参. 1857年、長州
「1857年、長州」
玄瑞は萩に帰るとすぐに松陰に宛てて手紙を書いた。併し最初は手探りで、月性にも宮部にも従学は奨められたが只其だけで、松陰は玄瑞のげの字も知らない。と、玄瑞は思っている。そこが玄瑞の謙虚なところで、萩城下にて彼の英名轟いても決して天狗になる事は無かったが、併しプライドは非常に高い。素直に教えてくれと乞うのは玄瑞自身の矜持が許さず、書き出しに非常に苦労した。
―――対等な議論を交したい。
宮部にはいい様に躱されて仕舞ったが、其が玄瑞のプライドに火を点けた。自身も論ずる事は出来る、何も与えられてきたもののみを享受しぬくぬく育ってきたのではない。長州の歴史も知っているし、黒船来航の事案も人伝に聞いて知っている。今の日本の情勢に、何も思わぬ筈があろうか。
そこで、玄瑞は先ず松陰の肚を定めようとした。そこは流石に策士というか、玄瑞少年の若気の至りというものが滲み出ている。
『弘安ノ役ノ如クヨロシク洋夷ノ使ヲ斬ルベシ』
玄瑞は黒船来航の話を基に、いわゆる攘夷の魁となる論を展開した。玄瑞が尊皇攘夷の思想に走ったのは何も苟且なのではなく、兄の玄機とその友人達が時勢を語る時には決って攘夷の話であった。玄瑞が論ぜると思うのは、兄達の議論の場に交ぜて貰って日本の情勢をよく知っていたからだし、友人達の師である松陰は当然攘夷の人間である筈だった。更に、天誅と言った宮部に対し、下す相手は誰かと尋ねると、「第一には、洋夷」という言葉が真先に返ってきた。自分の論が偏っているとは絶対に思わない。
が、松陰からの返信には
『付け焼刃で裏づけの無い知識を適当に組み合わせて出来上がる文章のいい例を見せて戴きました。後日、僕の開く塾の授業にて悪い例として紹介させて戴きます』
と、書かれていた。
「―――な゛!?」
玄瑞は之迄の人生で一度たりとも上げた事の無い声を上げた。
自らの意見は述べても失礼な物言いはしていない筈だが。余りに痛烈な皮肉に玄瑞は思わず自分が何らかの失態を犯したのかと思った。書いた内容を精確に憶えておく為に自分用に書写したもう一通の松陰宛の手紙を見返す。この辺りでも玄瑞は抜かり無い。
が、松陰から送られて来た手紙の懸紙(封筒)にもう一通手紙が包まれているのに気づく。松陰に送った自分の手紙が松陰の自分宛の手紙と一緒に送り返されていたのだった。
『こちらの手紙はお返し致します。僕に送ったこの手紙を貴方自身が読み返し、詰らぬ迷言を費やす自分を反省して、至誠を積み蓄える事を僕は望む』
そう書かれた切紙(メモ紙)がひらひらと宙を舞い、玄瑞の足下に落ちる。・・・玄瑞は下を向いて暫く床の切紙を見下ろしていたが、突き返された手紙をぐしゃっと攫み取り
「―――言ってくれるじゃねぇか・・・・・・!」
と手紙を握り潰した。“学”が無いに付け焼刃の知識だと!?秀才・玄瑞を宮部だけでなく松陰もがけちょんけちょんにしてくれる。松陰に至っては『こういう文章を書く人間を最も嫌う』とまで述べている。
「ちくしょう・・・っ!」
玄瑞はすぐさま筆を取り、猛烈な勢いで継紙を黒で潰した。
『義卿(貴方)の誠(僕)に対する皮肉は、憤激の余り出づるものと解釈し、義卿を責めはしない事にしましょう。が、義卿の言う事はただ感情的なものにしか思えず、論というものには程遠い。宮部先生が義卿を絶賛していましたが、その理由が解らなくなりました。誠は義卿に送った手紙の論に誤りがあるとは思いません』
玄瑞は勢いに任せて書き散し、感情が冷めぬ内に手紙を返した。突き返された手紙や松陰が書いた手紙も内封して。
