いていた様である。
(之は・・・・・・風邪だな・・・・・・)
―――数刻仮眠を摂った後でも治まらぬ頭痛に、久坂は頭を押えた。




