壱. 1856年、肥州~岩本番所にて~
「肥後の産れは過激な男が多い」とは、幕末によく云われた熊本人に対する他藩の意識である。良くも悪くも個人が強い影響力を持ち協力し合う事を知らない。その為、薩摩の隣国でありながら維新の波に乗り後れるも、各思想から際立った人物を輩出した。実学党から横井 小楠、明治10年の西南戦争勃発の切っ掛けとなった神風連の変を引き起した敬神党からは太田黒 伴雄、そして―――・・・
15歳の終りに、久坂 玄瑞は面白い人物と出会った。
之は、九州遊学中の久坂 玄瑞が肥後勤皇党の宮部 鼎蔵と河上 彦斎に出会ってからの話である。
「1856年、肥州」
先ず、久坂について語る前に、彼の出身藩である長州藩が何故徳川幕府と敵対する関係になったのかについて説明せねばならぬだろう。之について知らなければ、久坂はおろか桂 小五郎や高杉 晋作、吉田 稔麿といった今後登場する予定の長州勢の事情の半分も理解できぬからだ。
とは言っても、遡れば徳川 家康の時代になって仕舞うので、長州藩と徳川幕府の不和は初めからという事になる。
長州藩主である毛利氏の祖先は豊臣 秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍石田 三成方に付いていたが、分家である吉川家が毛利を裏切って東軍徳川に内通し、東軍を勝利に導いたうえ(之は予め西軍に勝ち目が無いと確信していた吉川が、主家毛利だけでも救おうとした苦肉の策であると云われる)家康にそののち裏切られるという裏切のオンパレードに依って減封処分を受け、裏日本と呼ばれた僻地である萩に飛ばされた。長州藩士はその際に毛利氏に付いて移った家臣の子孫であり、その後百姓に零落れたものの毛利家の家臣であるという誇りは失われはしなかった。この身分を超えた毛利への忠誠心が藩内での結束を強め、260年の歳月をかけて徳川を駆逐する事となる。
詰り、桂も、久坂も、高杉も吉田も、皆元は毛利家の家臣の家系であり、初対面であっても互いに兄弟の様な意識がある。
そこの辺りの義理というのは、他藩の出身者にはよく解らない。
無論、熊本藩の者達にも長州の事情が解る訳は無い。寧ろ逆である。熊本藩はそういった意味ではどうも恵まれていたらしく、加藤 清正が東軍について関ヶ原で戦功を上げて与えられたのがこの隈本の地で、実に良い政治をした。どんな政治をしたのかにまで触れると本部作第一弾の様に厖大な頁を消費し兼ねないので止めておく。
本作で特筆すべき点は、加藤 清正以後の細川家の治世で、教育に力を入れられたという点である。日本初の身分制の無い藩校・時習館や藩医学校・再春館、日本赤十字の発祥となった家塾・亦楽舎等、教育水準が非常に高かった。元がちいちいぱっぱな県民性である熊本県人だが、別に統制教育を行なっている訳ではないので各人が各々の思想を持ち始める。其に加え、九州男児の典型とも謂われる頑固さや猪突猛進さが各人の思想に拍車を掛けているから、同国人に対する仲間意識も寧ろ薄い方と謂える。
熊本藩は、完全に分裂していた。
その様な自身とは正反対の藩に久坂 玄瑞が赴く事になったのは、偏にその教育水準の高さが目的であった。
扨て、今度は久坂 玄瑞について話そう。
彼が高杉 晋作と幼馴染で高杉と対極を成す秀才である事はよく云われるが、意外にも苦労人である事には余り触れられない。
玄瑞はこの時15歳。その齢にして久坂家当主であり、近く藩医となる事が決っていた。そのエリートとも謂える身分に反し、薄幸だ。家族はもう既に無い。
だからこそ、藩医となる事が決っているのだ。
家族全員が相次いで死ぬという余りに急な事であったので、玄瑞は外の世界を知らずに藩医という一つの世界に留まる事になる。
其ではいけないと手を尽してくれたのが、玄瑞を昔から実の弟の様に可愛がってくれた実兄の友人・中村 喜八郎や口羽 徳祐、僧の月性であった。彼等は兄の友人であると同時に、のちに松下村塾を開く事になる吉田 松陰の友人でもあるのだが、玄瑞が松陰に従学するのはもっと後の事で、彼等が玄瑞を松陰へ紹介した事は一度たりとて無かった。月性上人がぼやく様に
「松陰先生なら君のその才能の方向を存分に定める事が出来るでしょうに」
と言ったのが、玄瑞が松陰の名を初めて聞いた時であった。其でも紹介に与れた事は無い。
この時、紹介されたのも吉田 松陰ではなく九州・熊本の宮部 鼎蔵であった。
(何で喜八郎さん達は、松陰先生に紹介為さらないのだろう・・・?)
