二十九. 1861年、江戸のつづき~土佐が去る~
「久坂さん」
久坂達三人は、未だ江戸に残る土佐の武市と、薩摩筋の柴田 東五郎、樺山 三円とより頻繁に顔を合わせ、関係を強化していった。
益々大胆になってゆく久坂達の行動に桂は当然気づいていたが・・・・・・黙認していた。桂にとってみれば、久坂が長井 雅楽に手を出さなければ其でいいのである。桂とて尊攘家であり、久坂が信頼できる他藩の同志と共に国事活動をする事に反対はしていない。
・・・高杉や自分の様に藩の立場を担わぬ彼だからこそ、自由に動く事が出来るのだ。
・・・・・・併し、上層部と藩士の足並が揃わぬ以上は、どの藩も上手くいかない。薩長土、何れの藩に於いても状況は芳しくなかった。
「武市さん。土佐藩はどんな感じだ」
どんな、というのは、藩を引っくり返せるか如何かだ。武市等は藩を今在る状態から180度転換させなければならない。
「時期尚早・・・といったところか。・・・・・・」
以前、安政の大獄は彼等に味方して山内 容堂が藩主の座を辞した事は述べた。併し、容堂は大人しく只すごすごと身を引いた訳ではない。吉田 東洋といういごっそうさえ閉口する佐幕派の石頭を参政に据えて往った。
吉田 東洋は長州でいう長井と同じ立ち位置にあり、『海南政典』という、長井の『航海遠略策』に対応する法律を作り、武市が勤皇の志を持つより前に実行していた。
―――武市は、この吉田 東洋を暗殺したいのである。
「・・・・・・」
・・・・・・久坂も、この時期には長井の暗殺も視野に入れ始めていた。
「・・・・・・薩摩はどうって?」
久坂は冷やかな声で稔麿に訊いた。樺山は江戸詰の藩主の茶坊主であり、柴田は用人の仕事をしていて、自由に動く事は叶わない。
「・・・薩摩藩も駄目らしい。藩主の実父の久光公が藩政を握っていて、精忠組(水戸の天狗党・土佐、肥後の勤皇党・長州の正義派と同じ尊攘派)の動きを抑えているそうだ」
「―――俟て」
久坂の口調が俄かに厳しくなる。
「―――前、桜田の志士達の水戸送還の件では、島津公は京へ挙兵すると言っていなかったか?」
山口は黙って大物達の会話を聴いていた・・・確かに、薩摩の言う事はいちいち一貫しない。
だが、久坂はその何が真実かが判らぬ情報を齎す樺山や柴田を疑う事はしない。山口はそこに呆れるも、まぁそこがいいトコか、と思考を切り替えた。
尤も、柴田等も自国の情報に翻弄されている。
「―――あれはがせだ」
「がせ・・・?」
「尤も、薩摩本国から江戸まで離れて仕舞うと藩の動向を掴むのは可也難しいそうだ。特に、薩摩は肥前(佐賀)と並んで秘密の国と云う程だから、情報の真偽を判断する材料が無い。樺山さんは無論がせだと判ったそうだが、他の志士達は藩論が引っくり返ったと思って京に上ったらしい。・・・樺山さん曰く、鼓舞の為に情報を操作して流す事が薩摩では割とある事なのだと」
・・・・・・。掌の上で踊らされる、か。真実を知りたい薩摩志士にとっては不幸である。
久坂は頬杖をついて、・・・うっすらと眼を細めた。
「・・・・・・長州藩は」
と、武市は訊いた。最も情報に窮しているのは土佐藩である。
「・・・状況は良くない」
久坂は宙を睨んだ。ここ最近、久坂の浮べる表情は従来の久坂らしくない。
「まさか藩がこんなに簡単に引っくり返るとは思わなかった・・・どんな裏工作をしたのかは知らないが、長州藩も確実に俗論に傾きつつある」
「・・・其では、実質どの藩も難しいな」
