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十八. 1860年、肥州~歪んだ師弟~

熊本での剣術修行は、迎える側であった彦斎にとっては刺激となったかも知れないが、赴く側となった以蔵にとってはそうとはいえぬかも知れなかった。

之は彦斎の力が及ばなかったと謂えるのかも知れない。以蔵の認識を根本から覆す様な、圧倒的な剣で以て以蔵を打ち砕いておくべきであったかも知れなかった。勝って以蔵の上位に立ち、以蔵にこそ何の為の剣であるかを再確認させる必要があった。三大人斬りの田中 新兵衛と出会う前の当時で以蔵を斬り伏せる事が出来た者は彦斎だけであったろう。轟道場にて本気になったあの局面で闘っていれば、竹刀稽古でも勝てたかも知れぬ。道場は潰れるやも知れぬが。

「―――以蔵」

―――彦斎が扉を開いて、すとんと以蔵の前に湯呑を置いた。彦斎は猫の様に素っ気無い声で

「茶ね」

と、言った。以蔵は光の無い眼で、彦斎をぼんやりと見つめる。彦斎は目尻をつり上げて

「何よ」

と短く訊いた。

「・・・・・・」

・・・以蔵は(やが)て暗い顔で、彦斎の置いた茶を飲み始めた。・・・・・・。彦斎は顔をしかめながらも、例の瞑った目で以蔵が茶を飲み干すのを眺める。

・・・・・・以蔵が湯呑から唇を離した。唇のすぐ下にあるほくろが見えた。

「・・・味の苦情は受け―――「―――・・・この茶、おまんが作ったがや?」

作った?彦斎が眉尻を下げて薄目を開けて以蔵を見る。・・・この男、言葉の遣い方を知らぬのか。

「・・・うんにゃ。俺が“淹れた”茶よ。其がどうかしたとね」

「おまんがこの茶を先生方の処に持って行っとるがや?」

? 彦斎は以蔵がどうしてこの様な質問をするのか不思議に思った。が、別に訊かれて困る事でもないし、特に不快でもない。

「そら、不本意ばってんぬしらは宮部先生の客だけんな。宮部先生の客人なら、宮部先生の一番若()っか弟子の俺が雑事ばするのは当り前の事よ」

「先生の弟子―――・・・」

以蔵が彦斎の脇に挟まる盆を見つめながら、水分を含んだ低い声で反芻した。宮部と武市は別室で、二人きりで対談している。

「・・・いつもがや。―――いつもなのがや」

―――以蔵はいつも、宮部と武市が議論をする時はこの部屋に独りで居る。日に依って彦斎がこの様に現れ、茶を差し入れる事がある。そうでない刻、以蔵は、この宮部の弟子が何をしているのか全く想像できなかった。

「いつも違うね。俺も仕事があっとよ。佐々しゃんが茶ば運ぶ時も・・・」

任務(しごと)とは天誅が」

と、以蔵は炯々とした眼で訊いた。彦斎といえば人斬り。天誅以外に人斬り彦斎に仕事などあるものか。

「そぎゃん毎日殺す奴あって堪るね。肥後の人口のうなるばい。俺は熊本城(おしろ)で働いとると。いいね、余計な気起して御城襲うとあたの先生殺すよ。まだ計画段階で、あたの先生にも関係ある事だけんな」

ぴくりと以蔵が大人しくなる。武市の名前を出せば、面白い位に以蔵は傀儡(あやつ)れた。まるで哀れな犬の様に。以蔵は濡れた眼をした。

彦斎は茶を宮部と武市に差し出した後、其の侭二人の議論を聴いている事がある。其は宮部が「聴きたくはないか」と誘う時もあるし武市が呼び止める事もあるし、彦斎自身が自発的にその場に残る場合もある。参加こそしないが、彼等の議論に静かに耳を傾けている。


一方で、以蔵はどうか。


宮部と武市の議論が始って暫く経ってから彦斎が此処に来る理由を以蔵は薄々感じ取っていたが、其を言葉にする事が出来ない。日本生れ日本育ち両親ともに日本人の生粋の日本人が初めて外国に行って外国語を話す時の感覚と似ている。以蔵は、標準語に限らず語彙自体が少なく、自分の気持ちを言葉で表現する事が出来なかった。

「・・・・・・」

以蔵の言いたい事が伝わらないながらも、彦斎、そして宮部は、以蔵と武市の師弟関係の歪みに気づく―――否、気づいて当然だった。初めに彦斎を議論に呼び止めた際、宮部は無論別室に控えさせている岡田も呼ぼうと誘った。併し、武市は即座に