紹介してくれるだけでもありがたい事ではあるのだが、当然浮ぶ純粋な疑問である。何せ、最も身近な師ではないか。
(まぁ・・・尤も、藩医になれば遊学もそう出来たものじゃないしな・・・)
萩城に常駐しておかねばならなくなる身としては、江戸はともかく九州には今の時期を逃して行くのは難しくなるかも知れぬ。
併し彼もまだ15。漸く論を呑み込めるかといった年齢だ。遊学を急がなければならなくなった今、偶々機会が逆になっただけなのだと賢い玄瑞少年は理解し、旅程の宿にて目を瞑った。
「・・・・・・あぢぃ」
久留米藩を抜け、南へ下れば三池藩(現・福岡県大牟田市)、少し東に逸れて下れば再び久留米藩の領地・八女という柳河藩の境(現在でいう筑後市らへん)まで来て、玄瑞は思わず手で顔を扇いだ。
まだ3月だというのに、暑い。
萩から日本海を船で行き、小倉より駕籠を乗り継いで福岡、秋月(朝倉市)、久留米と移動して来たが、海から遠のき山に近づくに従って暑さが厳しくなってくる。海風が届かず、熱が内に籠って湿った気候に変り、海育ちの玄瑞には少し辛い。
玄瑞の通って来た経路は概ね九州の炭鉱群と一致しており、のちに八幡製鐵所の主要炭田となる小倉藩と福岡黒田藩共同管理の筑豊炭田、柳河藩と三池藩、肥後藩北の荒尾にかけて広がる三池炭鉱と続いていた。必然的に山の多い道である。が、炭鉱の町は其形に賑わいを見せ、肥後藩にゆくには孰れにしろ山越えは避けられない為、田舎の山道をゆくよりは野盗にも遭わなくて良さそうだった。
が。
「そけ行ったぞ!」
「ぐああぁっ!!」
・・・・・・。玄瑞は物の陰に隠れて、そろーっと炭鉱町で起る人斬りの光景を覗き見ていた。
(・・・・・・おいおいおい。俺はそんなハナシ聞いていないぞ・・・・・・)
当然だ。この時、玄瑞には一人の知人も九州に在ない。口羽に紹介状を書いては貰ったが、口羽が九州の詳しい内情を知る訳ではない。三池藩の治安は最悪であった。
武士と思しき者が手形も無しに番所を突破して筑後へ奔り、其を役人達が追い回している。追い着かれた武士はすぐさま刀を抜き、役人と斬り合いになる。辺りは鮮血が飛び散り、斃れた役人の懐から物を奪って、筑後に向かって逃げて往った。
其も一人だけではない。複数の武士が手を組んで番所を襲い、脱走囚の如く筑後に向かって逃亡する。否、脱走の如くではなく、まさに脱走であった。藩を出るには藩の許可を得、通行手形を番所毎に呈示する義務があるのに、その者達は義務を果していないのだ。
番所の名は岩本番所であった。
この混乱に便乗して、通行人から金品を奪い取る武士も在る。
(おいおい、マジかよ・・・・・・俺、もう軽く1年位剣術遣っていないんだが)
旅装束姿の自分なんて格好の餌食ではないか。番所なんてもう機能していない。通行手形なんてもう見る余裕のある役人なんていないし、自分も混乱に乗じて肥後国に入国したが良くはないか。
「待つね」
