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三十三. 1861年、長州~松下村塾生、集結~

萩中心部は日本海に面し、二方向を日本海に繋がる阿武川分流・橋本川と松本川に囲まれた三角州の中にあり、其等は「鶴江の渡し」と呼ばれる渡し船が用意される程の川幅がある僻地(へきち)であった。降雨や積雪で度々交通が遮断される孤立地帯でもある。

久坂も、この三角州の中で生れ、城下町より少し離れた平安古(ひやこ)という地で育った。現在は旧宅址に石碑が建てられ、石碑の正に真ん前に「久坂玄瑞誕生地前」バス停が在る。

吉田 松陰が住んでいた杉家は、三角州の外、現在の松陰神社に在った。松陰神社の裏手は山であり、松陰はその山の上に生れた。

其処は嘗て松本村と云ったが、三角州の外に出ても三方向を山に囲まれており、参勤交代の際には必ず峠を越えなければならない。

(つくづく・・・・・・いじめだよなー・・・。いじめ、カッコ悪い)

久坂、駕籠を最大限に活用する。この峠を藩主の毛利 敬親も例外無く越えるのである。毛利の家臣団にとっては主の侮辱もいい処だ。久坂の帰る家は、三角州の外に在る杉家。(ふみ)の待つ家である。


「お帰りなさいませ、旦那さま」


文が少女の様な顔つきで出迎える。ぱたぱたと真先に走って来、仄かに頬を紅潮させる。7,8ヶ月振りの帰宅であった。

「おう。ただいま―――文」

達観し切りの表情に急に初々しさが混じる久坂。文が後ろで手を添えて久坂の羽織を脱がせ、其の侭久坂の三歩下がって廊下をついて歩いた。久坂は文を振り返りながら文の小股に歩調を合わせて歩く。

「・・・()っちまったよ」

「くすっ。・・・その様ですわね」

文は困った様に微笑んだ。其はそうだろう。兄・松陰が謹慎で容れられた部屋に、夫・玄瑞が似た様な罪で容れられるのである。之を滑稽と謂わずして何と謂おう。だが、長州藩でなかったら二人とも此の世から一発退場だ。

「・・・誰もいなくなって仕舞った」

久坂は飽く迄飄々と明るい口振りで文に言った。文は松陰の実妹である。久坂は彼女に誓っている事がある。

「・・・・・・誰も?」

文は落ち着いた声で聞き返した。伏せがちのまつげの下にある眼も静かで、飽く迄動じず受け容れている。

「ああ。だけど―――」

久坂は態度も雰囲気も変えず、声だけ低くした。声だけ聴けば、この上の無い真面目さであった。


「松陰先生の遺志は、絶対実現させるから」


・・・・・・文は敢て(おもて)を俯かせて聴いている。

「・・・・・・」

・・・・・・文は僅かに口を窄めて、上の歯で下唇をきゅっと噛みしめた。併しその後すぐに少しはにかむ様に微笑(わら)う。まつげを微かに上げて、襖に視線をちらりと宛てた。

久坂が夫人の見る襖を開く。

「・・・・!」

「―――久坂さん!」

―――襖を開けると、江戸に居る筈の山口 圭一が何故か杉家の部屋に御出(おい)でなすっていた。

「・・・・・・」

久坂はあんぐり大きく口を開ける恒例の顔芸を披露した侭、一歩も中に入る事無く再び部屋の襖を閉めた。

「・・・・・・今、杉家(わがや)に江戸の光景を見た気が・・・・・・?どこでも○○・・・・・・?俺、疲れてんのかな・・・・・・」

「紛う事無き此処はあなたの家です!安心してくださいっ!!」

山口が襖の向うからツッコミを入れる。文は可笑しくて、声を抑えて笑った。

「は!まさかお前、人の妻を―――!?」

「誤解を与える様な展開になった事は謝りますけど、決してそんなんじゃありませんからね!?ごめんなさい!!」

山口が部屋から出て来て弁解する。久坂のにやにや顔が襖を開いた瞬間に視界に飛び込んでくる。文は口を押えるも我慢できずに声を立てて笑った。よく笑う夫婦である。



添水(ししおどし)の鳴る音が少し遠くで聞えた。

「―――其にしても、よく俺が帰藩(かえ)ってる事が判ったな。でも、何でわざわざ(ココ)まで来たんだ?」

久坂が渋い色味の濃い湯呑で喉を潤わす。・・・山口は決り悪そうに、久坂が来る前から文に振舞われていた茶の湯呑を両手で包み隠している。山口のは雪の様に白い色した陶器なのだが、・・・この湯呑、中の茶が微妙に漏れ出すのである。

