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二十四. 1861年、肥州~清河 八郎、玉名へ~

「1861年、肥州」



―――肥後勤皇党は一種の宗教集団である。

・・・と、謂っても、過言ではあるまい。其を象徴する逸話は幾つか存在する。河上 彦斎が神官装束に身を包んで老中の死を占ったというのは、その中では割と知られた話であろう。



この日、党員の全員が白い直垂に立烏帽子、白鞘巻の刀を差した神道儀礼の衣装で、或る者を出迎えた。



当然だが、豪奢ではない。暗くて冷たい木張りの床が寂しく音を立て、その向うには畳が()め込まれただけの殺風景な広い部屋があった。其処に、白い神官装束の男達はずらりと並んでいる。

「・・・」

・・・松田も例外無く白装束に着替え、上座でも下座でもない中央の位置に坐った。向いの列の上座寄りの席には、同じく白装束姿の宮部 鼎蔵が背筋を伸ばして視線を伏せていた。

議論の場には滅多に姿を現さない轟 武兵衛も居る。上座に居た。

河上 彦斎、太田黒 伴雄、宮部 春蔵(宮部 鼎蔵の弟)等を下座として、佐々 淳二郎、山田 十郎(松田 重助の弟)、高木 元右衛門、中津 彦太郎(高木・中津ともに池田屋事変に遭遇、生き残るも、禁門の変にて闘死)等から宮部、轟、斎藤 求三郎、上野 堅五(斎藤・上野ともに神風連の乱で死去)等上座へ続く。

最も上座の客人と向い合う席には、永鳥 三平の兄である松村 大成、福岡藩士・平野 国臣、久留米藩士・真木和泉。何れも九州尊攘派志士の巨魁で、神官である。若手であるが同じく神官の加屋 霽堅(はるかた)や富永 守国がこの儀式の雑用を担っていた。


異様な光景である。


―――玉名のこの神社の次子・永鳥 三平が客人を案内する。永鳥も無論、白直垂に立烏帽子の神官装束である。永鳥ほど神官装束の似合う者は、実兄の松村 大成を除いて他にはいない。

その永鳥 三平の事を、この時の客人であった清河 八郎は

『天下形勢など談ずれども、元来虚容のみの人物にて一向に信ずべき風体の者に非ず。暫くは論ずれども、英雄豪傑の深く相結ぶべき程の者ならねば、良きに致しける』

と、酷評している。英雄豪傑とは、清河自身の事を述べている。要は清河の内に在る英雄豪傑に永鳥の論は響かなかったという事か。永鳥も()ういう性格なので論議中に虫も殺せない様なか弱げな顔で相当な毒を吐いていたが、清河が去った後、兄の松村 大成に

『あぎゃんわまかし(人を莫迦にする者の意)、適当に()なせばよかったとに』

と、公家の様な高い声で哂われたらしい。あの永鳥がである。さすが魔王さまのお兄さまです。

松村 大成の方は清河は其形に気に入った様だ。併し、其こそこの魔王さまの兄が往なしたので、結局はいい風に評価されてはいない。ともあれ。


清河から見れば異様な団体であったろう。(およ)そ攘夷結社の風体ではない。宗教団体の其である。何故か大量の稲荷寿司が席の中央に置かれているし。何なの?コックリさんでも呼ぶ気なの?あなたたち。

勤皇党の頭脳・佐々 淳二郎が交渉役となる。彼ほど神道装束の似合わぬ者も在なかろう。否似合わぬというよりも、神道装束が散切り頭に狐面の彼の胡散臭さを更に引き立て、如何様(いかさま)陰陽師の様な風体となっている。

・・・フン、と清河はその宗教集団を鼻で嗤う。この異様さに呑み込まれない点でも清河は大物である。併し、筆者は清河のいい描き方を知らない。

先ず言った。


「俺を匿え」


と。清河はこの時期には既に幕府のお尋ね者であった。平野 国臣を、松村家は既に隠匿している。

寧ろ動揺したのは白装束の男達だ。とはいえ、騒然としたのは後に神風連となる若手の神官達である。松村を半ば、神格化していた。轟 武兵衛などは興味無げに神酒を飲んでいる。