『土佐勤皇党は、論ずる者と動く者の出る幕は明確に分けている。以蔵めに尋ねても混乱を生むだけでござろう』



と、拒否した。宮部はきょとんとしていたが、要は武市は以蔵を志士とみていない、より大義に忠実な暗殺の道具として完成させる為にこの九州修行を挙行したのだと、同じ人斬りである彦斎はすぐ嗅ぎつけた。既に上司の命令無しに自分の意思で敵を排除している河上 彦斎と会わせる事に依って、以蔵を標的の選択可能な殺人自動機械(ロボット)に仕立て上げる気であったに違い無い。武市の為に人を殺す、という点では、以蔵は疾うに立派な殺人機械である。

が、河上 彦斎は意外にも人の(かたち)を保った人斬りすぎた。

武市は以蔵を姓で呼ばない。姓でなく名で呼ぶのは、親しみが籠っているからではない。以蔵は足軽、本来姓は名乗れない。

姓で呼ばれる事こそ誉れだが、藩の階級に遵う武市は、以蔵を自分と同列には決してみて遣らなかった。

彦斎が以蔵に刺激を与えたとするならば、意外にも人間の感情に纏わる類であるかも知れなかった。

「―――岡田しゃん」

と、彦斎は初めて以蔵めを姓で呼んだ。

「2杯目。あたが淹れなっせ」

剣を交えぬ関係であれば彦斎と以蔵の仲は決して悪くない。人斬りという名に凡そ似つかわしくない、はきはきとした立居振舞の世話女房みたいな者と、無口で併し内心では常に安寧を求めている忠誠心溢れる者は、剣と鞘の如くぴったりと填る性格でもある。

「・・・・・・俺にはわからぬきに」

以蔵は昏い眼を逸らして言った。以蔵は茶を淹れた事が無い。足軽である以前に何かがあったのかも知れなかった。武市の弟子でありながら、武市の客人の為に茶を淹れた事も、武市やその同志達と情報を共有した事も無い。

隔離されている。

(・・・・・・)

之にも以蔵の想う処在ったが、取り留めが無く、漠然としたざわめきだけが心の中に広がるだけで、捉えられない。

「俺が教ゆ。だけんな、次はあたが持って行くとよ」

・・・人斬りの宿命である。一般に人斬りは、其しか出来る事の無い最下層の無能力者が手を染める最果ての境地であると想われている。即ち、人の道を歩む事をやめた、人の理を解さぬ生き物と。

―――何を言っても、何を教えても無駄。無駄でなければ、人斬り以外の道に進んでいる筈だと、誰もが想っている。

されど、人斬りだって人。流石に言語(ことば)は通じるし、人の道理が解らぬのは―――・・・人として扱われなかっただけに他ならない。

訳も解らずに人を斬る。訳も解らずに人を斬らせる。其が人斬りに於ける大半の雇用関係。ある意味で、最も哀れむべき汚れ役の道具。併し如何に道具として扱われようと、人である以上意思が存在する。

(・・・・・・俺も、宮部先生が居んなはらんかったら以蔵しゃんと(おんな)しだったかもしゆんな)




「河上さんの淹れ御座った茶は、美味う御座るな」

武市が背筋を真直ぐに伸ばし、非常に改まった態度で感想を述べる。

「河上君は、御城の茶坊主ですからな」

宮部も畏まらぬ姿勢で茶を飲み、微笑んだ。武市が彦斎を名で示すのは初めての事である。

武市は差別主義者という訳ではない。階級意識が強い面はあるが、まず自身が其を乗り越えてきた者であるから、努力する者や才能の有る者は受け容れる懐の深さがあった。よばぁたれ時代の坂本 龍馬を大器と見抜き、保護する器の大きさと人を視る眼もあったので彼自身も土佐では大器の部類である。

が、其でも人斬りは軽視していた。人斬りは彼の想う努力や才能には入らない。不意を衝き、矢鱈めったらに人を切り刻む事は卑怯で人のする所業ではない。武士の風上にも置けない、という考えであった。彼等に人間としての意思など無い、とさえ思ってもいた。

だが、如何した事か後に武市はこの考えを改め、三大人斬りの一人・田中 新兵衛とは人を斬る事しか知らず、身分も以蔵と同等であるにも拘らず兄弟の義盟を結ぶ事になる。

「・・・・・・土佐へ帰る事になり申した」

武市は湯呑を手で包んだ侭、しっとりとした声で切り出した。宮部は湯呑から口を離し、低い声で

「―――随分と急ですな」

と、言った。

「土佐藩からの命令ですか」

「元来、土佐にては家の当主は藩外留学を禁止されているのです。其を、(まいない)を用いて赦して貰うた。土佐の内情も現在混乱しているなれど、帰るなら今と、同志より文を授かって」