返事が来るか内心やきもきしていたが、一週間という無視というよりも忘れられていたのではないかと勘ぐりたくなる様な期間を開けて、松陰からの返事は来た。以下の様な内容である。
『まだ論を掲げる心算でいるのですか。貴方は論を語る前に何か一つでも事を為したか。行動に移しているのなら、そう簡単に夷狄を攘うなどとは言えない筈です。貴方は安全な処に居て、聞いた事をただ鸚鵡の如く繰り返し喋っているだけなのに其を自身の持つ論だと言う。机上の空論甚だしいが貴方の場合は其以前の問題であり、理想論より性質が悪い』
「―――はぁ!?」
多少なり理想論の部分はあるだろうとは思いつつも認めていた訳だが、理想論でさえないとは一体どういう事か。其以前って。
「何故だっ!!」
理想論と評されるのであれば、理想無くして日本の未来を語れるかと言い返して遣ろうと思っていたが、その武器も粉々に打ち砕かれて仕舞った。
宮部も松陰も論者のくせに論を語る事を好まない。その絡繰りが玄瑞にはわからず、現実を前に折れて仕舞った様にしか松陰の文面からは受け取れなかった。
『誠には義卿が現実を前に語る事をやめた様にしか思えない』
「久坂ー。舟作ろうぜー」
高杉 晋作が斧を担ぎながらずかずかと玄瑞の家に上がって来る。余りにさらっとした登場の仕方だが、あの高杉である。あの。
ん? 高杉がのんびりした動作で玄瑞の部屋を覗き込む。部屋中が取っ散かっている。畳の縁が見えぬ程に白と黒の色が広がっており、白が侵食する文机の上に肘を着いて玄瑞は頭を抱えていた。
「・・・何遣ってんだ、お前?」
高杉は自分の部屋であるかの様に室内に上がり込み、坐るのに邪魔な継紙を持ち上げてどっかと胡坐を掻く。高杉の手は継紙でいっぱいになった。
「・・・・・・頼む、今日は帰ってくれ」
玄瑞は余裕の無い声で顔も上げずに言った。は? 高杉は断られる事など想像もしていなかったという反応をする。帰る気配も無い。
「なんで?」
淹れてから一度も口をつけていないであろう文机の上の冷め切った茶を高杉が飲み干す。
「おい」
玄瑞は呆れてツッコんだ。まるで我が家の様な寛ぎようである。
「・・・頭の中を整理したいんだ」
疲れ切った様に玄瑞が仰向けに寝転がる。高杉は首を傾けて不可解な表情で玄瑞を見下ろすと
「・・・そんなに眉間に皴を寄せたところで、お前の垂れた目はつり上がらないし締りの無い顔はきりっとはせんぞ」
「ほっとけ」
玄瑞は口許まで締りを失くして苦笑する。お前だって常に緩んだ顔をしているじゃねぇか、と、この重たげな瞼をもつ友人に軽口を叩いた。
高杉は叉も自分の物であるかの様に坐るが為に拾った継紙の中身を読んでいる。
「・・・おい」
玄瑞は叉もツッコむ。高杉はなかなか怖いもの知らずな男で、こういった訪問先での行ないは幼馴染の自分の前でしかしないと思っていたのだが、他所に行っても、大人の前でも気にせず奔放に振舞う。その事を知ってからは、やんわり玄瑞の口からも注意する事にしているのだが、玄瑞も寧ろ高杉側の人間なので「おい」ぐらいしか面倒くさくて言わない。高杉も多分「おい」の意味を解っていない。
「―――ん?久坂、お前、松陰先生と文通してんの?」
・・・読んでんなぁ。玄瑞は初め、眉間を指でぐりぐりしながら暢気にそんな事を思っていたが、
「―――え?お前、松陰先生を知ってんのか?」
―――意外に思って、訊き返した。
高杉は玄瑞と正反対の方向を持っている。いわゆる学校のお勉強というのは嫌いで、ちゃっちゃと済ませて自分の遣りたい事をする玄瑞とは対照的に、強制されればされる程頑なに拒む。そのくせ、放任すれば自分から勉強を始めるのだから面白い奴だ。勉強する事自体は割と好きなのだろう。無駄な知識や知恵ばかりあるが、学校のお勉強に其は貢献しなかった。
