十六. 1860年、肥州~武市 瑞山と岡田 以蔵~
「1860年、肥州」
久々に肥後が舞台である。
肥後勤皇党と土佐勤皇党は、少し似ている様な気がする。「肥後もっこす」「土佐いごっそう」と、日本三大頑固の一翼を担っているし、藩内での抗争が烈しかったが為に維新の波に乗り後れるところ、更に「幕末の三大人斬り」(薩摩の中村 半次郎を加えて四大とも)を夫々(それぞれ)出しているところで共通している。
―――河上 彦斎と岡田 以蔵。
両党は大まかには同じ道筋を歩んでいる様な気がしてならない。・・・肥後の方が若干、時期が先行していた。だから、幕府が倒れる前に力尽きて仕舞った―――之をいうと、高知県民は怒るだろうか。
「―――尊藩と弊藩は、似ている部分が多いと思われぬか」
武市 瑞山が斯う言った。宮部は茶を飲む為に口を開いただけで、同意を求めるその言葉には特に何も言わなかった。
背が高く、色白く、眉秀でる。武市 瑞山は一見、剣術家である様には見えなかった。併し、六尺近くある以蔵と並んでも存在が圧倒する偉丈夫であった。宮部とは別の意味で廉潔であり、武市の場合は彼自身が澄み切っていて、言動に他意が無い。純粋ささえ感じられた。
年の頃は、武市31、以蔵22。武市は宮部より9下で、以蔵は彦斎より4下であった。人斬りの師弟関係がこの様になっているのも、肥後と土佐を近く感じる理由の一つかも知れない。
「弊藩は上士以上の層が佐幕であり、郷士以下が勤皇と対立している。尊藩も現在、支配層が佐幕と押してはいるが、嘗ては藩政府を掌握し、勤皇政治の実現まで持ち込んだと聞き及んだ。その経緯をぜひ語って戴きたく思う」
・・・・・・。宮部はいきなり団子を口に含みつつ、考えの読めない薄い笑みを浮べた侭だ。客人は、何度郷土の緑茶と茶菓子を勧めても手をつけてくれない。
―――この言動の底まで澄み切った男の言う事は、大方はその通りである。宮部も嘗て、軍学師範として藩の国防の中枢に居た。同じ時期、横井 小楠も藩政の中枢に居る。更に、彦斎の仕える現家老の前の代・長岡 監物(是容)も激しい攘夷論者であった。その何れもが失脚させられ、謹慎の末隠棲の身となっている。
松田 重助も、脱藩前の肥後での立場は彼等と似ている。
「・・・・・・弊藩の遣り方は尊藩には合わぬと思いますよ、武市さん。其に、弊藩の遣り方はこの通り、最終的には失敗している」
武市は土佐で天下を取ろうとしている。事を、宮部は暗に察した。この時世に藩論を統一する事は、天下取りにも等しい大仕事だと思う。
武市は極めて勤勉な男で、どんなものも必ず自分のものとした。勤勉な上に俊才であったから、すぐに自分のものとし、すぐさま自身の指先の如く自在に使った。素直でもあったので、よく他人の意見も聴き、自らの糧へとしてゆく賢い男でもあった。
「合うか合わぬかは貴殿の話を聞いてこちらが決める。語ってはくださらぬか」
慇懃で切実ではあるが、有無を言わさぬ迫力があった。と、いうのは筆者の評で、宮部も、彦斎も佐々 淳二郎も、表情一つ変える事無く其処に坐っている。
武市は斯ういうところがあった。廉潔、純粋、素直。その熟語が意味する通りに捻くれていなく濁っていない。自然、信心深い性質を持ち、人にも影響を受け易かったと謂える。他者の信念や人間性に心酔し易く、叉、武市自身そういった“思想の変革”を求めた節があり、宮部が久坂 玄瑞の事をこの剣術修行期間中に紹介し、後に本人と対面してからは久坂にかなり心服したのだと云う。この様に武市は思想や人物にのめり込み易く、其等を得る為に四方の人物より意見や情報、或いは思想、人物を得て、其等を使役して叉得るという特性をもっている。その為には手段を択ばず、妥協もしないなるほど「いごっそう」である。
