十七. 1860年、肥州~轟 武兵衛道場~
―――彦斎も以蔵も、剣は我流である。
否、彦斎は勤皇党幹部の轟 武兵衛より、以蔵は武市より剣術を学んでいるから、全くの我流ではない。併し、剣が哲学となった徳川の世に於いて、殺人剣など誰も教えない。其どころか、誰も知らない。
だから彼等は独自で殺人剣を編み出した。「玄斎流」と称した彦斎の片手抜刀術に、名は無いが突風を生み一瞬にして相手の胴体に砲丸の如き大きな穴を開ける以蔵の怪腕の技。何れも実戦では無敵の人の道から外れた剣。だが人の道に立つ剣術道場では、二人が二人とも話にならなかった。
剣の達つ者は熊本にも他に沢山在るが、武市はやけに以蔵を彦斎と戦わせたがる。道場仕合なので無論死ぬ事は無いが、彦斎は毎度の仕合がかわいそうな事になった。
「・・・・・・お、ろ・・・・・・」
どこかの某人斬り漫画の主人公の様な声を上げて彦斎は倒れる。昨今の再燃ブームに乗ってみる。筆者とて熊本人であるが、プライドも反骨精神も皆無ゆえ斯ういうのには寧ろ飛びつくでござるよ。
併し乍ら、抜かずに打たれるのではなく竹刀を手に握って猶打たれ、脳天から湯気を上げて倒れている。
「―――弱いが」
まさに以蔵の言う通り。常日頃冷静で表情を崩す事が無い武市が目を凝らして見る程であった。何ともはや、酷い。
「本気で、遣らぬか」
武市の如何にも剣術師範らしい活が入る。余りの不出来さに擽られるものがあったらしい。之が実戦で以蔵を凌ごうと迄した人斬りの剣術だというのか。
「本気で、遣っとうよ・・・・・・」
彦斎は何とか起き上がるもふらふらと右へ、左へと千鳥足で歩き、ぼごっと土竜叩きの要領で以蔵に撲られ、叉倒れた。真剣を握らなければ、見目通りの剣の嗜みなど無い只の優男だ。・・・表現に矛盾と混乱を感ずるが。
とはいいつつ、之は史実通りである。史実の河上 彦斎は、道場剣術に関しては本当に弱くて仕方無かったらしい。
・・・以蔵が彦斎の襟首を掴んで、ぷらぷらと左右に振った。彦斎はおろおろとされるが侭に揺られている。まさか、人斬りの彼等の対決が、実戦ではなく道場の剣であっさり勝敗が決るとは。
「――――」
―――併し、以蔵がこの人斬り彦斎に勝てるのは逆に謂えば道場仕合の時のみ。道場仕合の時、彦斎は所謂「玄斎流」の構えは出さなかった。以蔵はどこまでも以蔵である。得物が真剣であろうが竹刀であろうが木刀であろうが、以蔵にとっては大した違いが無い。
真剣では無敵の人斬りが、真剣を手離せば只の五尺程度の手弱い男。
人間とは、斯くも脆い砂上の楼閣である。
・・・・・・獣の中でも犬、特に土佐闘犬と呼ばれる種類は、階級に対して非常にシビアである。一寸でも弱みを見せれば、立場を下と見て攻撃する性格をもっている。其は飼い主に対しても同じであり、頭を下げたり、転倒したりといった惨めな姿を晒せば、よく訓練され従順に躾けられていても一瞬にして上下関係が逆転する。仮令事故であっても、飼い主は決して無様な姿を見せてはいけないのだ。
・・・以蔵は武市の横顔を見る。
以蔵は犬ではない。だが、武市が此の世で最も正しいと信じている。
(・・・・・・武市先生は、違う)
人斬りも所詮人だと解っている以蔵には、武市の他に怖れる者は在ない。でも、だからこそ、武市がいつか奪われるのではないかと、武市の正しさが崩れていく事を、最も恐れている。現に、人に過ぎない人斬りに、武市の命を奪われかけた。
併しその恐ろしさを、以蔵は言葉に表す事が出来ない。
―――孰れにしても、人間は脆く儚い生き物。
宮部の紹介で、武市と以蔵は彦斎の師・轟 武兵衛の道場でも稽古をする事になった。轟は永鳥の兄・松村 大成と並ぶ肥後では最も強硬な尊攘派の一人だが、宮部より上の世代というのは、如何いう訳か、口を開く事が無く、第一姿を現さない。引退の年齢といえば確かにそうであるが、前触も無く現れて総てを破壊し尽す様な、不気味な静けさを宮部等の背後ににおわせていた。
武市等の九州旅の目的は以蔵の剣術修行も兼ているが、尊皇攘夷運動の盛んな西国諸藩の動静視察がその真意である。肥後の尊攘派の巨頭に会わせて貰えるのは非常に有り難い。