「吉田先生に聞いたんですよ・・・其よりも、久坂さんが俺より先に江戸を出たのに先に俺が萩に着いた事の方が俺には不思議なんですけどね・・・」

「・・・ん、吉田“先生”?」

と、久坂は訊いた。その気は無かったが、山口は揚足を取られたと思ったらしく

「色々教えて貰っていますからね。だから、吉田“先生”。あ、なら久坂さんの事も久坂“先生”と呼んだ方がいいのか」

「いや何も教えてねぇし。吉田からは何教わってんだよ」

余りに山口が真面目に返答するので、今度はわざとふざける様に尋ねた。が、内心では


(・・・アイツ、何を考えてやがる)


と、鋭敏に思考を働かせている。


「え、とにかく色々ですよ。剣もですし、より実践的な。とても勉強になりますよ。俺は、剣は手習い位しかしていませんから」


・・・吉田に非礼を承知で久坂の見解を述べさせて貰うと、吉田には山口に何か教えるものがあるとは思えない。山口の方が遙かに学があるからである。

吉田の頭が悪いと言っている訳ではない。寧ろあの身分から松下村塾に入り、現在()うして国事に身を捧げる事は余程の聡さと意志の強さが無ければ在り得ない。実際、人を視る眼は松門四天王の誰よりも優れている。

併し、低い身分は確実に稔麿に暗い影を落していた。

稔麿の不幸は、幼少期に適切な教育を受けられなかった点にあった。

無論、現在では文武両面を不足無く修め、第一線の志士というに申し分無い教養と腕を持っている。之は、稔麿が松陰と出逢った後に自分の意思で、必死の努力で獲得したものである。吉田 稔麿という人物の完成には充分すぎる程の血涙を絞った。

けれども、センスばかりは如何にもならない。

ここで指すセンスとは、他者に教えるセンスであり、即ち教養に基いた情報の取捨選択のセンスだ。

詰るところ其は見極めのセンスであり、幼少の頃より大人の人間関係の渦の中で生きざるを得なかった彼は、人間に対する見極めは寸分の狂いも無い。だから松陰や、後に佐倉 真一郎といった我流の剣の達人を見つけてくる。この“人を視る眼”に関しては久坂の方が(やや)難がある。

併し、吉田は人を使う―――人事―――には向かないと久坂は思っている。どれだけ有為な人材を集めようとも、否有為な人材が寄ればこそ、吉田は窮地に陥る気がするのだ。有為な人材は集められるが、与える情報の質と量を誤る予感がする。『玄斎流』延いては河上 彦斎と長井の暗殺を一括りにして見ている様に、解釈に何処と無く飛躍があり、情報を理論で細切れに出来ていない。宮部の言っていた“学”の本質とはこの事だろうと久坂は想う。


要は観念的(イデオロギー)なのだ。


吉田一人の理解で完結させるなら其で構わない。だが、他者に教え伝えるとなると、方向を見誤る可能性が出てくる。例えば、剣を教えるのに剣術ではなく暗殺技法を仕込むという様な。

之等のセンスは決して特別な才能などではないが、幼い時からの積み重ね―――教養―――が非常に大切になってくる。味覚(した)を鍛える事と同じである。臨界期があるという事だ。

吉田に非は無い。寧ろ藩―――否、藩は過干渉と言わずも(ひら)けてはいる為、どちらかというと親の教育の犠牲と謂える。教育の機会と引き換えに人を視る眼を得たとも謂えよう。


(・・・・・・)


