十一. 1860年、江戸~献杯~
「―――――・・・」
久坂は、高杉、桂等長州の同志と、小塚原の刑場にて手を合わせた。現在の南千住5丁目、此処で、恩師松陰は首を梟された。
「・・・・・・」
・・・・・・肥後勢の宮部 鼎蔵、河上 彦斎、永鳥 三平、松田 重助も、松陰の彼岸参りに立ち会っている。
「・・・・・・桂さん。済みません、肝心な時に江戸に居なくて」
・・・・・・どれ位の刻が経ったか、立ち尽し、祈り続け、刻をも忘れて、誰も声を発する事を憚る情態が続いた。皆が無意識に作り出した尾を引く沈黙を破るのは、いつもこの男。
「・・・謝る事は無い。藩の命令だから当然の事だ。・・・・・・其に、君達は寧ろあの場に居ない方が良かっただろう」
桂の声は平坦であったが・・・語尾が少し揺らいだ。高杉はまだ、頭を垂れて合わせた手を離さずにいる。流石の高杉も、師が最期を送った場処と思うと気丈には振舞えないのだろう。
すー・・・と、宮部の目から一筋の涙が落ちる。
桂は松陰の死こそ見届けてはいないものの、松陰の遺体を確認し、同志と共にその手で彼を埋葬した。桂は幕吏の手が自身に及ぶのを避ける為に江戸を離れていたが、翌年呼び戻され、現在は江戸長州藩邸の有備館用掛に就いている。
・・・共に松陰を埋葬した同志に、宮部と永鳥、松田の肥後勢がいた。
「・・・今夜は宴会すっそ。寅を送らにゃーいかんじゃろう。そんな辛気くさー顔しちょったら、寅も安心して彼岸に帰れんちゃ。元気で送んさい。のう、晋作」
長州藩邸の重役であり桂の先輩の周布 政之助が気持ちを切り替える様に言う。周布も叉、桂と共に松陰の遺体を埋葬した一人だ。
「・・・そうですね。何も良くない報告ばかりではない」
桂も周布の言葉に肯く。
「あんさん達もぜひおいでませ。その方が寅も喜ぶろう。寅だけじゃーなく、おいどま長州藩全体があんさん達には世話になっちょる。長州の名物料理を振舞うけえ、来なさんせ」
周布と宮部達も、松陰の一件より顔見知りとなった。久坂との出逢いや桂の逃亡を手引した事を知って、周布も宮部等を信頼する様になっていた。彼等が自身の藩に居づらい情況なのであれば、保護して遣ってもいい。その程度には熊本藩の方針と熊本人を切り分けて考える事が出来る様になっていた。
併し、宮部は周布の好意には応じず
「・・・いえ、此方の河上が藩勤めの身でありますので。熊本藩からはまだ何かと得るものがありますので、繋がりをもっておきたいのです。其に、其処の松田は大罪人。寅次郎がその身を以て長州藩の疑いを晴らしたというのに、彼を抱え込んでは叉立場が危うくなって仕舞われる」
と、申し出を断わった。が、周布は引かなかった。
「あんさんとこの事情はわかっちょう心算じゃ。やけえ、長州藩邸に来やって貰おう気はせんま。料亭を近くに予約しちょる。のう、小五郎?」
「はい。料亭の台所の一角を借りて、長州藩の板前が用意しております。穴場の料亭でもありますので、人目も少なくて好い場処だと思うのですが・・・」
「長州の怜悧」は当時より言及される程よく知られた話である。彼等は宮部が断わる事を想定して構えていたのだろう。
・・・宮部はまだ乾かぬ頬をゆっくりと綻ばせて
「・・・・・・そういう事でしたら」
と、静かに微笑んだ。深沈とした笑みであった。
「実は我々も、地元の銘酒を持って来ているのです。折角ですから皆で飲んで、快く寅次郎を送りましょう」
「河上君。早速開けよう」
座敷に上がるなり宮部はよく通る朗らかな声で呼び掛ける。空元気つつもどこか沈んだ空気を引き摺っていたのが、一気に断ち切れる。今夜は無礼講ちやーと周布が気軽い口調で言うと、皆思い思いの場所に坐り、長肥老若入り乱れる。すぐに打ち解け、賑やかになった。
(・・・・・・)
久坂は宮部や桂の様子を見て、安堵した。
「玄瑞っ。ほ!」
全員に酒を注いで回っている彦斎が久坂に盃を持つよう促す。さらさらとした赤い液体が盃を満たした。この手の色の酒は未だ嘗て見た事が無く、久坂は盃を軽く揺らして色と香りを確める。