「・・・如何いう事でしょうか」

佐々 淳二郎が訛りを抑えた愛想の無い声で尋ねる。標準語の練習を結構したのだろう。

その前に、目の前にある郷土料理と酒を勧める。

肥後(ここ)の風通しを良くする」

と、清河は言った。其だけでは言葉の意図はわからない。

・・・佐々、宮部、轟、永鳥、松田、彦斎。彼等はぴくりと身動(みじろ)ぎをした。

「・・・風通し・・・?松村家(ここ)を何かの本拠にすると考えてよかとですか」

流石は佐々、察しがよい。宮部もこわい顔をして話を聴いている。

之がいわゆる寺田屋事件(坂本 龍馬暗殺未遂事件の方ではない)の前日譚の前日譚となる。

文久2年(1862年)に起きた寺田屋事件とは、薩摩藩の尊皇派が公武合体を推進していた薩摩藩主・島津 忠徳の父・久光に伏見船宿寺田屋にて粛清される事件の事を謂うが、その前に島津 久光等薩摩衆達は上洛している筈である。その前の話である。



「薩摩の島津 久光がこの度兵を挙げる。薩摩が挙兵するのに肥後が邪魔だ。薩摩の通り道を作る。貴様等、協力しろ」



なっ・・・!?無論、肥後人達は騒然とする。

()て。松田が我慢ならずに口を挿んだ。

「十郎、薩摩が挙兵するという話は本当か」

松田は厳しい口調で問う。肥後にも薩摩の偵察を行なう者は在る訳で、松田の弟・山田 十郎はその情報を握っている。兄同様にきりっとした厳しさをもついい男であった。その顔が驚愕に満ちている。

「挙兵・・・!?上洛の間違いじゃなっか。上洛の話なら出とる。そろそろ参勤交代の時期だけん、準備にあの藩は慌しかぞ」

松田が燃える様な瞳を細めて清河を睨み、不信と怒りを露わにした。

「・・・・・・京や江戸から遠いからといって、全てに対して疎いと思うなよ」

「そういうところだけはやけに頭が回る。聞いたぜ、『目的地に着く迄黙っているのが薩摩の侍で、駕籠に揺られている間も何処へ行こうとしているのか確認せずにはいられないのが肥後の侍』とな。無能なくせに生き残ろうとするから怯懦(きょうだ)を晒す事になるのだ。そういう奴等がこの国を腐らせているのだよ。そんな奴等をこの国は必要としていない事がわからんとは、愚の骨頂にも程がある」

「なんだと!?」

「うるさいよ」

―――永鳥が冷たい声で言い放つ。肥後人達は永鳥の声に水を打った様な静寂となるが、清河は言うだけあって怯まない。

「・・・参勤交代の名目だったら、熊本藩(うち)の細川しゃんにも御伺いが来とう筈ばってんな。どぎゃんなっとーと、彦斎?」

「まだです」

彦斎が答える。清河が初めて下座に視線を宛てる。

「という事は、島津しゃんの挙兵だか上洛だかはあったとしてももうちぃと先の話ですね。其に、島津しゃんだったら其こそ風通しば良くせんでも熊本藩からお触れの出るけん、其に乗じて挙兵されても肥後は手の出せん。・・・清河しゃん、あぁた肥後の後は薩摩で遊説でしたな?薩摩人の事は流石に挙兵と言ってだませんでしょうが、吹き込む事は出来ゆ。“島津の上洛に合わせて(くに)()け、(うぬ)等が兵を作れ”と。―――薩摩から大量の脱藩者を出させるのに隣国である肥後が邪魔、だけん、玉名(ここ)から脱藩者の通る道を作り、肥後、果ては筑前、筑後、長州迄、脱藩者が自由に往来できるよう協力しろと」


―――抑々(そもそも)、薩摩が何故挙兵する事になっているのかについてここでは説明せねばならぬだろう。当時者となっている肥後人達はわかっていないが、之は長州藩直目付・長井 雅楽(うた)が公にした『航海遠略策』が遠因となっている。

薩摩藩は公武合体派であり、そこは肥後人達も情報を手に入れている。だから話が彼等の間で繋がっていないのだが、長州藩は何気に37万石の大藩である。薩摩藩72万石に名目では遠く及ばないものの、反逆の代名詞長州藩が公武合体に舵を切った事で朝幕に取り立てられる様になるのを彼等は危惧した。

依って、薩摩藩は実力行使で以て中央に進出し、公武合体に由る幕政改革を行なう為に上洛する兵数を増やしたのだ。之は実現し、文久2年4月16日、島津 久光は参勤交代の名目で藩主・忠徳に代って入京している。肥後の彼等は薩摩を挿んでまたまた長州に振り回されている事になる。


若し彼等が遠回しに長州が原因であるとわかっていたなら

(またね・・・・・・?)

(寅次郎の呪いか・・・・・・?)

(しっか)りしてくれよお前達・・・・・・!!)