難しい、というのは、例の共闘の事である。薩長土三藩が結託して京へ上り、藩主を伴い、和宮の降嫁、詰り江戸へ下るのを阻止する。―――以前より、計画が少し過激になっている。
「・・・・・・ああ」
久坂は肯いた。現在の藩の情勢では、その様な過激な運動はとても起せそうにない。
「―――拙は一度、土佐に帰る心算でいる」
武市が、許可を求める様な控えめな声で言った。表情は無論この男特有の無表情だが。久坂はにべも無い流し眼で武市の方を見ると
「―――わかった」
・・・と、返した。江戸には遂に、彼等三人以外本当に誰も居なくなる。
「必ず有益な情報を持って再び此処へ来る事を誓おう」
武市 瑞山の不思議なところは、見る者に依って―――而も個人に依って―――彼が誠実な人望家であるか、非情な陰謀家であるか如何かが割れるところであろう。彼は少なくとも久坂 玄瑞や坂本 龍馬、妻の富子に対しては極めて清らかにして誠実であった。何を基準にして彼の相手に対する姿勢が誠実か非情かに振り分けられるのかは、凡才である筆者にはわからない。
口数は然して多くなかったが、時間ばかりが過ぎて仕舞い、長州藩邸に戻ったのは亥の刻(午後10時)頃であった。最後の方には暫しの別れという事で酒を頼んで、盃を交した。武市は酒も妓も好かなかったと伝わるが、酒には異常な程の耐性があり、飲ませると止らず、そこは立派に土佐の酒豪遺伝子を継いでいた。酒量は肥後の連中を遙かに凌ぐ。
久坂は無意識に他人に合わせるクセがあるらしく、山口が自分のペースでちょこちょこセーブしている隣で、正面に坐る武市の話に耳を傾けながら盃を口に運んでいる内に
(こりゃあ・・・・・・)
・・・ふと、自覚する程に酔った。
お兄さん・・・・・・。山口は前作の山崎と同じ位頻繁に呆れている。矢張り血は争えないという事か。
吉田のお兄さんは・・・と思って久坂の先を見てみると、稔麿に至っては盃を手に持った侭額を押えて苦悩の表情を浮べていた。
(えっ。若しかして、長州人って不器用・・・?)
『・・・・・・そろそろ御開きにするか』
武市も流石に二人が心配になり、正常な判断力を唯一保っている山口に言った。
併し、長州人というのはどこまでも理性的な種族らしく、久坂にしても稔麿にしても、素面の時と変らぬ様な足取で旅館を後にする。
・・・・・・だが、念の為、山口が二人の帰途を見届ける事にした。
「いいか。最近は何処も物騒だからな。怪しい影を感じたら、先ず行方を知られぬよう何処かに隠れる事を考えろ。怖いからって走って家に逃げ込む事はするなよ。住いをソイツに教えて仕舞う事になるけぇな」
酔っ払いの絡みというやつか、長州藩邸の門の前でくどくどと山口は指導を受けた。・・・はぁ。とか、・・・はい。位しか最早相槌を打てない。てか、其ぐらい解ってるし江戸の治安に関してはあなたたちよりうんと知っているのですが・・・?
「・・・じゃあ、本当に気をつけて帰れよ」
山口は苦笑する。父親みたいな事をっていうか、まだ実は自分を子供の様に見てる・・・・・・?
山口の姿が見えなくなる迄見送ってから、久坂は長州藩邸に入った。はぁ・・・と悩ましげな息を一つ吐いて段を上がり、障子を開けた。
長州人というのは如何も、陽気な酔い方というのが出来ない様だ。
―――机の上に、書簡がぽつんと置いてある。
「・・・・・・」
・・・久坂は障子を後ろ手で閉め、どっかりと坐って早速文を広げた。墨をたっぷり含んだ丸みを帯びた字が覗き、最後まで掠れる事無く文字が続いた。その書簡の差出主は。
「!」