玄瑞が何処か脇道は無いかとそろーっと視線を動かすと、頭上から雪の様に冷たい声が降って来た。ゾクリと背筋が凍りつき、視線を正面に戻す。役人を斬った武士達が次々と斃れてゆくが、彼等を斬った人間の姿が視えない。まるで堤馬風が通り過ぎた後の様に、死者の首や顎だけ宙に舞っては落ちて往った。人間の最も硬く密度の高い頭蓋骨までも綺麗に真っ二つに斬れている。切り口が妙に美しく断面が明瞭と見え、血が色取るのは切断した部位が床に落ちて少し経ってからであった。
・・・・・・目撃者は、在ない。
「こっちさんとあっちさん違うね藩。番所に共通語書いとるよしゃんと。しゃんと読むね日本語」
!上空より声が聴こえ、玄瑞は思わず視線を上に向けた。―――次の瞬間、突風が吹いて一瞬眼を瞑り、再び開いた刻には頸元に血の臭いを放つ刃が当って、玄瑞は息を詰めた。
「・・・・・・」
「黙る。あた、賢い子供ね」
―――鮮やかな黄色と赤、緑色で雉の顔を模した面で素顔を隠した者がくすりと哂う。この時期の玄瑞よりも背は低く、女か子供の様であった。着物も女物の様に鮮やかに紅く、返り血を浴びても判らなかった。
高下駄を履いている。
「あた、どう見ても浪士と九州人違うね。手形見せたら普通に通すとよ。三池藩は肥後藩の飛び地3つあるけん、ここの警備はどうも緩いね。飛び地の移動装って浪士脱藩する事増えとるよ最近」
見た目とだいぶ懸け離れているが、この者も肥後の役人らしい。玄瑞に通じるギリギリの標準語で話す。肥後訛りの強い拙い標準語だ。玄瑞が素直に通行手形を呈示すると、仮面の役人は
「あーあたが久坂 玄瑞とやー」
と、まるで見知った名でも呼ぶ様に玄瑞の名を呼ぶ。玄瑞は愕いて仮面の役人を見上げる。役人はきじうまの面に己の手を伸ばし
「こっちさん来て正解だったね。迎え来たとよ玄瑞。僕河上 彦斎いうね。宮部先生から話聞いて、あたば先生ん処に案内来たよ」と、言って面を外した。色の白い顔が姿を現す。だが海を一つ隔てた大陸にいそうな顔立ちで、素っ気無いながらも整った造形の細いつり目のすぐ下にある泣き黒子と、血を塗ったかの様に紅い唇が印象的であった。
―――河上 彦斎。この時21歳。熊本城に掃除坊主として勤める傍ら、宮部 鼎蔵の腹心として密かに活動を始めていた。
「げんさい?名前カブるな」
「・・・・・・急に馴れ馴れしいなっか。ぬし」
直後の玄瑞の反応に目くじらを立てる彦斎。立てても立てなくても目つきがそうなので大した違いが見られないが。
「まぁ、機嫌直せよ。迎えに来てくれた礼に旅の途中で買った稲荷寿司を遣るからさ。なんか好きそうな貌してるし」
「稲荷寿司好きは正解ね。でも馴れ馴れしいはいっちょん好かんよ。敬語しゃんと覚えてくる事ね。宮部先生にそれ言ったら斬るよ」
彦斎が奪い取る様にして稲荷寿司を玄瑞の手から取り上げる。背を向けて頬張る姿は警戒心の強い子狐の様だ。
「いや、まさか子供が迎えに来るとは思わなかったからさ。宮部先生の寺子屋の子供か?」
「・・・・・・あた、何か勘違いしとるね?あの浪士斬ったの誰思っとると?」