「―――あの弟子は、相も変らず道場では如何しようもなく弱いな」
後輩に当る弟子からも伸されておろろーっと飛んでゆく彦斎。・・・おろ。と宮部の代りに道場へ武市等を導いた佐々も言葉を失う。
轟 武兵衛は人斬りの直接の師匠に当るだけあってか、宮部や彦斎の様な柔かさは欠片も無く、どちらかといえば以蔵と近い剣呑とした空気を放っていた。この男も恐らく過去に人を殺している。そうでなければ、通常でこの様な剣気は出せない。
・・・彫りの深い面差しで、光が当らず表情を窺い知る事が出来ない。
そして、この武術師範の口は矢張り何も語らない。他者に姿を現す事自体が奇跡に近いが、己は飽く迄武術家だと、宮部以下中間から若者に国の行方については投げている。
「国事など興味が無い・・・・と言えば嘘になるが、年寄りが今更活動の舵を執って何になると思われまする。国家が変ろうとしている折に、態々(わざわざ)先の短い泥舟に乗する必要もありますまい・・・・佐々(こやつ)等の力及ばざる刻、横から掠め奪る程度が似合いよ―――」
轟が抑えられぬ殺気を残して稽古の方に神経を集中させる。殺伐とした空気の残り香で武市は暫く正坐の上に置いた拳一つぴくりとも動かなかった。佐々は苦笑している。が、佐々の額にも一筋汗が浮んでいた。
道場では弟子が彦斎と以蔵を交えて稽古を続けている。彦斎は相も変らず好きな様に転がされていたが、以蔵の剣は、何処に行っても変らない。
「―――!以蔵」
武市が以蔵の名を呼んだ。併し距離的に以蔵まで声は届かない。以蔵は獣のにおいを放っている。以蔵は道場でも飛び抜けて強かった。
ゴォ!!
―――失神者が続出した。防具をつけていようと無意味。防具を破壊する程の面と、竹刀で以てして相手の胴に風穴を開け兼ねぬ程の突き。最早、剣術諸生ではなく道場破りにしか見えない。以蔵は以蔵の遣り方で、足軽の自分より上の身分であろう武士の子達を打ちのめしてゆく。以蔵を前にしては最早、道場の誰が強いのかも判らなかった。
ガッ!!
「―――!以蔵―――・・・」
之まで伸びていた彦斎が起き上がり、正気に返る程の矯激さ。・・・彦斎は竹刀を再び握る。以蔵にとっては取るに足らない存在でも、此処の道場の者達は彦斎等にとっては仲間なのである。
「何の為の剣か其は」
「―――?」
以蔵が冷ややかな眼で彦斎を見る。彦斎は一度も、道場仕合で以蔵に勝っていない。
「・・・道場は流儀を学ぶ為の場処ね以蔵。人ば殺す為ん場処じゃなかとよ。其とも―――・・・こん道場に殺したい奴でも居るんね?」
以蔵はどこまでも以蔵であっただけだ。併し、以蔵が以蔵であって変らない事はいつまでも他者に認めて貰えない事を示してもいる。彦斎が歴史に名の遺る人斬りであるのに道場剣術に於いて滅法弱いのは、我流を封じ、轟道場の流儀で仕合をしていたからである。身体に馴染まぬ流儀を使う事は、己の動きを縛る事でもある。彦斎は我流を発明する前に轟の教えを学んでいたから、我流の剣を道場で使うまいと決めていた。
―――併し、以蔵は凡てが彦斎と逆であった。剣とは、人を殺すものだ。殺人遂行を確実にする為に、師に学ぶのだ。以蔵は、我流の自得から剣の道に入った。
以蔵は、己の剣が既に人を殺せる域に達している事を自覚している。一方で、所謂道場剣術が如何に実戦に於いて役立たないかも知っていた。だから、道場破りの様になるのも仕様が無かった。強ければ剣名も高くなる。
「―――おまんなぞ、相手しても名が上がらんがよ」
「・・・っ、当り前ね。人殺しの剣は日の目を浴びたらでけん―――」
―――以蔵を強くしているのは以蔵の剣である事はわかる。そして其は紛う事無き人殺しの剣。・・・そこに、師匠・武市の流儀の面影は無い。
以蔵はこの九州修行に来る前に一度、武市に随って江戸の桃井道場に入塾している。武市は館主の桃井 直正に気に入られ塾頭となったが、以蔵に関しては目録も遣れないと桃井は言った。
なるほど、技は熟達している。だが、人殺しの剣が滲み出ていた。足の動きや竹刀の握り方、構え等、根本的な部分は武市が叩き直したが、強さばかりはどうする事も出来ない。桃井は、凡そその土佐犬の様な見境の無い攻撃性を嫌ったのであろう。