「・・・当主が藩外に出られぬとは、聞いていた以上に酷いですな」

「何、賂を用いれば簡単に通ります」

武市は能面の様に白い顔色を一つも変えずに淡々と答える。南国人とは陽気で遊び上手と云うが、武市には其が微塵も無く、貌も南国人に多い愛嬌ある貌というより凛々しい貌つきであるから土佐人であるとは親告されねば判らない。

「西国に居るから藩の上層部に警戒されているのでは?」

「土佐も今や尊皇攘夷の藩。心配は無用に御座る」

・・・宮部は僅かに眼を細めた。武市の凛乎とした佇まいは完全に其を否定している。武市の才能とは、何ものをも必ず自分のものとする事である。どんな手を使っても手に入れる。土佐を獲りに帰るのだ、其程に土佐は今、藩の機能が弱体化している、と宮部は察した。

「という事は、岡田君も土佐に帰るのですかな」

宮部が以蔵について尋ねる。通常ならば連れ帰るものだが、人斬りと志士の出る幕は違うと断言する男だ。武市はこちらが想像していた以上に早く

「以蔵は置いてゆきたいと思って御座る」

と、答えた。

「以蔵は甚だ修行が足らぬ。かといって一度土佐へ連れ帰れば、以蔵の経済状態では再び(くに)を出る事は難しかろう。そこで宮部さん、貴殿にお願いしたい事が御座る」

以蔵を熊本に置かせ、江戸行の便が出来た際、随行させては戴けぬか。

武市は頭を下げて宮部に頼んだ。併し、宮部の答えは先程の武市と引けを取らぬ程すぐに出ている。後は、言い方であった。

「・・・そうしたいのは山々ですが」

―――西国は尊攘運動が盛んなのはそうであるが、熊本は其でも佐幕藩。之は結局戊辰戦争まで覆らない。

「―――只でさえ私は藩政を追われ、昨今の尊皇攘夷の熱でいつ叉監視される身になってもおかしくはない。我が藩では未だ佐幕派が優勢を保っています。河上君も佐幕を装って城に潜り込んでいる。岡田君を熊本(ここ)に置いた場合、私から岡田君が勤皇党である事が露見する可能性がありますし、江戸随行にしても河上君について行く形になりますから、岡田君に私と河上君の両方と繋がりがあると知れれば、河上君に迄累が及ぶ。そうなれば、肥後勤皇党(こちら)は手駒を全て失う事になりますし、追及は岡田君から土佐の藩内まで飛び火して共倒れになり兼ねない。互いにとって、熊本での滞在は避けたがよいでしょう」

・・・・・・。武市は未練がありそうだったが、彼とて土佐にて白札を取る優秀さをもつ男である。其以上は言わなかった。が、以蔵が同席していれば、間違い無く宮部は叩っ斬られていた事だろう。其位の形相はしていた。

武市が理解していないのは、肥後熊本というこの藩の複雑な体質であった。一通り歴史は調べたが、54万石の大藩と謂えど、一度尊攘派が藩政を握った過去もあり、宮部が口を鎖す程の事がこの藩にある様には感じない。

「―――尊藩の居心地が然程悪くは見えまいが」

「他所者と弱者に優しいのがこの藩ですからな。体面もあります。外からは視えない様になっている。熊本人(われわれ)が冷たいのは、熊本人に対してですよ」

肥後の生み出した負の遺産とされる河上 彦斎でさえも、佐久間 象山の件を例外として、密かに狙い一方的に殺す詰り暗殺は、京に出て来てからは行なっていない。暗殺の対象は殆どが熊本人で、後は長州で数える程。他にも殺した人間は在るが、全て戦いと已むに已まれぬ事情に由る。

其も、対象は立場が彼等と同格以上いわゆる藩士以上の熊本人。

この様に、熊本人には、支配層が郷士以下を虐げる土佐とは少し異なるドロドロとした執心が、同胞の同格の者に対して在る。


「―――ならば」


嫌い合う性質をもつ彼等は藩と足を引っ張り合っている。その所為で有用な人物が埋れ、共倒れとなっている。



「河上さんを土佐勤皇党に欲しい」



「――――・・・」


―――武市の突拍子も無い発言に、宮部は唖然と口を開いた。其の侭、暫くの間言葉を失う。


「え・・・・・・?」


宮部は漸く聞き返した。

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