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三十二. 1861年、江戸のつづき~帰国処分~

『左様か。承知した』


肥後藩の役人は継紙の束を見て納得すると、彦斎に返した。

『其にしても、河上は本日非番であったか。この頃は「天誅」たるや拡大し、薩摩浪士の侵入も増えておる。薩が犯人であるかは知らぬが、どの連(党)の者が斬られるか愈々(いよいよ)見当がつかぬ状態だ。無差別の強盗も増えておる。河上も、御新造さんを夜に独りで家に置くのは控えたが宜しかろう』

『・・・御忠告、感謝致しまする。貴方様の気遣いに、ていも、この様に喜んでおりまする』

彦斎の背後で、細身の女性が指先を床につけて頭を下げる。女性が顔を上げると、役人達は仄かに頬を染め、たじたじと部屋を出た。役人達を門の先まで送り、戻って来た彦斎を女性が迎える。

『・・・ていどの』

・・・彦斎が名を呼ぶと、面を伏せていた女性が静かに顔を上げた。河上 彦斎の妻・ていである。

ていという真の女性を前にしては、矢張り彦斎も男である。そう思わせるだけの器量がていにはあり、立ち上がると彦斎と背丈は変らなくも、より可憐な印象を与えた。

『お役人はていどのの言う事ならばすぐに利くな。僕が幾度説明しても利かぬのに』

『当然です』

と、ていが間髪入れずに答えた。彦斎は面喰らう。肥後もっこすは一般に男性的な性質を表すが、男女双方に遣われる言葉で、彦斎の妻だけあって彼女も一度決めたら梃子でも動かぬ男勝りな一面をもっている。その一面が最も発揮されたのは彦斎の死後で、犯罪者の遺族という世間の冷たい視線を受け一児を抱えて困窮した生活を送る中、明治政府より援助金を「下賜」するという通達を受けたが、(かつ)ての同志に向かって「下賜」という如何にも成金の様なその姿勢を気に入らず、援助を断わったというエピソードがある。

『男(彦さま)が男に色目を使う事が出来る訳がありませぬ。若し出来れば、(あたし)の立つ瀬が無くなって仕舞いまする』

『お役人に色目を使ったのか』

容貌からはとても想像できぬ、驚く事を口にする女である。

『何という事をしてくれる。そなた、夜這いをかけられるかも知れぬぞ』

『はい。ですので彦さま、今夜はお仕事はお止めになって、ていと一緒に居てくださりませ』

『!』

『―――嘘』

・・・ていは円らな瞳を細めて、くすりと悪戯っぽく微笑んだ。

『肥後の(おのこ)に左様な度胸があるとは思いませぬ。(あたし)ひとりでこの御家は守れます。彦さまはどうぞ、御国の為のお仕事を』

・・・。役人より忠告を受けても猶、彦斎のする事は何も変らない。彦斎はどこかていを突き放し、一方でどこか委ねている様でもある。

『なれど、良人(おっと)が不幸になる事だけはこのてい、許せませぬ。薙刀の稽古にお付き合い為されよ、彦さま。足りないところを埋めて差し上げます。そちらをお修め為さってから、肥後を離れなさいませ』



「!」

佐々 淳二郎は振り返り、周囲を見廻した。

「・・・・・・・・」

・・・・・・佐々は近くから遠くを見、更に頭上等通常は視線がいかない処にも眼を遣った。・・・この所、誰かに見られている様な視線を感じる時が侭ある。

・・・・・・。佐々は目を伏せ、再び前を向き足早に進む。城下町を歩いていたので途中で人とぶつかり、済まんばい、と妙に吐息の多い声で呟くと、相手はその低い声か彼のその身形だかに気後れした様で、挨拶をする事無くそそくさと過ぎ去った。慣れた反応である。

()て・・・)