更に、吉田は目的意識の高い人間である。言い換えれば、久坂以上に過激派の要素を含んでいるかも知れない。久坂の眼から見ても、目的の為には手段を択ばぬところがあった。桂が久坂に(いだ)いている懸念を久坂は稔麿に懐いている事になる。

何を考えている、という危惧は、思考が読めない意味ではなく吉田が山口に妙な事を教えていないか事を指す。なまじ山口は向学心高く呑み込みも早いので乗せられ易い。こちらが弁えなければ山口を藩の問題に捲き込み兼ねない。


「へぇ~?」

久坂は自ら尋ねておきながら興味無さげな返しをした。山口は脱力し、

「何なんですか、もう!」

と、叫んだ。

「で、何で来たんだよ?」

話を元に戻す。久坂は内心不満であった。山口に江戸探索を恃もうと思っていたのに。という事は、この男は叉山口をほったらかす心算(つもり)でいたのか。

「江戸には吉田先生以外居なくなって仕舞いましたからね。志士は西の方が多いと聞きますし」

「何だ、吉田じゃ物足りなかったのか」

「ちょっと!;」

山口はツッコみはするが否定はしない。如何やら図星の様である。大変正直で宜しい。

「久坂さんも長州(くにもと)へ帰れば同志(なかま)が居るんでしょう?紹介して欲しいと思って(ココ)まで来たんです。俺は、志士としてはまだ駆け出しで知り合いとかいませんし」

「なるほど」

と、久坂は納得して懐手で顎を摩った。そこは考えが及ばなかった。久坂の場合、自ら売り込まなくても志士と認識されていた。

「だが、俺は自由に動けんし、長州自体が今は俗論に沸いてるぞ。松下村塾の塾生(なかま)も、息を潜めているだろうしな」



「誰が息を潜めちょるて?」



「!?」



添水の鳴る音より遙か近くで、長州藩から一歩も出た事が無い様なひどい訛り声が聞えた。

襖が開いて一人分の足が滑り込んで来る。だが其だけでなく、どたどたと廊下を複数の足が踏み固める音が近づいて来た。複数どころではない。床板が抜けんばかりの数の足音が囂囂(ごうごう)(あわただ)しく此方へ迫って来ている。


「・・・・・・!」


久坂は我が眼を疑った。之迄全く連絡の取れなかった入江 九一が目の前に居る。彼の後ろには弟の野村 和作が。彼等兄弟は兄が謹慎処分を受けた後、師・松陰の遺志を果すべく再度間部 詮勝の暗殺を実行しようとしたが、叉も事前に察知され、岩倉獄へと繋がれた。出て来られたのは最近である。


入江・野村に続いてぞろぞろと、杉家に人が押し寄せて来た。まるで在りし日の松下村塾の様に。寺島 忠三郎、有吉 熊次郎(寺島・有吉ともに禁門の変にて自刃)、伊藤 俊輔、山縣 狂介(有朋)、品川 弥二郎、山田 顕義、杉山 松助(池田屋事変で死去)、駒井 政五郎(戊辰戦争で土方 歳三率いる衝鋒隊と衝突し、戦死)、前原 一誠(萩の乱を引き起し、処刑)、赤根 武人(幕府側に寝返る、1866年、新選組の長州入りに協力した(かど)で処刑)等、皆松下村塾で学んだ者達だ。


「みんな―――!」


「お、帰って来た様だな」


長州藩に講師として雇われている宮部 鼎蔵(ていぞう)が顔を出した。

「宮部先生!」

「遂に、遣らかしたな」

「・・・はい」

久坂は若干気恥かしそうに答えた。宮部は取り乱さない。寧ろどこか愉快そうだ。松陰の弟子だから(いず)れ遣らかすと思っていたのかも知れない。

宮部は見知らぬ人物を連れていた。常に会釈をした様に腰を屈めた気の弱そうな男と、子供。―――子供の顔を見た時、久坂は幽霊でも目にしたかの様に半開いた口をわなわなと震わせ、垂れた目尻をつり上がらせて愕いた。