故に、か、欲しいものを既に持っている者は大いに参考にするし、時としてその者から得られればという風にも思っている。
「・・・・・・」
数年前の一度の出会いと再会間も無くから武市のこの一面を宮部が知れたか如何かは不明であるが、宮部はそう言われても口を開かない。宮部が何を考えているのかについては措いておいて、確かに肥後の遣り方は土佐藩には全く参考にならない。
土佐の藩士制度は厳格で、上士・郷士・足軽に分れ郷士や足軽は相当な差別を受けてきた、というのは、大抵の幕末小説には書かれている事であるから委しくは述べないが、郷士の代表は坂本 龍馬とこの武市 瑞山、足軽は岡田 以蔵である。
肥後にも無論、郷士はいた。肥後では郷士の事を在中御家人と呼び、地位的には土佐郷士と其程変らない。が、差別などは無かった。寧ろ藩は在中御家人を恃みとしていた面があり、天正15(1587、安土桃山時代)年に起った国人一揆の反省から領内の農民を大切にした為に藩財政は火の車で、其を在中御家人に助けて貰っていた。在中御家人は「金納郷士」の通称があり、豪農や庄屋が郷士株を買う事に依って藩を支援するのである。現代に例えれば、熊本城の建物維持の為の「一口城主」といったところか。昔から肥後は斯ういうトコロはちゃっかりしていた様だ。因みに何故其程迄に藩が領内の農民に対して低姿勢だったのかというと、天正15年に起ったその肥後国人一揆は豊臣 秀吉が刀狩令を発布する直接的な原因となる大規模なものだったからである。
話を元に戻し、叉少し逸れる。肥後と土佐で郷士の扱いが異なる事が上記からわかったと思うが、他にも違いがある。
そもそも肥後には身分差別というものがこの時期薄くなっている。教育の門戸は広く開かれており、藩校である時習館がまず、庶民にも開放されている当時としては画期的な学校であった。身分が低い故に剣術を習えぬ、学塾に行けぬ事は無い。
学問があれば、或いは剣の腕があれば貧窮から脱せるのが当時の世だ。貧乏細川と揶揄された熊本藩が目指したのが之である。
その学を以て、彼等は職階を得、思想を得た。熊本藩は過保護な親の様な存在だった。
土佐はそうでない。藩の中枢が思考力をつけて自立心が芽生えたのと違い、彼等は元より蚊帳の外にいた。藩主・山内 容堂は土着人に冷たい。まるで育児放棄した親の如く郷士以下の彼等を無視し続け、上士が彼等を無礼討ちにする事さえ赦した。そんな、時に人間扱いさえされぬ彼等が、果して藩の中枢に踏み込めるか。肥後とは順序が逆と謂えよう。
ところが、風は今、武市等に向かって流れている。松陰を死に追い遣った井伊の政策。之は土佐の彼等には味方し、容堂は安政の大獄で処分を受け藩主の座を退いた。その上桜田門外の変に依って時流は尊皇攘夷に傾いている。「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」―――・・・そう揶揄される程に、土佐山内家は朝幕どちらにも靡き、コロコロと態度を変える。現在は無論、勤皇に靡いている。
「・・・・・・」
武市は宮部を暫し見つめる。鋭い視線であったが、ふ・・・と目を伏せた。
岡田 以蔵が坐位の姿勢の侭刀を抜いた。抜き打ちの刀が宮部の頭の肉を―――・・・喰い潰しに掛った。四つん這いの獣の如く前のめりに姿勢を屈め、腰を後ろへ突き出して剣を打ち落す。宮部は瞬きをする間も無く斬撃を見つめ、動く間も無く只坐っていた。
ギイィィィィィィィン!!
ザクッ!!
