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三十五. 1861年、長州~御癸丑以来~

癸丑(きちゅう)というのは(みずのと)(うし)の干支の組み合わせ。

ここでは癸丑の年を指し、60年周期で訪れる下一桁3の年となる。


彼等の生きた時代に最も近く、最も衝撃的で真先に考え得る年は1853年―――・・・ペリー来航のこの年から15年間を『幕末』と呼ぶ。



「・・・御癸丑以来というのはな、御癸丑の年当初から第一線で活躍されていた方達の事だ。月性さんはその最たるものだな」

この定義に依れば、宮部や松陰も十分癸丑以来の人物と謂えるが、実際は彼等の事をそうとは呼ばない。

癸丑以来の人物と謂えば彼等より前に革命運動をしていた者達を指す事が多い。例えば、薩摩で謂えば西郷 隆盛、長州で謂うなれば月性、肥後から挙げるとするなれば横井 小楠がその代表となろう。

癸丑より前、となればペリー来航以前であり、従って攘夷などという言葉もまだ生れていない。彼等は何れも、攘夷論が盛んになる前は藩政改革に携っていた。要するに、彼等は予てより藩や幕府に対して好い感情を懐いておらず、癸丑後に活動を始める生粋の尊攘家とは志の源泉が少しばかり違う事になる(之は、藩全体に反幕意識の強かった長州や藩主に虐げられた下士階級に志士が多かった土佐にとっては些細な違いだが、藩そのものに対しては特に反感を持っていなかった肥後や飽く迄外国進出を目的としていた薩摩にとっては後に悲劇に繋がる明確な差となる)。

1853年といえば久坂はまだ数えで12程度の年齢なので、その頃より前から藩政に身を置いていた彼等は総じて年齢が高く、貫禄も地位も大いにあり、藩内外で影響力を強く持っている。


「長州はいい土壌を持っている。西郷さんは配流(はいる)され、横井さんも肥後を追い出されたが、長州にはまだ御癸丑以来の方が残っている」

「・・・・・・」

若しかすると、永鳥や松田が横井を排除しようとしている事を宮部自身は知らないのではないか、と久坂は想った。



「その御癸丑以来である月性さんの思想の流れを汲む人に、大楽(だいらく) 源太郎、世良(せら) 修蔵、神代(こうじろ) 直人、来原(くるはら) 良蔵、来島(きじま) 又兵衛といった方々がいるのだ。萩の世間は狭いから、屹度(きっと)どの名も聞いた事があるだろう。彼等も叉、御癸丑より第一線で活躍している。来原さんや来島さんは言う迄も無いだろうが」



来原と来島は長州藩の役人であるし、大楽 源太郎は高杉とは別の筋での幼馴染である。大楽も叉玄瑞や太郎坊と同じ平安古(ひやこ)の生れで嘗て太郎坊にして遣った相手を玄瑞は大楽にして貰っていた。年齢は丁度玄瑞と太郎坊ぐらいの差。大楽が月性に師事していた事も知っている。

「大楽さんの事はよく知ってますよ。子供の頃はよく遊んで遣ってました。あの人、友達いなかったんで」

只、世良に関しては其こそ名前程度しか知らず、神代に至っては久坂にしては珍しく名すらも聞いた事も無かった。

神代 直人は、後に高杉の暗殺を企てる男である。

「遊んで遣っていた方なのか・・・ならば話は早い。御癸丑以来を長州へ引き戻し、藩政府にぶつければ流石の長井さんも今の侭前には進めなくなる。長井さんも齢を重ねてはいるが、御癸丑以来ではないからな。赤根君が月性さんの直弟で御癸丑以来と繋がりがあるから、彼等と締盟したいのであれば橋渡しを(たの)めばよいと言おうと思ったが、之は不要な助言だったか」

「いえ。ありがとうございます」

久坂は不意に開いた口に酒を流し込んだ。赤根が月性の教えも受けていた事は知らず、少し驚いたのである。

赤根は松下村塾に於いても久坂等の先輩に当り、御癸丑以来に最も近い存在であった。久坂が九州遊学中の時期に入塾し、久坂が入塾した頃には京に出て尊攘活動を行なっていた。その際に梅田 雲浜の望南塾に入塾したので古高の先輩にもなるが、赤根はその事についても一切口を開かない。

安政の大獄で捕まり、その関係で萩に帰され、今この会合に顔を出している訳だが、久坂等はこの事情も一切知らない。只、明らかに他の松下村塾生と違う、謎めいたところがある事は皆肌で感じている。

・・・・・・。赤根は独り離れた処で静かに酒を飲んでいる。

併し、御癸丑以来―――・・・松陰以前に活動していた、謂わば松陰より格上であろう長州攘夷の元祖である彼等の事を之迄誰も語らなかったのは不思議を通り越して不自然である。松陰に関しては藩を挙げて庇護する事に奔走したのにも(かかわ)らず、その先輩に関しては存在すら黙殺している様に感じられる。

「・・・・・・桂さんは御癸丑以来の人達の事を知っているんですかね?」

「ああ、知っている筈だ。其どころか、桂さんは彼等の行動を把握できる位置にいる。そして之は忠告だが―――・・・


御癸丑以来との接触を図りたい場合は必ず桂さんの伺いを立てる事だ。彼等と血盟を結ぶのであれば、桂さんを松下村塾生(こちら)の味方につけた後がいい。君達の若さでは御癸丑以来に主導権を取られる」



