十三. 1860年、萩~ふみとふさ~
「1860年、長州」
久坂は萩に帰って来た。
高杉は前述の通り江戸を離れているし、久坂も二度目の遊学期間を終え、江戸に残る理由も無かった。一時、休戦。
この時期、久坂の本拠は周布や桂と違って飽く迄長州本国にある。活動を本格化させるに当って長く長州を離れる準備が相応に必要な状態であったし、其に、松下村塾の後輩達が俗論派に拠る弾圧の影響で未だ切り離された侭である。
帰途は肥後人宮部 鼎蔵と一緒であった。
途中、京に寄り、宮部の気に入りの店に入ってうどんを啜った。宮部が注文したのは、例の如く油揚げの乗ったしのだうどん。
―――桜田門外の変以来、京でも異人斬りが横行している。
「・・・・・・ところで、久坂君」
からんと箸が丼の内回りを転がった。が、すぐには店を出ない。宮部は容器を卓の上に置き、正面に久坂を見据えると
「―――君は、何か妙な事を考えていないか」
と、前置きも無く唐突に斯う切り出した。
「!」
久坂はうどんを吹き出しこそしなかったものの、呑み込めず、だらんと麺が口から食み出した。唖然とした眼で宮部を見る。
「妙な眼で見ていただろう。―――うちの河上を」
「妙って―――・・・」
と、久坂は苦笑した。先生こそ何か妙な勘違いをしているのではないかと茶化そうとした。だが、宮部の瞳孔は冷酷な程に透き通り、久坂の真意を見透かしている。
「別に隠さねばならぬ事でもない。我々は寅次郎に、君達と共に攘夷を果す事を誓った。―――必ずや、君達の力になろう」
宮部が意味深長で不気味な笑顔で言った・・・・・・氷の張った湖の如く冷たく、澄んで、併し磨り硝子の蓋が架って底が視えない。
宮部の心の奥底に在る魂胆が視えた気がしたが、其は気の所為だった様だ。久坂は表情を硬くした。
「・・・・併し、之は武市さんにも言わねばならないと思っているが」
宮部は腹の前で手を組んで、僅かに身体を反らした。
「かれの様な者を外に求めたり、つくろうと考える事はやめておき給え。あれは歴とした志士だ。一見阿吽の呼吸で私に合わせている様だが、その実そうでもない」
と、言った。重ねて
「―――かれほど頑固な者も在るまい」
と、言った。殊更山口少年の姿が、久坂の脳裏を掠めた。
―――。宮部は黙って久坂を視ていたが、呆れた様に表情を弛め
「河上君は昔から斯ういうところがあってな。だからこそ藩に召し抱えられた。門外不出の赤酒を持ち出す事が出来たのも、かれが藩の要人に絶大な信頼を受けているからだ。・・・・・・『黒稲荷』の異名の通りに、かれには『守り神』の様な魅惑があるのかも知れないな」
―――恐らく最も守り神の恩恵を享受しているであろう男が冷静に分析する。土佐の武市も自分と同じ事を考えていると宮部が踏んでいる事を知った久坂は、よりその重要性を感じ取る。
(・・・・・・)
・・・・・・宮部は久坂の事を、恐ろしく想い始めていた。
「―――然ればとて、意思の無い生き物など在ない。智に明暗はあろうが。犬にしろ狐にしろ人間にしても、結局は自分の意思に最も忠実である事を忘れるな」
(久坂 玄瑞・・・・・・)
久坂と山陽道で別れた後、西海道への道を急ぎつつ、宮部は久坂との道連れの旅の余韻に浸っていた。旅の会話を想い返すと、気候も其形に冷えてきている時季なのに一筋の汗が背筋を流れるのを感じた。
(あの齢、而もたった4年にして俺や武市さんの考えに追い着くとは、凄まじいな寅次郎・・・・・・之は、彼の通った道の後ろも血腥いものになる。ばとて、良くも悪くもあの若さ。・・・妙なところで足を引っ張られなければいいが)
(宮部先生・・・・・・恐ろしい・・・・・・)
・・・一方で、萩の自宅に戻り身体を寛がせていた久坂も、脳内は忙しなく立ち働いていた。宮部のあの意味深な表情が頭から離れない。
(何を考えているのか全く判らねえ・・・大体あれ、純粋に協力を申し出る表情じゃなかったぞ・・・・・・)
少し前迄は、尊攘派の大先輩として師を仰ぐが如く宮部を純粋に慕っていたが、最近は少し違う眼で宮部を視ている。久坂自身もそんな心境の変化に戸惑いを感じていたが、この頃はまだ、久坂にはその理由を掴めない。
「旦那さま」
からりと障子の開く音と呼び声に、久坂は愕いて身体を跳び起した。何気に矢張り疲れていたのか、寝落ちていたらしい。