玄瑞は無邪気である。彦斎は益々目をつり上げるが元々つり上がっているので特に大差は無い。んもぅ、という風に目を瞑り、眉尻を下げる。どうも其が彦斎のくせらしい。
「僕あたより年上とよ。人からかうもいい加減にするね。じゃなかとその無駄に長い脚切り落して僕の背の足しにするよ」
「!」
玄瑞が刃を向けられた先程よりも驚愕した眼で彦斎を見る。根は真面目な玄瑞少年だ。上下関係はとても気にする。が。
「まぁ、今更敬語で話すのもな。化けの皮は剥れている訳だし」
とても潔い性格でもあった。
「・・・・・・あた、いつか斬って遣るね」
そう言って、ついた飯粒を舐め取る右手とは逆に左手は鯉口を切るのであった。
「・・・・・・おい、おい彦斎」
玄瑞は彦斎について歩いて暫くして、急激な不安に襲われる。軽く一刻はこの状態で歩かされている気がする。
「何ね。大人しゅうなった思ったら、今度は何よ。稲荷寿司は胃ん中ね。返さんよ」
彦斎が振り返り、けろっとした顔を玄瑞に見せる。玄瑞は軽く息を上げていた。顔色も若干蒼い。
「・・・・・・お前、まさか・・・・・・」
「なーん玄瑞、もう疲れとるね?」
彦斎の呆れた声が返って来るのを聞いて、玄瑞は確信した。この人斬り、宮部の処まで自分を徒歩で連れて行こうとしてる。
「駕籠使えよ!あと何里あるんだよ!」
「なん言っとるねあたは。金かかるよ金。うちの藩そんな金無いね。もったいなか」
「時間の方がもったいねぇよ!只歩いてる時間の方が!」
「あと1日もすれば着くね!」
「1日も歩ける訳ねぇだろ!!」
「これだけん藩医の坊ちゃんは体力無いね!!」
遠足は肥後に着いたらおしまいだと思っていたのに、之では肥後に着いてからが本番みたいなものではないか。
はぁーっ、はぁーっ。玄瑞はもうこの言い争いだけで汗だくである。彦斎は汗など一滴も流さず表情には涼しささえ感じるというに。併し気候も長州とは矢張り少し異なる土地に来て、旅の疲れも溜っている。而も之が初めての旅ともなれば仕方の無い事だろう。
「・・・しょんもない。あた、この旅終ったらしゃんと鍛えるとよ。もーし、あた、駕籠ばいっちょ呼んで来ちゃくれんや」
「お前は乗らないのか」
今度は玄瑞が呆れた顔をして彦斎に問う。この小さくて細い身体のどこからそんな体力が湧いて出るのか。
「乗らん、金無い言うたね。駕籠使ってちゃ使わんてちゃ掛る時間は変らんね。なら、自分で歩くが金無駄にならんよ。
あたも行きは金出すが帰り自分で払うとよ。そこまで世話は出来んけんね」
後はもう何と言っているのか判らなかった。方言混りの片言ながらも玄瑞に合わせて会話していたのが、完全に国言葉になり早口で喋る。ちゃっちゃと駕籠を呼んで行先等の注文をつけると、ちょいちょいと手招きして玄瑞を駕籠に押し込んだ。
「熊本城までその駕籠行くね。その後の事は着いたら言うよ」
ぴしゃんっ
言うだけ言って彦斎は扉を閉めた。意外にも面倒見がよい。本人も強調はしていたが、其でもとても先刻人を斬っていた人間には見えなかった。
「・・・・・・すげえ」
玄瑞は自分でもよく解らぬ侭、変に感心した。