三十一. 1861年、江戸のつづき~暗殺への入口~
彦斎に暗号対照表を送り、その表を元に指南書を作って貰った。久坂は通常の書簡と変り無くそらですらすら読み下せた。其を玄斎流ならぬ玄瑞流に翻訳して紙に纏め、山口に稔麿の居る柴田家まで届けて貰った。何れの文も書いた物を重ねていけば其が其の侭一冊の本になる様な体裁になっている。
ボッ
併し、彦斎からの文はすぐに燃やす。時折、小森 彦次郎という名の人物より文が届くが、其も叉彦斎である。小森が指南する事もあるし、彦斎が取り留めの無い文を送ってくる事もあるが、孰れにしろ暗号で書かれた方は炎にかけた。
ジ...
「・・・・・・」
・・・・・・白い紙が緋い炎に包まれてゆくのを、久坂は静かな視線で見つめていた。紙は縮れ跡形も無くなり、文字通り灰へと帰した。
之が久坂 玄瑞の死様である。
河上の剣は禁門の変で炎を断つ程の威力を発揮したが、一代の剣で玄斎流は終った。あれは天賦の剣であり、他者に剣技を使い熟せるものではない。
剣術は、技と、極意と、技や極意を決定づける為の教養・学問があり、其を継承させる事に依って初めて成り立つものであり、例えば北辰一刀流は剣の極意を「神秘性の排除」とし、極意に伴う合理的な剣の技を形成づける根底の学問は「朱子学」であった。そして、その「朱子学」の精神は、尊皇攘夷と大いに関係してゆく。
玄斎流は継承できる剣の形が存在しない点で、流派としての基準を満たしていない。と、いうよりも、彦斎自身にそこ迄の意識は無かったのであろう。彼自身は矢張り、人を斬れれば其で良しとしていたに違い無い。刀の目利きに関する逸話からも、剣は彼にとって手段に過ぎなかった事が窺える。
とはいえ、玄瑞が『玄斎流』と呼ぶだけあって、根底に流れる極意や学問は朧げながらある様で、極意を敢て名づけるならば「神風」であろう。身一つで敵に突っ込んで行き、間合を詰めてから初めて剣を抜き一瞬で敵を薙ぐ。その剣の形には僅か抜刀術の特徴が残っていた。其を支える学問は、矢張り神道(皇学)の様だ。
暗殺剣なだけあって、剣術そのものよりも相手との距離、歩幅等の歩き方、剣や相手の角度、速度、握力等、刀を抜く迄の過程について紙面を割いている。後は一太刀を終えた後の身の引き方、相手に気配を覚られる範囲、立ち合っての戦いと背後から奇襲をかける際の剣の抜く速度とタイミングの違い等を記述していた。
「なるほど・・・」
・・・少し兵学に通ずる部分があるなと思った。兵学も叉、実戦は始って仕舞えば十の力をぶつける他は無く、鍵を握るのはその寸前の束の間の平穏だと説いている。尤も之は、兵法家からも異端児扱いされる『妖怪』火吹達磨・大村 益次郎の教えであるが。
「忍の業に少し似ているところがある気がしますけどね、これ」
久坂が長州派系に改造した其を読んで、山口がぽろりと感想を漏らした。今日は久坂も教授の為に柴田家へ来ている。
「そうなのか?」
久坂はにへらと訊いた。残念ながら忍術はよく知らない。忍の事を如何も快く思わない様である山口は、発言した事に後悔したらしく
「・・・まぁ、よく知らないですけどね?」
と、気の無い返事で突き返した。久坂はからかいたげである。
「久坂・・・何なんだ、この『間合を一斎』『速度一斎』というのは」
稔麿が困惑した顔をして久坂に訊く。久坂はどれどれ。と紙を受け取って
「ああ、之は一斎分の間合に近づいた時、一斎分の速度で突っ込み、一斎分の速さで刀を振り下ろせば相手に覚られずに倒せるという事だな」
と、何て事の無い様に言った。
わからぬ。
わかりません。
双方から野次が飛んだ。
「何でだよ。解れよ」
「何をどう解れと!?」
「『一斎』とは一体何なんだ・・・?」
双方から猛烈なツッコミを受ける久坂。久坂はあーと耳にキンときたのかうるさそうに耳を押え
「一斎変換表はこの様になっている」
と、訳の解らない事を言い出した。
久坂から渡された変換表を見ると、『間合一斎何間』『握力一斎何貫』という様に同じ一斎でも単位が違う。
「何でこんな事・・・・・・」
「いやぁ彦斎のヤローがな?我流の所為か一人称がやけに多くて、斯う遣ったら上手くいった的な書き方が多いんだよ。いちいち距離とか角度とか計測して予測も立てているのはエラいと思うが、全部アイツの基準で書いているからどうにも翻訳し難くてなー」
『はい!彦さま、止ってくださりませ。其の侭、其の侭でお願い致しまする』
『!・・・・・・』
彦斎がぴとっ、と動きを止める。計測者は、彼女自身よりも大きい薙刀を扱う彦斎の妻・おていさんである。
「・・・何でお前はそんなに偉そうなんだ。教えを乞うている身なのに」
「いやーもう少し別の方法はなかったのかなーと思ってさ」
久坂が顎に手を当てて呻る。要するに、歩幅一斎は彦斎の一歩あたりの足から足への幅、握力一斎とは彦斎が柄を持った時に掛ける力。