「門外不出の肥後のお国酒“赤酒”たいね」
彦斎が簡単に説明する。
「其にしたっちゃ久しか振りね、玄瑞。あた、酒飲みきるようなったと?」
彦斎が目を細めて玄瑞をからかう。何や彼やで九州遊学以来4年振りの再会である。宮部や松田と違って彦斎は其から一度も玄瑞と会っていなかった。あの頃は玄瑞も酒の味を知る前だったので、あの玄瑞がいつの間にか酒を飲む様になるとは予想は出来ても想像が湧かなかっただろう。
だが彦斎に限っては、玄瑞も同じ様な感じである。
「彦斎だって・・・あぁ、周りが止めるか。見た目年齢で」
「しぇからし!僕はあたが熊本ん来た時既に大人だったとよ!」
ツッコミどころ満載で逆にからかい返される事がわかっているのにちょっかいを掛けてくる。いやはや、わかっていないのか、彦斎はぎゃんぎゃん喚いていたが、桂や高杉、周布や大村 益次郎の長州勢が「え?」という顔で一斉に自分を凝視したので、うっ。と言葉を詰らせる。
「其では。・・・寅次郎と、―――寅次郎の仇を討った、水戸浪士達に」
・・・宮部が低い声で音頭を取った。賑やかな話し声が一瞬にしてぱたりと止む。皆、正坐に坐り直し、姿勢を正して杯を手に持った。
献 杯
―――黙祷を捧げ、杯に口をつけ赤酒を飲む。葡萄酒はキリストの血を示すと云う。葡萄酒が神の子の血を示すと云うなら、葡萄酒よりも色明るく薄い其は、差し詰め人間の儚い血か。
(・・・甘い)
初めて江戸に来た時、つゆの色の黒さや醤油のしょっぱさになかなか慣れなかったものだ。現代でも、一般に南に下る程味つけが甘く北へ向かう程塩辛くなるというから、当時もこの様なカルチャー‐ショックがあったのではと思う。
其にしても、酒もここまで甘いとは。
「・・・甘みゃー」
高杉が久坂と全く同じ感想を口にする。この男は遠慮が無い。
「ああ、之なら其処のちっさいのも許されるんじゃね。俺甘い酒は嫌いだからそっちに遣るわ」
「なんね。長州の若者は玄瑞みたいなのばっかね」
ずばり久坂が内心の秘め事にしていた事を言ってくれる。さすが高杉。久坂には流石に肥後のお国酒をネタとして扱う勇気は無かった。長州の料理も続々と運ばれて来る。
長州の料理は全体的にヘルシーである。長州と言っても海鮮が名物なので素材は如何しても築地辺りから仕入れてくる事になるのだが調理は歴とした長州式だ。河豚料理に岩国寿司、茶蕎麦である「長州瓦そば」、同じ蕎麦粉を使った料理でも趣の全く異なる「そばねっつり」、宴席には必ず出てくるという小豆と白玉の「いとこ煮」、そして「ういろう」―――・・・
その中に交る油揚げ料理。
「!!!!」
肥後勢の目がきらきら煌き、集中的に視線が油揚げ料理に注がれる。稲荷寿司、しのだ巻き、木の葉の下煮など、油揚げだけで長州料理並みにバラエティに富む。別に油揚げが長州名物という訳ではない。
「のー小五郎。なして油揚げなんじゃ?」
彼等の油揚げ好きを知らない周布が油揚げ料理が怒濤の如く運ばれて来るのを不思議がる。桂は苦し紛れに曖昧に微笑んだ。
「油揚げは豆腐より出来ている。油分が少し多いが滋養分もある故、好物でも別に問題無い」
大村が如何にも医者らしい口振りでぱくぱくと油揚げ料理を食べる。そういえば大村も豆腐好きだ。皿に残った最後の一個は悉く大村が攻略していくのだろうなと久坂はにやにやしながら見ていた。
「赤い御神酒に油揚げたぁー、完全に稲荷狐じゃねぇの」
高杉が言い得て妙な発言をする。こいつも随分と詩歌のセンスが身についてきたんじゃねぇの。
「そ。だから“肥後の黒稲荷”」
久坂が言って、赤酒を飲み干す。初めこそ甘いと思ったが、この甘みは久坂としては結構好きだ。元々甘い酒は其ほど嫌いではない。
「あ、ほー彦斎。久坂の酒が空いてるよ」
永鳥が目聡くすぐに気づく。赤酒でよかと!?玄瑞! 彦斎が銚子を振り被って乱暴な口調で訊く。赤酒を貶された事に少なからず腹を立てている様である。
