第一章 「君の名前」
山奥深くに一本の千年桜が佇んでいた。
桜精は、今日もだらしなく枝に身を預け花弁の隙間から空を見上げる。
「おーい、聞こえているかいー?」
視線だけを声のする方に向ければ、そこには、昨日来ていた少年だった。
「なんじゃ、また来たのか」
「ああ。君に会いに来たよ」
少年の顔を見なくても解る。声色で、少年がどんな表情をしているのか、昨日のうちでわかる。
人は、嫌いだ。すぐに、消え散ってしまうから。
「僕のこと、覚えててくれたんだ」
「…貴様くらいだからな、こんな辺鄙なところに来るやからなど」
「そっか。ならよかった」
少年は、木の根下に座り、肩から下げていた荷物を下ろす。
「ねぇ、君の名前は、なんていうの?」
「名なぞない。好きに呼べばいい」
「そっか。そうだなぁ…」
うーん、と少年は、考え込んでしまう。
物好きな奴だと思った。
人が我をみるたび、恐れるか、化け物と叫び、去っていくものだ。
「そうだ!千代というのはどうだい?」
「千代?」
「そうさ。千代、君は、桜の精なんだろう?」
どうして、わかったのだろう?
「…どうしてわかった?」
「君を一目見てわかったよ。その薄桃色の鮮やかな長い髪、緋色の奥深い眸。それに、今じゃ見慣れない服を君は、着ている」
そうか、もうそんなに時が流れたのか。
我も長いことこうしていたのだな。
ああ、なんと長い。長すぎる時間を知らず過ごしていたのだな。
見慣れない服を着ているのは、そのせいか。
「そうか。もうそんなに去ったのか」
遠く空を見据える。
暖かい風がそよそよと葉を揺らせる。
…寂しいものだな。一人は、さびしい
「それで、どうだい?名前は」
「いいだろう。我も千代という名は、気に入った。今日から我が名は、千代だ」
「それは、よかった」
少年は、寝そべり眠りについてしまった。
規則正しい寝息がかすかに聞こえ、少年のもとへ、ひらりと舞い降りる。
初めて、人と話した。
いや、何回か話したことはあった。
けれど、我の正体を知れば、たちまち顔色が悪くなり、逃げ去ってしまう。
「不思議な奴じゃな…」
一度もこうしてまた、我に会いに来る人の子がいるとは思いもしなかった。
そっと、初めて触れる人。
恐る恐る少年の髪に触れる。
柔らかく、ふんわりと手触りがよく、心地よかった。
「…ん」
ああ、危うく起こしてしまうところだった。
名まで貰ったのだ。
我を怖がらないでほしい。
こうしてまた、明日も会いに来てくれるだろうか?
「ダメじゃな。こやつは、人の子。もう来まい」
桜精は、固く動かなかった心を固く閉ざし、また、枝の上で、今度は、少年と同じように暖かい日差しに睡魔に襲われ、眠りにつくのだった。