「・・・吉田は背丈が1.2斎位あるから、感覚的に捉えて1.2斎倍は敵に気配を感づかれ易いだろうな。その解消方法としては1.2斎倍の速さを身につけるか、1.2斎倍の・・・云々。という感じだ。猶、他の要因が掛け合わされれば単純に1.2斎じゃなくなるからそこはこの一斎法を基に柔軟に変えていく必要がある」
「・・・・・・?一斎法・・・?」
「久坂さんも、何か他にいい方法があったんじゃないですかね・・・計算問題を出されている様な気分ですよ・・・」
山口が角度的にも速度的にも的確なツッコミをする。併し之が案外、敵には解読しづらくてよいのだ。
彦斎も屹度、玄瑞の依頼を受けてやや戸惑ったのだろう。頑張って体系化した感が満載だが、明治に入ってからの有終館時代には教え方がだいぶ改善されている。
「・・・其で、其がその彦斎さんへのお返事と・・・・・・」
山口が、久坂が継紙に描いている絵について指摘する。
「・・・・・・」
・・・・・・彦斎はもう閉じた目を再び開くのも億劫になって、糸の様な細い視線で広げたばかりの文を見下ろす。もはや文章が無い。なんかよくわかんない絵だけがもっさりと紙面を支配している。
・・・彦斎はすっと立ち上がると、ぴしゃっと押入の戸を開いて広げた侭重ねている文の束を掴み上げる。彦斎も叉、小森に宛てた文は燃やして此の世から消滅させた。
絵しか無い文という非常に矛盾に満ちた紙をどかして、どしゃ、と文の束を文机に落した。文の束の一番上も叉絵のみであり、先程の文と絵に大した違いが見られなかったが、其よりはもっさりが小さい。
最新の文を一番上に載せて、総ての文の端を手で抱え、ぱらぱらと高速で其を捲った。
―――もっさりとした何かが右へ左へ滑らかに移動し、更には跳躍して着地したのちどーんとドアップになる。
・・・・・・彦斎は益々(ますます)そのくだらなさに眉をひそめた。
「・・・・・・しょんなか」
「・・・・・・」
稔麿が、その絵が他人に送る書簡だと知って愕然とする。声すらもう出ない。
「・・・ーーー其で、文字どころか差出人の名前も書かないんですか!?」
「書かない方がいいんだよ。筆跡・・・はまぁ多分誰も気にしないだろうが、俺の名前が入っていると何かあった時に足が着くだろ。
絵だけだと若しコトが露見て万が一彦斎の方に追及がいっても・・・」
『ん、あーその紙は近所の子達が描いたもんたいね。最近の子はこぎゃん継紙で絵ば描かすとよ、すごかね~』
彦斎がやけにベタな熊本弁で喋る。まぁ、ここ迄は久坂の想像なのでしょんもない。彦斎の後ろには小柄で細身の女性が控えている。
「って、言い訳できるだろ」
「・・・其、自分で言ってて虚しくなりませんか・・・?子供と同程度の画力だって自覚はあるんですね・・・・・・」
玄瑞画伯節が炸裂している。久坂は笑いながら連載漫画の続きを懸紙で包むと、山口にぽんと渡す。んじゃお遣いな、と言った。
「まぁ、多分、相手も中を見れば久坂さんからってわかるでしょうけど。独創的すぎて」
山口が言いながら何の疑問も懐く事無く久坂から受け取る。お前は出版会社の漫画編集者か。
「差出人の名を気にするも何も、相手もお前と同じ様にその都度文を燃やしているんじゃないか・・・?」
稔麿が漸く茫然自失の境地を脱して声を発する。山口もうんうんと肯いた。すると久坂は急にキリッと険しい表情になって
「・・・そりゃ残念だ。折角の俺の作品群が」
と、宛も本当にがっかりした様な声で言った。本音は絶対どうでもいいに違い無い。
「はぁ・・・じゃあ、俺は飛脚に出しに行って来ますよ。速達ではなくていいですね?」
「おう」
山口が呆れながらも職務を全うしようとする。久坂が肯くと、気軽に立ち上がりすぐに部屋を出て行った。
し ん ・・・
山口が居なくなった後の部屋は、暫し沈黙に包まれる。
「・・・・・・いいのか」
紙を捲る音だけが聴こえる程に周囲の雑音が無くなる事を確認してから、稔麿は久坂に訊いた。久坂は自身が認めた本を読んでいる。
「何が?」
「河上さんの事を山口に教えて。『玄斎流』の事は、長州派志士以外には知られてはならないのではなかったのか」
「・・・暗殺の事は、そりゃそうだ」
久坂は本を捲る手を止めると
「・・・吉田」
と、低い声で名を呼んだ。・・・ばらん、と綴じられていない紙達が久坂の手の中で時間差で閉じられる。
「山口は同志だ。そして、彦斎も俺にとっての同志でもある。俺は互いに同志の事を知って貰いたいと思っているんだけどな。
玄斎流は同志が遣っている剣なのであって、玄斎流自体は別に何ものでもない剣の筈だろ。玄斎流自体は知られても、山口が何かに悪用しようとしない限りは無害な剣の筈だ。其は他の流派の剣も同じだろうさ。
長州藩上層部や佐幕派ならいざ知らず、同志だぜ。憚られるべきは、彦斎や玄斎流じゃなく、殺ろうと考えている俺達自身のあくどい心だ。そこは勘違いしない様にしないとな」
久坂は自他を戒める様に言った・・・稔麿の内にある何かを危惧している様でもある。