「―――桃井は剣術を辞めさせた方がよいとまで言ったでござるか」
轟は以蔵の経歴を後姿で聞いた。自分の道場を潰されかけても猶、呼吸一つ変えぬ。
「桃井は“位”・・・・といいます故な・・・・あの下僕の性格を鑑みて、何ゆえ斎藤 弥九郎の練兵館にせなんだ、などという下卑た質問を某は申す心算はござらぬ・・・・只・・・・」
只――――・・・・・轟は―――・・・背中から放つ気を一層強くさせた。
・・・・・・・・・。武市と佐々はその化物じみた気配に表情を強張らせる。
轟は以蔵に一瞥を向ける・・・・・・ここまではっきりと殺気が渦巻いているのに、互いに神経を集中しているあたり、彦斎と以蔵は矢張り尋常ではない。
「少なくともあの下僕に桃井の剣術は必要ありますまい。剣とは所詮、人を斬るもの。その考えは決して間違ってはおわさぬ。桃井は品と位を不必要に求め、形を飾り立てるのも確か。どんなに美しゅう布で包んだところで、刀が纏いたがるは血。『斬れればよい』―――その一点まで刮ぎ落せば、剣の“術”そのものさえも不要。・・・その考え方も叉、ござろう」
―――彦斎が低い等身を更に落し、竹刀を己の身に引きつけた独特の構えを取る―――玄斎流―――なのであろう、之が。彦斎の不思議なところは、剣が道場剣から殺人剣へと変っても纏う空気に其程の変化が感じられぬところである。まるで木偶を両断にするが如く生命を狩る感覚がそこには無い。人斬り彦斎には人斬り以蔵も、只の木偶の棒に映るのかも知れない。
「―――・・・止めなくてよいでござるか」
・・・・・・轟が背中で武市に尋ねる。
「幾ら竹刀であるといえど・・・・死にましょうぞ、あの下僕」
・・・・・・。武市は轟の背中を見た後、遠くの以蔵と彦斎を見つめる。・・・・・・武市は此の侭、弟子と人斬りの死合を見守る心算でいた。
が。
「―――河上君。君はどうも、岡田君が来てから調子を狂わされてばかりいるな」
ギシ・・・ 木張りの床が軋み、轟等の立つ座と反対の側から宮部が現れる。―――冷ややかな声に、燃える様に凍てついた眼。
之が宮部か、と彼と親しき長州人なら思うだろう。
「先生・・・・・・」
「肥後勤皇党が君の力を恃りとしている面が強いところがあるのは認めよう。さればとて、その道を選んだのは君の意思だ。
君には其以外の道も用意した筈。他者の方針に口を出すのであれば、行動を改めるか、道を改めるかして彼等との違いを形にしなさい」
・・・・・・。彦斎は竹刀を腕に垂らし、以蔵に向かって頭を下げた。遠目に見ていた轟等は
「宮部の奴め・・・・また説教で済ましよって」
残念でござりましたな。と轟は背を向けた侭武市に言った。武市が人斬り達に取り込まれていた事を、その背で気づいていたらしい。―――・・・西国の尊攘家は矢張り違う。
夢に迄みた人斬り同士の対決は、どうしても御預けの様である。
「―――岡田しゃんの剣は、彦斎にとったっちゃ良か刺激になりましたばい」
佐々がほ・・・と吐息を漏らしつつ武市に言った。奇しくも佐々と武市は同い年である。一から十迄きちっとしている武市は基本的に佐々の如き放蕩そうな男は好きではないが、思考や言葉の端々に宮部の片鱗が覗えるのを興味深く感じていた。・・・果してこの言葉は、佐々と宮部のどちらのものなのか。
「あの腕ですけんな。斬ろうち思えば百人斬りでち出来るち思っとらす。何も怖かもんは無かったですばってんな、岡田しゃんに脅かされてアイツの頭は混乱情態ばい。―――人斬りが習慣化しとるだけに、考える切っ掛けになったんじゃなかんね」
―――何をすれば之程似通ってくるものなのだろう。武市は佐々と目を合わせ、その後宮部と彦斎に視線を向けた。自分と全く同じ考えをした者が同志なら、どれ程維新が早まる事であろう。自分の意思を、自分の代りに実行してくれる者が在るのだ。・・・その上、信頼できる。
自分の願いを叶えてくれる、そういった者を人は神と呼ぶ事がある。
「・・・其に、岡田君にも岡田君の理念がある」
宮部の言葉に、彦斎はきょとんと目を瞑り眉尻を下げる仕種をする。・・・其は気づかなんだと。
武市の耳に、宮部の言葉は勿論入る筈も無い。