「てかね、なんな、あた!?なーし文にいつも訳くちゃわからん絵ばつけとっと!?文と絵が合ってなかけん内容がいっちょん解らんたい!!而も平仮名ばっかだけん読み難か!」
「んっ?わっ、全然聴き取れねえ」
「彦斎・・・玄瑞にはぬしが何ば言っとっとかいっちょん解らんち思うぞ・・・標準語の練習をしような」
「彦斎!俺にも!」
永鳥が盃を掲げて彦斎に赤酒をせがむ。松田は切り替え早く、久坂等に背を向けたと思うや今度はすぐさま永鳥から盃を取り上げ
「あぁたはいかんです!三平さん」
と、止めた。彼は此の侭保父さん路線でいく心算なのだろうか。筆者としてはそこが心配である。
「まだ1杯しか飲んでないよ」
確かに永鳥も献杯で1杯飲んでいるが、特に変った様子は見られない。心なしか陽気になっている様にも見受けられるが、其は割と歓迎される事だし日頃の彼でも結構見られる態度だ。まさかの酒乱という久坂の読みは流石に中らなかった。
「ここで赦したら一瓶空ける迄飲んで仕舞うでしょうが!」
「重助の分際で俺に口出しするなんて、なかなかな根性をしてるよね」
酒を飲むと人が変るというより、酒の事となると煩悩が一気に膨れ上がるらしい。黒い。此の侭魔王さま路線でいくのではないかと、筆者はそこを非常に懸念している。
「・・・白身魚の天麩羅に衣かけ(唐揚)か。こういうのは熱い内に食べるのが一番美味いんだよね」
新たに女中が運んで来た料理を、永鳥は上から覗き込んだ。天麩羅も唐揚も揚げ立てで、油がじわじわと流れ出ていて、熱々で実に美味しそうだ。
永鳥は徐に唐揚を箸で撮むと、えいっと松田の口に放り込んだ。
! 松田が唐揚を口に含んだ侭固まる前で、永鳥ははふはふと美味しそうに唐揚を食べる。
・・・松田は努めて平静に唐揚を咀嚼するも、目に涙を滲ませる。我慢が出来なくなったのか、口を押えると遂にそっぽを向いて背中を丸めて仕舞った。
「ーーーーっ!!」
んっ?唐揚に箸を着けようとしていた久坂は何事かと思う。先に天麩羅の方を口に運んでいた高杉が
「あー、大名級の舌なんすか」
と、何とも無しに次の唐揚に手を着ける。大名級の舌とはずばり、猫舌の事である。
「そうそう。松田のくせにね」
さらりとひどい悪戯である。松田は口に手を当てた侭振り返り、恨めしそうに永鳥を見る。目には未だ涙が浮んでいる。
「彼は何か宿病でも持っておるのか」
こちらは大人な方達の会話。大村が彼等の保護者宮部に訊ねる。よくもまぁ、こんな個性的な面々を束ねていけるものである。とは言っても、彼等は完全個人プレーで藩自体も分裂しているがな!
「永鳥君は呼吸器に少し難があってですな。日常には特に影響無く、酒も1、2杯程度なら問題無いのですが、何様酒が好きで。其でも一人の仕事の時は断わっている様ですが、今日は慣れ親しんだ相手との宴という事で、羽目を外している様です。酔ってもいないのに」
「・・・・・・肺病ではあるまいな」
大村がずかずかと訊く。愛想も無いのに切り込む様な喋り方に桂は閉口するも、周布や宮部の年長者は動揺しない。二人とも、性格的に堅苦しくないし、慣れている。
「肺よりも寧ろ気管支が弱かった様な」
言いながら、宮部は盃に口をつけた。医学の話をしているので自然と久坂の耳にも彼等の会話が入ってくる。宮部も医学に精しいなと思ったが、志士には医家出身の者が結構多く、宮部の実家も医者である。
「・・・・気管支の薬は割といける。必要になったら言ってくれ」
「・・・・・・有り難う御座います」
宮部が嬉しそうに微笑んだ。大村 益次郎。人情など解さないかの如く無表情で淡々としているが、内実は本人の無自覚に情に篤い。
「ところで、長州藩本国はどんな状況か教えてくれないか、久坂君」
話を聴いていた事に気づいていたのか、宮部が久坂に話を振る。おぉ、其おいどらも気になっちゅら。と周布も話を促した。