「・・・・・・ぼ・・・(ぼん)!?」


全体的にふくよかで丸っこく、如何にも腕白なガキ大将風の少年である。

「よっす玄瑞!帰って来たんだなお前!」

「お前は相変らず生意気だな。てかその齢にして喋り方がオッサンくせぇよ」

『太郎坊』こと桂 太郎。この齢11歳。活躍するにはまだ若すぎたが、松陰と無関係な訳ではない。太郎坊の叔父は松下村塾のスポンサーをしていた縁がある。

叉、久坂とは太郎坊が幼い頃に同じ平安古に住んでいた事から旧知の間柄だ。てか昔相手をして遣った。もうだいぶ昔の事だが。

「何でお前が宮部先生と一緒にいんだよ??」

「俺だって知らないよ!あきんどの商売に付き合ってやってたら、いつの間にかついて来てたんだ!」

「お前なぁ、もちっと口を謹めよ」

久坂が太郎坊のもちもちほっぺをみゅーみゅー引っ張る。ひっひゃふひゃ。痛がる様子も無く白いおもちはどこまでもよく伸びる。

江戸で同志と居た時とは叉違う久坂が見られる。

「あきんど?」

山口が透かさず不思議を口にする。宮部と入江 九一こそ不思議の顔つきで山口を見下ろした。・・・誰?と言いたげである。

入江 九一等松下村塾一同は宮部が連れている商人(あきんど)然の男の方も知らない。

「―――む、若しかして、君が山口 圭一君かな?」

宮部が首を竦ませて、今度は覗き込む様に山口を見た。他の者達は俗論派の仕打もあって少し(ばかり)身構えるが、宮部は之にもたじろがない。寧ろ興味に瞳が澄んでいる。

「ええ。・・・彦斎から報告あったんですか」

久坂は彦斎より忠告を受けて以来宮部に文を送るのを控えていたのだが、彦斎には山口という新しい同志が出来た近況を以前伝えた。彦斎が間に立って宮部に文を送る分には別段怪しまれる事は無い。

「ああ。―――見たところ、可也若そうだが。何歳(いくつ)だね?」

「16です」

“可也若そう”と言われる事自体が山口少年には珍しい。・・・瞳を大きくして、すぐにはきはきした口調で答えた。宮部はほう―――と息の混じった声を上げつつ、吟味する様に暫く山口を肥後人共通の細い瞳孔で見つめていたが、(やが)

「・・・久坂君といい、最近の若者は随分と早熟(ませ)ているのだな。乱世がそうさせるのか」

と、可笑しみを込めて笑った。? 山口は首を傾げる。

「如何いう事ですか宮部先生」

久坂はにやにやしながら言う。宮部は山口の思想の源泉をすぐさま看抜(みぬ)いたのだろう。御眼鏡に適った、というところか。

宮部は慇懃に頭を下げると

「私は宮部 鼎蔵、肥後出身だ。之から宜しく、山口君」

と、恭しく言った。山口も宮部の事は久坂と稔麿の会話から断片的に聞いている。無骨な外見と違って気さくな人だな、と思った。

「其で、此方の御仁だが―――」

あきんどの存在をすっかり忘れていた。宮部に触れられる迄思い出さなかった。山口だけじゃない。久坂も、入江等松下生もだ。

だって、存在感うっすいんだもの。

「・・・・・・;」

「・・・・・・」

存在感が薄いだけならまだまだかわいいものである。このあきんどは、宮部と太郎坊の後ろに隠れてガクガクブルブル姿さえ現さない。



「ーーーあきんどっ!!」



太郎坊が力尽くであきんどを前へ引っ張り出す。ひょろひょろで身体もうっすいあきんどは太郎坊の力で簡単に前へ出されて仕舞う。

「あっ・・・」

あきんどはもじもじしながらぺこりと頭を下げるも、(ども)る。・・・一応この男、筆者の別作品では主役を張っているのだが、こんな態でよく主役を遣れたものである。

久坂はおぉこりゃ叉個性的なヤツが来たもんだ、と殆ど通常運転であきんどのシャイが引き起す独走ぶりを見ていたが、


「―――ん、宮部先生、若しかしてこの人が―――?」


「ああ」

宮部は肯いた。



「彼が古高 俊太郎君―――・・・前に言った、梅田 源次郎(雲浜)の弟子だ」

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