てな感じで項垂れていただろう。


清河の策は之を逆手に取ったものだ。


即ち、長井が『航海遠略策』を発表した事を耳に入れた時点で薩摩が何かしらの動きを見せる事を予測した。ここが清河の凄い所だ。そして



『大藩薩摩が挙兵する』



と、吹聴して回り、全国の尊皇攘夷志士達を京に集結させる。島津は尊皇攘夷の為に挙兵するのだと志士達をだますのである。挙兵の上、実力行使で以て政権を奪い取り、尊皇攘夷を背景とした幕政改革を行なうとだます。現にその嘘に踊らされて筑前以北の志士達は多くが京へ上った。

併し、肥後人だって莫迦ではない。隣国の情勢くらい探りを入れている。

「其だけじゃない。貴様等も京へ上るのだ。いいか、よく聴け。俺はな、東の方でも浪士どもの尻を叩かなければならんのだ。西国(ここ)での仕事が終ったら、東に戻って俺自身が浪士集団をつくる。まさに“浪士組”だ。無能な浪士どもは数で補わなければ幕府は倒せん」

「おい」

「併し」

感情的になる松田を声で制して、宮部が尋ねる。宮部の態度は落ち着いていたが、どこか燃えている様でもある。

「・・・東と謂えば、将軍の御膝元のある処。佐幕思想の者が多いと聞きます。その様な地で、倒幕の士が果して集まるものか」


「―――貴様は何を言っているんだ?」


清河は宮部の言葉を一蹴した。佐々がぴくりと反応した。宮部の性格では辿り着けない清河の冷酷な策略に、この男は気づいたのかも知れない。

「だから俺がわざわざ江戸に下るんじゃねぇか」

佐々が松田の前に腕を伸ばす。松田が激怒する事を見越しているのかも知れない。其程にこの男の考える事は人を人と見ていない。

「倒幕の士なんざ必要ねぇんだよ。俺の下で動く駒であればいい。佐幕だろうが倒幕だろうが、最低限の事だけ教えて集め、前線に立たせて戦わせればいいのだ。・・・元より、浪士なんざ主人が誰かも判らん奴等だ。薄っぺらい思想なんざすぐに忘れて死に物狂いに遣るだろうさ」

―――その謀略の下集めさせられた者達が、のちの新選組となっている。

「―――!貴様―――・・・っ!!」

「でけんて!松田・・・っ!」

「・・・!離せ、淳二郎・・・・・・!!」

・・・・・・! 宮部は矢張り考えつかなかった様で、眼をかっと開いた侭二の句を継げられずにいる。其はこの部屋に居る一同がそうであった。清河の考えは、全国で立ち上がる志士達を愚弄している。

「淳二郎」

永鳥が佐々から松田を引き取る。佐々はまだ清河に訊かねばならない事がある。

・・・佐々は軽く息を吐き、衣服を整えて立烏帽子を外した。見目通り信心薄い様で、立烏帽子が邪魔になってきたみたいだ。

「見苦しかところば見してすみまっしぇん」

佐々が少し乱れた呼吸で言う。・・・フン、と清河は莫迦にした様に嗤った。

この策謀は後に坂本 龍馬にも打ち明けている様だが、坂本はのらりくらりとした態度で返し、笑って躱している。彼等には其が出来なかった。一種の衝撃体験であった。

「・・・其で、話ば戻しますと、京で義兵ば挙ぐる為に脱藩浪士ば次々と出す。脱藩浪士が出易い環境にする為に―――・・・藩の境を、無くすとあぁたは考えとる、という解釈でよかろうか」

!? 一同は愕きの余り何も言えず、室内は再び静まり返る。・・・・・・皆、佐々に彼等の意思を託して佐々と清河の戦いを見守っていた。



「―――藩をぶっ潰すのが俺の目的だ」



清河は憚りもせずに己の真意を明らかにした。現在の幕藩体制を根絶やしにし、現在の国を滅亡させる事こそが清河の野望であった。

「!!・・・・・・」

「・・・と言いますとしゃがな」

・・・佐々は猶も冷静に話す。反乱しそうな周囲の空気が落ち着かせられる。

「脱藩浪士の次々と増えると、藩もそら抑えるのが大変になるたいな。果して、本物の尊攘志士が脱藩するといえるか如何か。勿論、薩摩にも本物の志士は居りはする。ばってん、脱藩し易いという事は言い換えると気軽に脱藩できゆという事。当然、尊攘志士じゃなか(もん)も上っち来る事になりますたいね」