・・・・・・。久坂と入江は険しい視線で宮部を見た。突如権力の話に切り替ったからである。

「・・・・・・御癸丑以来に松下村塾生(ぼくたち)がついていく形ではいけんのですか」

尊攘派の多くは潔癖な気性を持っている。損益や権力の話を嫌い、そんなものを気にしていては攘夷など果せぬというのが彼等の根本思想だ。現実その通りで、保身に走れば必然、開国一択しか無くなる。仮令(たとえ)刺し違えてでも強大な力を持つ夷狄に屈する事を選ばず、日本人としての誇りを守ろうとしたところが攘夷主義の美しさであろう。其が歴史的敗因であるとも謂えようが。

松陰も宮部も彼等に対してその様な現実的な話を説いてはきていない。若者達の不快な感情に宮部は気づき、若者達も叉、宮部の真意を探ろうとした。


「―――御癸丑以来は爆薬の様な方々だ。正しく味方になれば長州藩は間違い無く攘夷に立ち返る。が、君等が御癸丑以来に引き込まれれば、恐らく君等も或いは君等の方が死ぬ。・・・其程に、彼等は我々の眼から見ても過激だという事だ」

「―――・・・・・・」

・・・・・・考えように依っては同胞殺しより過激な手段は無い訳だが、その手段を好んで使う者達をして過激と言わせる要素とは何か。



「・・・・・・どう過激なんですかね?」

そして宮部は、長州藩の内情について深く知りすぎている。



「・・・・・・月性さんが開いていた塾、その名を清狂草堂(せいきょうそうどう)別名時習館と云って、この流れを汲む御癸丑以来を抜き出して時習館派と呼んでいるのだが、時習館派は活動の時期が早い分、より水戸に近い考えを持っている。即ち『(つくる)』ではなく『(こわす)』だ。成破の盟約では長州藩は『(つくる)』だったろう。

時習館派(かれら)は壊す為には手段を択ばない。其こそ“攘夷”だからな、己の身を顧ぬ事は元より、身内が死んでも露ほども思わない。寧ろ身内を攘夷で死なせて遣る事こそ名誉と考えている部分がある」

宮部はさらりと言ってのけるが眉間には少し険がある。・・・同胞討ちをする彼等でも、同志を進んで死なせる習慣は無い。



時習館派(かれら)の遣り方は出撃(ゆき)はあっても帰還(かえり)は無いのだ。帰還(かえり)の道もその後の策も無い。故に何ものよりも強い。周囲に人が居れば間違い無く捲き込まれる。後は、捲き込まれる人間が、敵か、味方か、或いは関係の無い第三者かの差だな。誤爆や自爆、誘爆を防ぐには、未来(さき)をきちんと見据えた人間が力の使い処を其と無く導く他に無い、という意味で過激―――と言った」



現に本作の主役である久坂、彦斎、宮部は時習館派の暴発に捲き込まれて死ぬ事になる。


久坂の死の舞台となる禁門の変は来島 又兵衛が強行したものであり、久坂のみならず入江や寺島等松下村塾の高弟を道連れにし、肥後勢も宮部の弟春蔵や加屋 霽堅(はるかた)の弟加屋 四郎等八月十八日の政変以降藩の追手から逃れつつ活動していた志士の殆どが死ぬ。この事件に因り、肥後勤皇党は潰滅する。

彦斎は数少ない肥後勤皇党の生き残りとなるが、明治3年(1870)年に大楽 源太郎が山口で元奇兵隊を動員して反乱を起し、その後豊後鶴崎に彦斎を恃んで逃げて来たところを助けた事で逮捕され、二卿事件や維新の十傑の一人である広沢 真臣暗殺等数々の罪名を与えられたのち斬首される。一方で大楽は彦斎逮捕後久留米へ逃げるが、迷惑に感じた同藩士等に拠って斬殺される。

宮部は御存知池田屋事変で命を落すが、彼が池田屋へ赴いた理由は来原 良蔵と交した盟約に由る。肥後勢は志士の数としては大所帯に入るも、薩摩や長州、土佐勢とは違って他藩と絡む事が少なく、個人主義的であった。他藩との盟約も積極的にはしなかったものの、長州藩とは唯一つ『急務條議十三箇條』という盟約を結んでいた。その中に「肥後藩公古より本藩(長州藩)と厚交あることに承及べり、君上は勿論、群臣も亦交互に交はり厚くなりたきこと」(第二條)の一文がある。長州一人の犠牲には肥後一人の犠牲も出すという心中の様なものであったろう。長州が吉田 稔麿という村塾の代表を出した代りに、肥後からは宮部本人が出ている。

来原自身は文久2(1862)年に長井 雅楽暗殺未遂で自害するも、肥後は一度決めた事は決して破棄しない。


時習館派の他の二人も碌な死に方をしていない。


世良 修蔵は1868年の会津戦争の際、会津藩救済を望む諸藩の声を(しりぞ)けて武力討伐を行なった中心人物である。戦死者や犠牲者の埋葬を禁止したのもこの男であり、会津が会津若松市となった現在でも長州藩に対する怨みを忘れられないのは、この男が会津どころか東北諸藩凡ての者の心を踏み(にじ)った事に因る。世良自身はこの会津戦争中に怒りを爆発させた仙台藩と福島藩の藩士に襲われ、瀕死の重傷を負わされた上で斬首される。

神代 直人は高杉暗殺こそ失敗するものの明治2(1869)年に大村 益次郎を暗殺、斬首刑に処される事となる。



「なるほど―――・・・そりゃあ、確かに過激だ」

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