寧ろこの時期彼は剣術に熱中しており、論ずるのは苦手というか興味が無かった。ここも玄瑞とは対照的である。
そんな高杉が論述家の松陰の事を知っているとは。而も「先生」と呼んでいる。
「ああ、知ってんよ?俺、松下村塾の塾生になったからな」
・・・・・・お前、今日おかしくね? がばりと起き上がったと思ったら口をあんぐり開けた侭一言も発さずに凝視してくる玄瑞に高杉は問うた。
「いや・・・だってお前から塾に通い出すなんて・・・」
「あそこは他の塾と違う。俺にはわかる」
高杉にきっぱり言われて、玄瑞は益々口を上下に大きく開いた。この男の事だから、どこが違うかと尋ねても説明できないに違い無い。先述した通り高杉はお語りに全く興味が無い。加えて猛獣の様にめちゃくちゃなお坊ちゃんだが、天性の勘というか感覚が人並み外れていたりする。無名にも近い松陰の凄さを高杉の鋭い嗅覚が嗅ぎ取ったのであろうか。
「なんだえ、久坂。お前も塾生になりてえの?」
高杉のからかう様な問いを無視して
「如何やって入門したんだよ?」
と、玄瑞もまた飄々と尋ねた。一応玄瑞も松下村塾見学希望の旨は手紙に記しているのだが、入門どころか其さえも許して貰えない。この差は一体何なのだろう。
「如何、って、別に何にもあるめえよ。こんな矢鱈めったら文書いて、先生と何かあったのか?」
「俺の話はしてねぇよ。併し、よく入門する気になったし、実際よく入ったな。試験とか無かったのかよ?」
玄瑞は本心を隠して其と無く訊いてみる。この自尊心の塊の坊ちゃんが幾ら自身で見込んだとはいえ頭を下げて頼む訳が無い。フェアな遣り方で堂々と勝利を手に入れ、堂々と門をくぐり堂々と振舞うだろう。併し学問が苦手な高杉は、果して。
この時点で玄瑞は気づいていないが、玄瑞も高杉も変にプライドが高い点では同じである。
「試験?」
高杉は試験という言葉はこの世から消滅したのではないかという様な呆けぶりで返した。彼の脳内ではどうも消去していたらしい。
「いや試験は無かった。そんな大きな塾でもないだろ。だけど一度は断られたよ。腹立ったから血判捺して挑戦状を書いて送ったら外に出られないって返って来たから、持てる武器持って部屋壊しに行ったらマッテマシタと言われた」
「・・・・・・」
・・・・・・めちゃくちゃすぎる。
其から、高杉は松陰の塾生となったが、松陰は高杉を門人と言わないらしい。松陰は元より、塾生を所謂教え子とは見ない。
各々の足りないところを補い、高め合う同志として見ている。
松陰は確か、この時期幽囚の身である。
禁錮部屋に高杉が乗り込んだ刻、松陰は農具小屋の様な塾室でにこにこして坐っていたという。そして
『明日から来ていいから、今日は此の侭もうお帰り』
と、言われたらしい。
「―――やっぱり試験じゃねぇか?それ」
玄瑞は至極尤もなツッコミをした。併し、高杉は御託などもう結構らしく、寝転がって他人の手紙をアイマスクにしている。
「・・・おい」
玄瑞が注意する。どこを取っても振り切れた男である。其は松陰にも謂える事で、松陰の好みや求めるものが松陰との手紙の遣り取りも手伝って玄瑞には何と無く理解ってきていたが、之程荒唐無稽な話も無い。
高杉の談は御世辞にも参考になるとは言い難かったが、詰り、坐ってぐちぐち文句を言うよりも行動に移せ、という事である。
玄瑞は目隠しに使われている手紙を引き上げると、高杉の額をぴしゃっと叩く。・・・起きやしない。全く鷹揚すぎやしないか、コイツ。
「ったく・・・」
高杉の談は、単純に松陰の好みに高杉が適った、というだけの話にも聴こえるが。
(試してみるか・・・・・・?)