・・・・・・!薩摩に下って偵察している山田 十郎の顔色がみるみる内に変っていく。薩摩人の性質を彼のみならず彼等は知り抜いている。

「薩摩は他国を侵略する(くに)・・・肥後勤皇党(オレたち)が熊本藩に風穴を開けて仕舞えば、如何に肥後国54万石といえど、大量の薩摩人に勝つる事は難しかな。なるほど、そん要領で西国を薩摩人(じつりょくしゃ)に支配させたら、確かに藩の括りは()うなる」

薩摩の支配域は日向(宮崎県)・琉球も含まれている。薩摩の上はすぐ熊本(精確には人吉藩を挟んでいるが)である。豊後(大分県)は藩が10程度に分れており、熊本藩の介入があったり無かったりする小国ばかりだ。

薩摩は長らく肥後の仮想敵国の側面があった。故に、肥後人の薩摩人に対する不信感は長州征伐で辛酸を()めさせられた長州人よりも根深い部分がある。慶長20(1615)年に一国一城令が発令されたが、肥後は島津氏の北進を防ぐ為例外的に麦島城(1619年に崩壊、のち八代城)と熊本城の二城体制となっている。結局、明治10(1877)年に起きた西南戦争に因って熊本城が焼失したので、現在に至っても両県の仲は良くはない。

人吉藩は、800年以上土着した戦国大名相良(さがら)氏が治めた藩で、明治以降に熊本県人吉市となった。其迄は独立した一個の藩であった。その所為か、同族同士で争い合う熊本人の血が特に色濃かった様で、多数の藩内抗争の末、幕末には藩そのものが疲弊し切って仕舞っている。南の防御は既に緩い。


加えて。


玉名(ここ)は筑前・筑後が近い。玉名の風通しを良くしときゃあ筑前・筑後もあっという間だ。筑紫の奴等はもう京へ向かっている。兵力を集めたくても九州北部はもう手薄なのさ」

その点でも肥後は西の砦、最西端で西国最大の幕府恭順の藩と謂える。

「之からは実力者の時代だ。そうでなければ夷狄になんざ勝てん。藩なんざの括りに縛られていてもな。之からは、国が一つとなって戦っていかねばならん。が、現在(いま)の上に立つ奴等なんぞ、糞の役にも立ちはせん。生きていても食い扶持が増えて害にしかならん。

―――貴様等も、佐幕派である熊本(この)藩が疎ましくて仕方が無いのだろう?だが貴様等怯懦の連中に、藩を潰す事なんぞ出来はせん。だから藩外(そと)から呼んで遣ろうと言っているのだ。その上、この計画で貴様等に手柄を上げさせて遣り、更に京で戦わせて迄遣るのだ。感謝する事こそあれ、断る理由なんざ無い筈だろう」

「何ば・・・・・・!」

「ばとて」

今度は山田が感情的になるのを宮部が防いだ。併し宮部自身にも心の余裕が無く、肥後訛りが丸出しになっていた。

「・・・清河さん、其は一和(いちわ)なのではなく只の侵略だ。夷狄が日本人(われわれ)にしようとしている事と変らない。夷狄が薩摩に置き換っただけだ」

少なくとも宮部等肥後人にとってはそうである。彼等にとって夷狄も薩摩も然して変らない。(いず)れにしても奪われる運命にある。

日本人(われわれ)が一丸とならねばならない事は認めよう。・・・さればとて、清河さん、あなたの言ったその遣り方で国を護っても仕方が無い。夷狄と同じ考え方で国を残しても、所詮其は異人の国なのではありませんか。日本人の皮を被った、只其だけの。

その遣り方は、真の意味での尊皇攘夷とは余りに懸け離れている」

・・・・・・清河は軽蔑を通り越し、いっそ憐憫を込めた瞳で宮部を見た。



「其で肥後人(きさまら)は、同胞を殺して回るのか?」



「!!」


―――肥後人の中に潜む矛盾。清河は容赦無く其を引き摺り出し、彼等の支柱を折りに懸るが如く宮部一人に舌鋒痛罵を集中させた。

「そりゃあなぁ。外の者が排除する事を“侵略”と取るなら、内で“粛清”しなければ不要の者はいつまでも生き残る事になる。他人に迷惑を掛けない点では立派だが、貴様等が藩内で遣っている事は侵略と何が違うのか。通常の法でも、斬り捨て御免は別として、身内殺しの方が罪が重い筈だがな」

・・・・・・ 宮部は呆然と眼を見開いた侭、身動き一つ出来ずにいる。宮部は何も言う事が出来なかった。言ってはならなかった。



「・・・黙るね、あた」



・・・その刻、下座の端から声がした。

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