佐々は短い己の散し髪をさらさらと掻き上げる。

(・・・そろそろ藩内(オレ)にも探索の眼が光り始めたか。こら、永鳥しゃんに居て貰わないけんかもしゆんな)

肥後は教育や法の面を除けば土佐に極めて近い風土をしている。幕府が吹かせる逆風は彼等に対しても厳しく当り、彼等は夫々(それぞれ)の岐路に立たされる事になる。




今や長州の後ろ盾の無い久坂にも叉、幕府の盛り返しは容赦無い向い風となった。

文久元年長月四日、高杉 晋作、桂 小五郎、久坂 玄瑞会談。長井が江戸に来る予定の日の3日前の事である。叉、久坂が江戸を発つ3日前の出来事でもあり、この日、久坂は桂より萩への帰藩命令を受けた。



「帰藩―――・・・!?」



・・・・・・ 久坂は水戸浪士の件の時と同じく聞えない振りをし、・・・おい、高杉。と仕切り直そうとした。桂とはあれから口を利かぬ様な子供じみた報復行為こそしていないものの、果然関係はぎくしゃくしたものになっていた。一方で高杉とは従来の関係を保ち、部屋には勝手に上がって来て我物顔で(くつろ)ぐしくだらない話はするし久坂も気にせず手紙の返事は(したた)めるしで、依然として同志の様な心持でいる。(しか)(なが)ら高杉の表情は、何だか浮かない。

久坂は長井暗殺も已む無しと考えている事も、彦斎から暗殺法の教授を受けている事も、不自由している情報を肥後(かれら)を経由して収集している事も全て、高杉に喋って仕舞っていた。高杉は幼馴染であり、志を確認し合った仲であり、互いに性格を知り尽した間柄である。高杉が寝返るなんて事は、夷狄が九州を支配して本州の西端長州に上陸して隷属せよと迫られても在り得ない事だろうし、寝返るなら寝返るで「寝返る」と宣言してから大袈裟な位に(あからさま)に寝返る様な男だ。詰り、高杉が久坂に一杯食わせる事など皆無と謂っていい。

只、其でも


『久坂』


―――と、高杉が高杉らしからぬ口を挿む事が幾らかあった。若しかすると、其が高杉なりの忠告(ヒント)だったのかも知れない。


『肥後を捲き込むのはどうかと思うけどなぁ』

と、高杉はぼやいた。この様に、高杉は長州人と他藩人を明確に分けたがる癖がある。久坂にはその癖が全く無く

『?いや肥後人とかじゃなくて、同志だから』

と、返す。久坂にとっては肥後人も土佐人も水戸人も全く関係無く“同志”という一つの枠に一括りにされている。叉“同志”は彼にとって最上の関係でもある。藩の括りを付けない事は政治的意図を一切考慮しない事に等しい。

(むし)ろ、肥後人を捲き込んでいるのは宮部を抱き込んでいる長州藩上層部であり、自分は只“同志”と遣り取りをしているに過ぎない。だが、高杉は

『お前がその心算(つもり)でも、藩のお偉いさん達はそうは思わない』

と、きっぱり言い

『稲荷から教えを受けている事は聞かなかった事にしとく。だけぇ、お(みゃー)も他藩のヤツらに計画をぺらぺら話すなよ。藩内でもこんなに分裂してんのに、他藩に松下村塾生(オレら)と同じ考えをしているヤツがそういる訳無いんだけぇな』

と、重ねた。久坂は逆の考えだった。他藩にこそ自分達と同じ志の者が在るのではないか。宮部こそがよき例である。武市だって、松陰の唱えた草莽(そうもう)崛起(くっき)の精神に深く感激してくれた。