―――佐々 淳二郎の受け止めた剣が真っ二つに折れ、剣先が天井を突き破ったのち床に叩きつけられる。柄の部分も大きな音を立てて床にめり込み、佐々が腕を押えて蹲った。
「ーーーーっ!!っちゃーーーっ・・・」
「武市先生ーーーっ!!」
以蔵が吼える様な大声を上げて武市の許へ引き返す。宮部と佐々に全く眼をくれもせず。
彦斎が武市のすぐ側に居た。刀の切先が武市の頸元を捕え、細い血が一筋既に垂れる。彦斎は瞳孔の細い冷酷な眼で以蔵が地を這う様に此方に駆けて来るのを見、構わず武市の頸の皮をスー・・・と一直線にゆっくりと切った。
一本の線に沿って血が静かに首を伝ってゆく。以蔵が彦斎の肩口に刀を突き入れた。背後にある襖が吹き飛び、縁側を越えて庭に二・三度着地した。彦斎が風圧を避け、ゆらりと身を反して以蔵の許へ駆ける。以蔵も刃を削ぐ様に薙ぎ彦斎の許へ駆けた。
鋭利な刃と鈍重な刃が振り下ろされる。
「以蔵――――――――っ!!」
「おおおおおおおおーーーーーーっ!!」
「河上君」 「以蔵」
人斬りの飼い主が二匹夫々(それぞれ)の名を呼んだ。
「「止め給え」」
彦斎の緋の着物に穿つ様な穴が開く。以蔵の土気色の袖にぴっ、と線が入り、・・・じわりと血が滲んだ。
「・・・・・・君達が仕り合えば只の殺し合いになる」
彦斎が以蔵を睨む。
「・・・余計な事をするな、以蔵」
武市の厳しいその声で、以蔵は我に返り刀を納めた。彦斎も漸く刀を仕舞う。
「ぬしが以蔵にそぎゃん合図ば送らしたとじゃ御座らんね」
彦斎が怒りの矛先を武市に変える。以蔵が、ちんと納めた鯉口を叉すぐに切り
「武市先生に無礼を働くなら直斬り捨てるぜよ、おんし」
と、彦斎を威嚇した。・・・するね。彦斎も叉刀に手を掛ける。
「―――ぬしは人は斬れるかもしゆんが、其だけたいね。誰でも斬れる。ばってん、誰も斬れとらんよ。とんだ鈍刀ね。ぬしは結局、我じゃ誰も斬る事は出来ん」
河上。佐々が諫める。何ばそぎゃんムキになっと。・・・宮部は黙って、眇めた眼で以蔵の方を見ていたが、佐々が止めなければ彼が何かを言っていただろう。何せ佐々は宮部の分枝と謂える程近い思考力を有している。宮部が考える事は、必然的に佐々も考える。
「・・・・・・」
以蔵は口数が少ない。論を立てず、直ぐに剣の柄を抜く。彦斎の言葉も、意味を呑み込んでいるのか、其以前に聞いているのか、否そもそも聴こえているのかさえよく判らない顔をする。
「・・・・・・」
・・・・・・彦斎も鞘に納まった刀を顔の前でゆっくりと水平に抜く。
「刀を仕舞え以蔵。拙も無用な争いは好かぬ。其方等がこの場で仕合う事は、同志討ちにも等しき事。―――されど、以蔵は仮にも拙の育てた志士にある。其を愚弄されて黙っている訳にはいかぬ」
「ならぬしやっか、親玉よ」
彦斎の怒りは治まらない。今此処で、武市と以蔵を纏めて処分する気でさえいる。以蔵が叉逆上しそうになり、堂々廻りの展開になるところで―――
「河上」
宮部本人が遂に彦斎を止める。・・・彦斎は土佐人二人を警戒の眼で睨んだ侭、ちんと刀を納める。
「―――武市さん、あなたがたは九州まで剣術修行に来られたのではなかったですかな」
宮部が姿勢一つ変える事無く、胡坐を掻いた脚に突き立てた手の甲に再び口許を埋めて訊ねる。さも何事も無かった様に振舞うが―――・・・眼には彦斎と共通した冷酷さがあった。
「―――・・・無礼を働いたのは此方で御座った。謝り申す」
武市が両手を床に着いて頭を下げる。室内に居た者で最も其に戸惑ったのは以蔵であった。・・・。宮部は以蔵を見て眼を細めた。
「―――そんな頭を下げる様な事でもない。・・・只、余り我が家をめちゃめちゃにされると家内にな・・・」
宮部が元の眼の色に戻って苦笑する。当然ながらこの田代の家には宮部一人が居る訳ではない。妻のゑ美が遣って来ないか、内心宮部はひやひやしていた。