「文」
久坂には妻が既に在る。―――杉 文。吉田 松陰の実妹であり、2015年のNHK大河ドラマの主役でもある。筆者、2013年の終りにこの発表を聞いて跳び上がらん程に愕いた記憶がある。この時期は高杉が防長一貞淑な美女・まさ(雅)を、河上 彦斎が薙刀の名手の女性・てい(天為)を娶る等、いわゆる結婚ラッシュとしていいのだが、その中でも文を取り上げるのは久坂の主人公補正であって断じて大河があるから先に出しておこうなどという下心ではないと言い切りたい(本章は2014年の執筆である)。
玄瑞は寝起きの顔を少しだけ紅くした。意外にもこの男は妻を前に軽薄には振舞えない。素直になれない訳でもないのに、何故だかいつも照れくさくなって仕舞う。文に向ける笑顔はほのかに初々しさを残す。
「―――如何したんだ?」
玄瑞は無意識にいつに無い柔かな声で問う。文は、松陰の妹という事もあってか、高貴だ、とか華やかだ、とかいう印象は無く、どちらかといえば質素で垢抜けない。だが、学識の高さと穢れの無さは松陰と共通している。
松陰は、というか人間は、と謂うべきか、自分に無いものや気に入りのものは欲しくなる性質らしい。殊に松陰は、入れ込むと居ても立っても居られない性格であるので久坂を義弟にしたいが為に文を嫁がせたとの事である。そんな松陰の我侭で互いの了解無く婚姻を結ばされる事に初めの頃は災難にも思ったが、この文、噛めば噛むほど味のある女性で玄瑞の探究心を充たしてくれる。顔を合わせる程に気恥かしさが増してゆくのは、逢う度にはっとさせられる文の新たな一面に、己の無知を思い知らされるが故か。
若しかしたら文よりも、玄瑞の方が絆されているのかも知れなかった。
文の居住いはどこまでも純朴で優しい。併し気が確りしている。文も少しはにかんだ様に微笑むと
「旦那さまを訪ねて来られた方がいるのですが」
と、少し低めの声で言った。
「まだ齢十程度の女の子なのですが、心当り、ありますか?」
「子供?」
玄瑞は驚いた。
「ええ。・・・寅兄さまの生徒さんでしょうか―――?泣いておられるので、良かったら早く行ってあげてくんさんせ。其とも中に入れましょうか?」
文が心配そうに表情を曇らせる。玄瑞は乱れた着物の衿を直し乍ら考えるも
「ああ。中に入れて遣ってくれ。茶でも飲んで落ち着いて貰おう」
と、軽薄さと決り悪さの混じった表情で微笑んだ。この二つが合わさると、悪戯っ子の様な貌になる。
文は玄瑞の表情に瞳を大きくしたが、不安げだった表情がふっと和らぎ
「・・・では、お入れした後、すぐにお茶を運んで参りますわ」
と、頬を弛ませた。そして、ぱたぱたと活動的な足音を立てて去っていった。
―――少女の名前はふさ(房)といった。齢は、何と9歳。彼女は泣きじゃくりながら、自分は吉田 稔麿の妹であると伝えた。
「まぁまぁ。茶でも飲んで落ち着け」
玄瑞が苦笑し乍らふさの機嫌を宥める。帰郷早々子供の面倒かと思わなくもなかったが、如何やら徒事ではない様である。だが先ずは
「よく俺の家が判ったな。でも、その様子じゃあ親御さんに何も言ってないんだろう。勝手に来て大丈夫なのか」
と、労いの言葉と暢気な質問をする。玄瑞の飄々とした対応に、ふさも少しずつ心が落ち着いてきたらしく
「だって此処、栄太兄さまが通ってた場処だったから―――」
「ははっ。確かにそうだ」
玄瑞は笑い飛ばした。玄瑞と文の住いは、松本村の文の実家・杉家詰り松下村塾に在る。婿養子でなく玄瑞が文を娶った事に違いは無いが、玄瑞の不在が多い為文は実質結婚前と殆ど変らない生活を送っている。
玄瑞も茶で喉を潤した。ふさの方から言い出すのを俟つが、ふさがなかなか言い出せない。玄瑞が助け船を出す様に
「―――兄貴は、息災か?」
と、問う。するとふさは
「・・・昨日までは息災だったっちゃ。でも、朝起きたら、居なくなってたんです」
と、再び目に涙を溜め始める。
・・・・・・。玄瑞は半分そんな事だろうと思ったと思いつつ、ずず・・・と茶を啜った。
「家族皆で捜してるのか」
「はい」
「兄貴から、手紙は?」
「昨日寝る前、栄太兄さまがふさにくれました。朝になってから読むようにって。父さまと母さまには秘密にするよう言われました」