別に松陰に諂う訳ではないが、わざわざ松陰に嫌われる理由も無い。其に、夷狄が迫り幕府からも快く思われていないこの時期、長州が一つになって国内外と戦うべきだと玄瑞自身は思っている。
手紙を書いた。
併し今回は更に過激な内容であった。手紙を書いても埒が明かない、と書いたのである。直接的な松陰への攻撃、ではなく
『だから、会って話をしましょう。文を交すよりもそちらの方がより効率的でしょう。誠は短時間で義卿を説得する自信がある』
血判・・・は捺さなかったが、其が玄瑞版の挑戦状と謂えた。松陰は部屋を出る事が出来ないので、いついつこの時刻に訪問したいが宜しいかと日時指定もしている。高杉の談で参考にした部分と言えば「会いに行くから待ってろ」と口火を切った点一点であって、玄瑞に挑戦状という意識は無いが、結局は根が似た者同士なのか字や言い回しが少し高尚で丁寧なだけで文章の生意気さや挑戦的な内容は高杉と殆ど変らない。が、若い玄瑞が其に気づく筈も無く。
1ヶ月経っても、松陰からうんともすんとも返事は来なかった。
「何なんだよっ!?」
「久坂ー。舟の続きしよーぜー」
高杉が今日も今日とてふらふらと鍬を持って遊びに来る。久坂 玄瑞が松下村塾に入塾が許されるのは、もう少し先の事である。
―――その頃、肥後熊本では。
「・・・・・・ふっ」
宮部は続けざまに届いた二通の文を読んで、愉しそうな笑みを浮べる。一通は玄瑞からの物だが、もう一通は何と松陰からの物だ。
「―――久坂君は頑張っとるごたる」
宮部は松陰より時折送られて来る文の内容から、玄瑞と松陰の手紙の遣り取りを把握している。
『兄の紹介、実に予言通りに御座りました』
宮部に宛てた文には毎度、玄瑞を褒めちぎる言葉が羅列している。無論、玄瑞はその事実を知らない。
「寅次郎も結構な異風者でな。遣れ遣れさっさと認めて遣ればよいものを。藩内の者の評価を受けつけぬ上に、見込みがあると思ったら一度試さずにはおられまい。入口を厳しくする相手ほど期待しているという事だ」
其にしたっちゃ・・・ 宮部は笑みに苦みを滲ませた。一月も放置なんてあるか。
玄瑞から文が届いたのは遊学以来初めてであった。明らかに松陰からの返事が来なくて如何しようも無いむずがゆさを話の通じそうな誰かにぶつけたかったのだろうというのがわかるが、文章は飽く迄気丈で松陰の松の字も全く出てこない。この少年も相当な頑固か。
「彦斎も久坂君から文が来てよかったじゃなかか。文ば誰かから受け取るのは初めてだろう?」
宮部は部屋の隅っこで床に紙を広げて凝視する彦斎に言った。彦斎はかくかくとぎこちなく首を横に振り
「別に久坂しゃんからの文はどぎゃんでんよかばってん何で僕宛の文は字が平仮名で絵がついとっとですかーー!!」
と、熊本弁丸出しで叫んだ。熊本弁に馴染みの無い読者の為に翻訳すると、久坂さんから手紙が来る事は如何でもいいが自分宛の手紙には何故文字が平仮名で挿絵つきなのかと言っている。而も久坂画伯、絵心がちょっと無いらしく描かれているのが動物だという事はわかるが何の生き物なのかシュールすぎてわからないし、その上その生き物は平仮名の文章と恐らく全く関係無い。何を描こうとしたのか、更に如何してその絵を描いたのか意図が全く不明である。
「・・・・・・赤本だな?」
宮部が冷静に返す。赤本とは江戸時代の幼児の読み聞かせ用絵本の事である。なめている。
「彦斎、君は久坂君に子供だと思われている様だな」
宮部が途中から声を震わせて笑う。あれ程年上と釘を刺しておいたのに。絶対わざとやあん餓鬼は。
(今度会うた時は斬って遣るばいね・・・!)
彦斎の人斬りの焔が燃える。
果して、その何かよくわかんない絵本を彦斎に描き送った玄瑞の思惑はというと。
「あーぁ!書き殴ったらすっきりした」
・・・・・・この男も高杉や松陰に負けず劣らずの大物である。