久坂の人生を見返してみると、齢相応の失敗や裏切に其形に遭っている。この点、役人経験があるからか高杉の方が聡かった。

詰りは・・・この議題に関しては高杉に軍配が上がるのだが、その出来事は叉後に書く。


桂は引かない。稔麿を一喝した時と同じ剣幕で久坂を睨んでいる。露見(バレ)た、と悟った時、久坂は

「・・・おい、高杉―――」

と、高杉を思わず見たが、先述した様に、高杉は自分から裏切行為に走る様な男では決して無い。

「・・・・・・」

・・・久坂は高杉を見たすぐ後に、桂を睨んだ。

「―――君が今思った通りだ、久坂。君の計画は高杉を通じて、私に筒抜けになっている。長井さんは七日に確かに此処江戸長州藩邸に来られる。だから、君には入違いに長州に帰国して貰う!」

「・・・ちょっと卑怯な手が多すぎやしませんか?桂さん。幾ら高杉が下に付いたからって、何にでも好きに使っていいという訳でもないでしょう。確かに高杉から俺の情報は得易いだろうが、高杉の感情はどうなるんでしょうねぇ?部下を蔑ろにしていると、いつか痛い目みる事になりますぜ」

「主君毛利家家臣の先輩に当る長井さんの暗殺を計画している君に言う資格など無いと思うが」

「!!」

桂は完全に反逆者に対する視線で久坂を見ている。久坂にとっては飽く迄最終的な選択肢である暗殺(それ)も、桂は()ると決めて掛っていた。



「・・・久坂。君はいつから暗殺(そんなこと)を考える様になった。君が内の者に敵愾心を懐くなど之迄無かった筈だろう。


―――・・・誰に吹き込まれた?」



桂も叉、かわいい後輩が自主的に自らの藩を攻撃する計画に至るとは思わなかった。思いたくなかったのもあるかも知れない。

「―――河上さんとの書簡の遣り取りが最近は多い様だが・・・?」

「桂さん」

久坂は珍しく自身がかっとなるのを感じた。高杉の言った事は本当だ。

「なら、彦斎の書簡を読んでみますか」

久坂は半ば桂に詰め寄った。桂とて肥後人の気風には幾度と無く触れている筈である。その気風を利用しているのは何処の誰か。

彼等の気風を知って猶彼等を疑うか。

「・・・・・・いや。そこまでする必要は無いと思っている。私は肥後勤皇党を信じている」

だが、桂は結局のところ松下村塾生ではない。松陰の思想を継いでいる訳ではないのだ。久坂等と違い、松陰の理想を歪まぬ侭胸に抱いている肥後勤皇党と何処かしらの距離を感じるのはある種必然と謂えよう。

だから、桂はこの時彦斎の書簡を確認しておくべきだった。さすれば、桂も彦斎へ懐いた疑念を少しは軽減できていたかも知れなかった。

飽く迄誰も血を流す事の無い方法で革命の道を模索する桂と、守るべきものの為には自らの手が汚れる事も辞さない彦斎に相容れるものなど無いのだから。

桂のこの刻の決断が最終的に明治に入って、彦斎を死に追い遣る事になる。


「とにかく、久坂。君には長井さんが来られる前に江戸(ここ)を出て貰う。―――長州人の血を長州人が流す事は、断じて私が許さない」


久坂と桂が(いが)み合う。桂の使う手が罪の無い遣り方だと久坂には到底思えない。

・・・久坂は嘲笑する様に片側の口角のみを上げた。一方でその眼は、桂の眼を捉えて一寸たりとも逸らす事を許さず、瞬き一つしない。


「―――わかりました。帰国しましょう?只、桂さんの遣り方は、場合に依っては死んだ方がましだと思うヤツが出てくるんじゃないですかね。そうならない事を俺は願っていますよ」


・・・・・・桂が表情を歪ませる。藩命に久坂は逆らえないが、遣り込めたのは久坂の方だった。

久坂は高杉に言伝を頼み、萩帰国の報はすぐに稔麿の元にも届く。



文久元年長月七日、久坂は長井と顔を合わせる事無く江戸を発つ。そして、萩にて謹慎生活を送る事となった。

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