「言い付け通り、その手紙を今朝読んだ訳だな。其で驚いて親御さんに見せたか、言い付け通り隠していたが結局バレたか何かして、中身を読んだ親御さんに怒られたと」
かわいそうに・・・と思いつつ、玄瑞は稔麿の書いた手紙を読ませて貰った。両親が読み抛てたこの手紙を、少女は兄の形見の様に大切に握り締めている。
「見つからないように手紙を抱いて寝てたけんど、朝起きたら母さまに取り上げられてて・・・」
「ありゃりゃ。ま、そんなもんさ。大人は子供の遣る事がよくわかっているからな」
玄瑞は一笑に付した。子供らしくて愛おしくなる。・・・其にしても、こんな幼気な子供まで苦しむ程に吉田の家の問題は拗れているというのか。まるで別人が書いたかの様に荒々しく粗雑な手紙の筆跡に、玄瑞は眼を澄ました。
「―――本当は、兄さまの望む通りにしたかったのに」
・・・・・・手紙の内容を理解した玄瑞は、齢に合わぬ後悔に泣くふさに少しばかり目をぱちくりさせる。
「見つかって欲しいんじゃないのか」
「見つかって欲しいけんど、見つかって欲しくないんです。外に出れない兄さまは、いつも悲しそうだったっちゃけぇ」
・・・・・・玄瑞は溜息と共に苦笑を漏らした。兄に似てふさも大人びている。幾ら現代と比較して当時の子供の考えが大人だったと謂えどこの年齢でここ迄考える子供はそう在ないだろう。
稔麿とふさの両親はとても厳格だが、どこか偏っている。稔麿もふさもこの齢にして精神が欝ぐ程に周りを見る事が出来るのに、ことふさに至っては文字が余り読めない。玄瑞が
「・・・おふさ、お前はこの手紙を読んだのか」
と、訊ねると、ふさは
「読んだけんど読めない字が多かったっちゃ」
と、答えた。足軽で貧乏な出自がそうさせた様である。稔麿が身につけた教養も、凡ては松陰が授けたものであった。
稔麿がああなって仕舞ったが為に、また女子だからという要素も多分にあるのだろう、ふさには学問所に通わせていない様だ。
「この手紙にはな、無事に長州を出たらお前に真先に手紙を遣すと書いているぞ」
玄瑞は手紙をふさに返した。はてさて、如何したものかと想う。選りにも選ってという想いがある。―――あいつ、脱藩なんてして何処か身を隠す当てでもあるのか。
「どうか、栄太兄さまを助けてください。帰って来なくてもいいんです。栄太兄さまが元気でいてくれるなら其でいいっちゃ」
ふさはどこまでも健気だ。恐らくこの少女は、自分が犯罪幇助しろというとんでもない無茶を目の前の兄さんに要求している現実を露ほども知らないに違い無い。
「あっはは!お前が男だったら兄貴以上の大物になってるな」
罪を犯しても、その基準は藩延いては幕府にとって都合がよいか悪いかに懸っているもので、正義が何であるかも最早判らない。だからなのか、兄が犯そうとしている罪の重さを教えて遣る気にも、兄を連れ戻すと断言する気にもなれなかった。本来の久坂は、先ほど手紙の内容を教えて遣ったのと同じ調子で、自身の起した行動がこの後の出来事にどう係わってくるかを其と無く顧させる折目の正しさを何気にもっている。故に、曲った事は取り返しがつかなくなる前に止める傾向が何気にあるのだが、正義が何処に存在するのかが判らない今、稔麿を説得する自信は無かった。
其どころか、稔麿の遣ろうとしている事が果して大した問題なのかとさえ錯覚しそうになっている。松陰は彼等門下生にとんでもない課題を遺して逝った様だ。
「松下生と関るとまた親御さんから怒られると解っててよく此処に来たな。エライぜお前」
玄瑞は稔麿の犯そうとしている罪の重さを伝える代りに、ふさの苦労を労った。家庭内の諍いに捲き込まれ、流される侭にここ迄来るしか無かった娘をびびらせるのも忍びない。其に彼女は彼女の出来る事を遣っている。
「後の事は俺に任せときな。だからお前はもう帰って、今後は松下にはもう来るな。お前と俺は関りが無かった事にするぞ。親御さんに怒られる事は無いんだからな」
玄瑞は終始あしらう態度で、ふさが元気に戻って部屋を出る迄を見届けた。内心では
(帰藩して早々、前途多難なこった)
と思い、ふさが帰ると脱力して
「―――俺達は、何をそんなに試されているんだ」
・・・・・・思わず独り言を言い、ぽてりと畳に寝っ転がった。