「―――以蔵、例の物を」
「は」
武市が以蔵に指示し、刀袋を持って来させる。何をするかと思えば、刀袋から刀を出して刀身を確認し、床に置いて前へ差し出した。
「―――銘刀は先刻の御詫びに御座る。以蔵めが刀を折った事、如何か赦してはくださらぬか」
―――業物であった。勢州村正というのが如何にも尊攘志士らしい。長州派が多く持つ物だ。而も新品ときている。
・・・・・・。彦斎は刀をぎゅっと握りしめた。なめている。
「・・・ばっ。始めから先生ば襲わす心算でおらしたばいな」
佐々が右手を摩りつつ眼鏡をずり上げる。宮部も・・・ふむ。と困惑した様に首を傾けて
「・・・折れたのは佐々君の刀なので、私が受け取る訳には。村正は佐々君の方に」
と、言った。併し武市は其では首を縦に振らず、頑として
「肥後勤皇党代表に」
と、譲らない。土佐の藩風を受け継いで、この男も大概な階級主義者である。肥後勤皇党代表は別に宮部と決っている訳ではない。
結局、もっこすといごっそうが出した折衷案は「まず受け取らない」という身も蓋も無いものに行き着いたが、武市は決して宮部に喧嘩を売る心算でこんな事を仕出かしたのではない。否、抑々武市は本当に以蔵に何も吹き込んではいない。
((いぬ))
「・・・佐々君。手首を冷した方が良かろう。結構な衝撃だったからな」
「そぎゃんですね」
・・・・・・以蔵の注意が最後の最後で散漫にならなければ、佐々の手首は骨が砕けていただろう。其位凄まじい一刀であった。
―――彦斎が居なければ、二人纏めて喰い殺されていた。
「―――」
武市は、はらりと襦袢を残して落ちている己の着物の前を見つめた。・・・・・・布がすぱりと一直線に切られている。
以蔵が宮部に抜き身で剣を浴びせた刹那、彦斎も叉刀を鞘より抜いていた。その剣先は以蔵ではなく迷い無く武市に向けられ、一の太刀が布しか切れず浅いと見るや今度は武市の頸を狙った。以蔵には彦斎の一太刀目が目の端に視えたのだろう。だから宮部等を両断する直前で剣がぶれたのだ。飼い主を危険に晒した動揺が大きかったのは、彦斎よりも寧ろ以蔵の方であったと謂えよう。
抜いてからの一刀目は、以蔵よりも彦斎が疾い。
「―――その方は、何ゆえ師を置いて拙の首を狩ろうとした」
武市は彦斎に尋いた。・・・・・・いぬではない。武市は不思議に思った。このけものには分別がある。
「・・・・・・別に、以蔵を斬るのに間に合わなかっただけたいね。仁ば斬ったら以蔵も斬ったとよ。―――只、大本ば絶つ。肥後勤皇党はここで邪魔さるる訳にはいかんね。・・・宮部先生が亡くならなはっても宮部先生の思想は死なん。が、仁達ば生きて帰したら如何なるかわからん」
―――結果的にその判断が以蔵には覿面であった。併し、宮部を護れなかった事は彦斎の精神にもかなり影響している様だ。
・・・・・・隙あらば武市を殺し兼ねない眼をしている。
(―――けものが、思想と宣うか)
聞き分けのよいいぬ、品の佳いいぬだと思っていたが、そうではない。このけものの分別はこのけもの自身が決めている。己で罰を与える相手を選ぶけものなど、三狐神くらいではないか。
(『黒稲荷』・・・・・・)
瞳孔の細い眼がぎらりと光っている。
併し眼が異様にぎらついているのは以蔵とて同じであった。其を視ていたのは宮部 鼎蔵。
「・・・・・・」
そして矢張り、何も言わない。
以蔵とて剣を振り翳す相手は己で決めた。併しその剣を振り翳した意図を、以蔵の口から問い質す事は出来ない。尋いても叉、無駄な事であった。
「・・・ほうほう。試されとんな」
佐々が小さな声音で彦斎に言った。佐々は気楽なものである。彦斎は歯噛みし、遣り場の無い怒りを鞘を握る拳に籠めた。
「・・・・・・まっごあくしゃうつ!」